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1: 名無しさん@涙目です。(岩手県) 2011/06/15 14:21:53 ID:BPIbKW2c0
給仕役は見た…刺し身を避けたペリー使節団

日米和親条約を結ぶため来航した米海軍ペリー提督らと、日本側全権の「首席応接掛(しゅせきおうせつがかり)」として、横浜で会談した林大学頭(はやしだいがくのかみ)の従者、竹田鼎(かな え)の日記が、横浜市で見つかった。
ペリー来航の舞台裏が、従者の視点で生き生きと語られている。
竹田の子孫から日記を譲り受けた、遠縁の中嶋宏子さん(70)(横浜市)が4月、横浜開港資料館 に持ち込んだ。日記には、1854年3月(嘉永7年2月)の横浜での交渉と、条約の細則を詰めるため、下田(静岡県)で同年6月頃に行われた交渉の際の出来事がつづられている。
初めての交渉となった同年3月8日、日本側は、米艦船が遭難した場合は船員を救助すると回答。
会談後に催した日本料理の昼食会で竹田は給仕役を務めた。米軍の士官たちは刺し身には手をつけず、 「あまたるく味重キものを好みて淡薄なる物はきらい様子なり」。士官が持参したナイフとフォークに、「銀色之かねニて製したる匙(さじ)並ニ熊手如(ごと)きものを用ひ小刀ニて切り食す」と、竹田 は驚いている。
食後に葉巻をくゆらす士官に、竹田が自分のキセルを手渡すと、士官は一服つけ、周囲の同僚に「得意之様子」だったという。
2回目の会談があった同17日、日本側は下田開港を示唆。会談後、米側は林ら幕府要人に洋酒などを贈った。同22日の日記には、「甘味・甘酸にして少し苦味ヲ帯ぶ」と従者仲間で味わったワインの感想が記されている。
条約調印式が行われた同31日には、「彼(米側)江之応接も今日限り」。「久しく接話(せつわ)有」 と、通訳付きでしばしの歓談があった。
日記を分析した横浜開港資料館の西川武臣副館長は「ペリー来航に関する史料に信頼度の高い記録が加わり、日米交渉が友好的に行われたことが改めて裏付けられた」と話す。日記は7月24日まで同館で開催中の開館30周年記念展で展示されている。

http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20110615-OYT1T00343.htm
【依頼599】

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