明智光秀

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    1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/01/30 08:43:21 ID:wzWtpPyDP
    マジで謎だよね

    【戦国最大の謎 秀吉は家康を何故に潰しとかなかったのか?】の続きを読む

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    1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/01/16(水) 03:06:22.64 ID:G1rcDSMBP
    東海と関西の一部しか手に入れてねーじゃんwwww


    【信長って天下統一まであと一歩だったって嘘だよな?】の続きを読む

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    181 :人間七七四年:2007/10/10(水) 15:07:02 ID:oGz26LwK
    ぜひトリビア教えて下さい 






    92 :アラジン:2006/09/15(金) 20:17:34 ID:0cibedR7
    ルイス・フロイス等が書いたとされる、






    信長の超リアルな水彩画がある。   
    俺、その絵を見て驚いた!男前。ヒゲは長くて、頬はこけてて、鼻は高く、顔長若い時の役所光司に似てた 
     

    93nobunaga
     






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    1 :人間七七四年:2007/11/15(木) 15:11:50 ID:PEX2N3D3
    人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり 織田信長

    人に尋ねて出た知恵は本当の知恵ではない 豊臣秀吉

    大黒天が常に上を見ないのは、一朝事ある時にその頭巾を脱いで上を見るためであり、
    そこに大黒天の極意がある。頭巾ばかり注意して、それを脱ぐ時のことを知らないのでは駄目である 徳川家康






    【【】武士の格言名言辞世の句【】】の続きを読む

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    1 :日本@名無史さん:2012/07/22(日) 17:30:21.00
    歴史小説家が自分の小説を売れるようにするために、歴史を面白おかしくいじくり回し、様々な新説が誕生してきた。どれもこれも小説ネタとしては面白いが、荒唐無稽なものばかり。また簡単に反証されてしまうようなものばかり。

    だが、
    「惟任光秀が小栗栖で命を落としておらず、後に天海大僧正になって徳川幕府を支えた」
    という説だけは、真実の気がする。

    当時知っていたのは、禁裏と家康側近。そして光秀と共に戦ったことのある徳川家武将の一部のみ。
    箝口令が敷かれていたと思うし、書面に残してもいないだろう。
    ただ、徳川宗家や各武将の直系の末裔は、口伝で伝え聞いていると思うのだが。。

    筆跡鑑定の結果は、
    TV東京→光秀もしくはごく近い近親者
    NHK→本人ではないが似ている字があり親戚の可能性に言及
    だった。



    明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戦国大名・織田信長の重臣の一人で、日本史の謎の一つとされる本能寺の変を起こした事で有名。

    明智光秀 ナルキッソスの黄昏

    光秀は小栗栖で死なずに南光坊天海になったという異説がある。天海は江戸時代初期に徳川家康の幕僚として活躍した僧で、その経歴には不明な点が多い。

    明智光秀 ウィキペディア




    天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。

    天海 ウィキペディア







    【歴史研究24年。光秀=天海だけはガチだと思うのだが。】の続きを読む

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