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1 :人間七七四年:2008/12/12(金) 09:28:53 ID:jDJanVHM
こんな話を知っているか? 


時に戦国時代、越後に助六なる農民がいた。普段は物静かな男であった。が、一度戦場に出ると、鬼そのものであったと言う。
その助六が片鱗をみせたのが第四次川中島合戦であった。
甲冑も武器も持たない助六が単身で信玄本陣を急襲。武田本陣は大混乱に陥った。
信玄をあわやと言う所まで追い込んだが、信玄もさすが。間一髪、軍扇で一撃を止めた。その時の軍扇は、今も川中島古戦場の博物館に助六のカマが刺さったまま保存されている。川中島合戦で助六が奪った首なんと246。
その後、謙信が武士に取り立てようとする。が、「あんたに夜の相手させられるからやだ」と丁重に断った。
謙信が死ぬ間際、「助六が越後にいれば上杉家は安泰だ。」と漏らしたと言う。
軍神、上杉謙信にも認められた最強農民である。


100 :人間七七四年:2009/12/21(月) 07:04:43 ID:/abM3DBX
たまにはGHQの圧力で戦後消されて埋もれた豪傑を語ってもいいよな?

関が原で散った“首切り茂吉”の一粒種が高野山に落ち延び出家して
若年ながら、大坂の陣に駆けつけ勇名を馳せたことを。 
その名は茂蔵、“首刈り茂蔵” として後年庶民の英雄として歌舞伎などで大いに人気を博した。
茂蔵は少年の頃、寺を飛び出し大坂の河原者として幾年か過ごしたという。
その河原で知り合った後藤又兵衛との縁で大坂城に入城したといわれている。

こんな逸話が有る。ある時、軍議の席に列している後藤又兵衛の従者として
廊下に控えていた酷く貧しい身なりの茂蔵を、淀殿が見咎め激しく蔑んだそうな。
その刹那、茂増は疾風の如く淀殿の眼前に近づき右に左と平手打ちを繰り返し
裂帛の気迫を込め「なめっだらねぇーぞ!!」と一喝したと史書に有る。
その直後、淀殿が茂蔵に恋に似た感情を持ったのは年齢貴賎を越えた男女の妙である。
軍議に同席していた真田幸村は 、「男子たるもの茂蔵たるべし」と唸ったという。

茂蔵が首刈り茂蔵と称せられる所以となった、大坂夏の陣を語ろう。
その日の茂蔵は凄まじかった。迫り来る徳川方を古びた錆びた鎌一つで次々と
首を刈っていくのである。稲穂を刈るが如く次々とである。しかし多勢に無勢
身を寄せる後藤隊は徐々に潰走し、茂蔵は駆けに駆け、真田隊に合流したという。
真田隊に合流した茂蔵は徳川本陣に突撃する機を得た!されど味方は次々と
討ち取られていく。天賦の才に恵まれた茂蔵とて限界がある。
さりとて茂蔵は最後の精魂を振るい出し家康公に一鎌あびせたのである!!!
しかし茂蔵の錆びた鎌は長年の激戦で刃が既に使い物になってなかった・・・
事切れた茂蔵に、家康公は日本一兵(ひのもといちのつわもの )よ、と称えたと語り継がれている。

この伝承は高野山に残る高僧の日記に、“農民兵親子首切鎌”と題され今に至る。
茂蔵討ち死にの齢、命日は、奇しくも父茂吉の初陣と同じ齢、同月同日であったと記されている。










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