1 :日本@名無史さん:2012/07/22(日) 17:30:21.00
歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。また簡単に反証されてしまうようなものばかり。

だが、
「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
という説だけは、真実の気がする。

当時知っていたのは、禁裏と家康側近。そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。

筆跡鑑定の結果は、
TV東京→光秀もしくはごく近い近親者
NHK→本人ではないが似ている字があり親戚の可能性に言及
だった。



明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名。

明智光秀 ナルキッソスの黄昏

光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。

明智光秀 ウィキペディア




天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

天海 ウィキペディア







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