小野妹子

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    1: 本当にあった怖い名無し 2007/09/11 13:04:05 ID:ulCYzmAF0
    滝沢馬琴の「兎園小説」その他に載っている「うつろ舟」の話。
    高千穂峰の天の逆鉾。
    三世紀頃に消えた銅鐸の謎。
    聖徳太子の「日本国未来記」。
    南朝子孫のゆかりの寺に祀られる、「草薙剣」。
    源頼朝の死の謎。
    大坂「南宗寺」に伝わる徳川家康討ち死に説(首塚があるという)。

    眉唾ものの伝説から、今だ謎である事まで日本史においては様々な
    奇談が伝わります。
    上記に挙げた例はほんの一部でまだまだ奇談はあるでしょう。
    私の知識は古く、すでに解明されたこともあるでしょう。
    そんな様々な出来事を列記していき、意見を出し合い、まとめていきませんか?


    【日本史における不思議な出来事、奇談。『聖徳太子の幻の予言【未来記】』『糸満市に残る伝説』】の続きを読む

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    1 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 09:33:43.57
     中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。 

     中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。 
    祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。 
    884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 

     百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の 将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。 

    http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 

    上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い 
    =「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から 
    http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg 


    3 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:28:30.25
    別にこの記事の時代に、もう日本の国号使って居ても、別段驚かないけどね。 

    小野妹子が隋に持っていった、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」のいわゆる聖徳太子の国書が607年で、隋からの答礼使裴世清に持たせた返書「東天皇敬白西皇帝」がその2年後だし。 

    東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。 




    7 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 17:32:08.68
    また意外なとこから出てきたね。 
    白村江の敗戦のショックでわずか15年の間に大急ぎで改名したんだろうな。 


     






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