戦国時代

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    1: 縞三毛(秋田県) 2012/10/19(金) 19:49:06.94 ID:nZ1suH6e0 BE:677213344-PLT(12001) ポイント特典
    ■ほっこりするエピソード

    ポルトガルからやって来た宣教師ルイス・フロイスが信長さんに初めて会ったのは、二条城を作っている工事現場の橋の上でした。 その時、信長さんはこの遠来の異人に「年齢はいくつか、いつ日本に来たか?ポルトガルから日本までどのくらいの距離か?」などの質問と共に「お主の両親はポルトガルでお主に会いたいと思ってはいないのか?」と聞いています。 つまり「両親は心配してないのか?」と聞いたわけです。
    好奇心を満たす質問をする一方で、相手の肉親を気遣う一面を持っていたのです。


    ■迷信やインチキが大嫌い

    領内に不思議な力を持つという「無辺」という名の僧侶がいることを聞いた信長さんは、この僧侶を安土城に召し出します。「どこの生まれか?」と信長さんが 聞いても「無辺」と答えるだけ。「唐人か天竺人か?」と聞いても「修行者」としか答えない。頭にきた信長さんは、なんと「火あぶり」の準備をさせます(笑)。これに慌てた無辺は「出羽の羽黒生まれ」と答えます。そこで信長さんは「不思議な力があるというなら見せてみろ!」と迫ります。ところが、当然と言うべきか無辺は何もできません。信長さんは、髪の毛を所々切ってヘンな髪型にした上で、縄を打って城下から放逐したのです。

    この話には後日談があります。

    その後、無辺のしてきたインチキな所業を報告された信長さんは、「先々のためにならん」と言って、「捕まえてこい」と自分の領内に命令します。捕まった無辺は信長さんに詰問された後、 殺されました。面白のは、この無辺を宿泊させていた石馬寺の栄螺坊も詰問されたことです。「なんでお前はあんなヤツを泊めてるんだ」というわけです。栄螺坊に言い訳は「石馬寺御堂の雨漏りを直すのに、無辺の人集めの力を借りた」というものでした。不思議な力があるという評判を利用してお金を集めたのでした。

    それを聞いた信長さんは、なんと栄螺坊に銀三十枚を出してやったのです。「しょうがねえなあ」という気持ちだったのでしょう(笑)。






    4: コドコド(岡山県) 2012/10/19(金) 19:52:41.90 ID:+qU69dbf0
    茶目っ気でも殺されるんじゃねぇかw

    5: ロシアンブルー(茸) 2012/10/19(金) 19:54:52.06 ID:a3ZzW8aW0
    殺してんじゃねーかw

    180: ハバナブラウン(東京都) 2012/10/19(金) 23:34:29.62 ID:CHj6a++n0
    なんかトンチを効かせるのかと思いきやサックリ殺してるじゃねーかw










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    江戸図屏風に見る、初期の江戸


    1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/11(日) 02:27:52.41 ID:OYGrTdIgP
    秀吉らしくなくね? 
    結果、豊臣家は滅亡したし 
    昔から気になってたんだ






    【秀吉って何で家康の権力をそのままにしてたの?】の続きを読む

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    武田八陣形


    1 :人間七七四年:2009/12/03(木) 20:25:19 ID:EPnbP4lG
    一国すら統一していない大名が一万人動員したり 
    一国しか領有していない大名が数万人動員したり 
    と戦国時代の動員戦力は誇張が激しい時があります。 
    このスレでは合戦の動員兵力や大名の動員兵力を検証したりしましょう。 











    【戦国時代の動員兵力を語るスレ】の続きを読む

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    石田三成の紋
    大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万と記された紋を用いた。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされる


    1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/11/03(土) 04:51:48.84 ID:kmijuE+VP
    のぼう城を見て、関ヶ原の戦いも見て可哀想になってきた 

     






    【石田三成って何であんなにも人から嫌われてたんですか?】の続きを読む

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    1 :人間七七四年:2008/12/12(金) 09:28:53 ID:jDJanVHM
    こんな話を知っているか? 


    時に戦国時代、越後に助六なる農民がいた。普段は物静かな男であった。が、一度戦場に出ると、鬼そのものであったと言う。
    その助六が片鱗をみせたのが第四次川中島合戦であった。
    甲冑も武器も持たない助六が単身で信玄本陣を急襲。武田本陣は大混乱に陥った。
    信玄をあわやと言う所まで追い込んだが、信玄もさすが。間一髪、軍扇で一撃を止めた。その時の軍扇は、今も川中島古戦場の博物館に助六のカマが刺さったまま保存されている。川中島合戦で助六が奪った首なんと246。
    その後、謙信が武士に取り立てようとする。が、「あんたに夜の相手させられるからやだ」と丁重に断った。
    謙信が死ぬ間際、「助六が越後にいれば上杉家は安泰だ。」と漏らしたと言う。
    軍神、上杉謙信にも認められた最強農民である。


    100 :人間七七四年:2009/12/21(月) 07:04:43 ID:/abM3DBX
    たまにはGHQの圧力で戦後消されて埋もれた豪傑を語ってもいいよな?

    関が原で散った“首切り茂吉”の一粒種が高野山に落ち延び出家して
    若年ながら、大坂の陣に駆けつけ勇名を馳せたことを。 
    その名は茂蔵、“首刈り茂蔵” として後年庶民の英雄として歌舞伎などで大いに人気を博した。
    茂蔵は少年の頃、寺を飛び出し大坂の河原者として幾年か過ごしたという。
    その河原で知り合った後藤又兵衛との縁で大坂城に入城したといわれている。

    こんな逸話が有る。ある時、軍議の席に列している後藤又兵衛の従者として
    廊下に控えていた酷く貧しい身なりの茂蔵を、淀殿が見咎め激しく蔑んだそうな。
    その刹那、茂増は疾風の如く淀殿の眼前に近づき右に左と平手打ちを繰り返し
    裂帛の気迫を込め「なめっだらねぇーぞ!!」と一喝したと史書に有る。
    その直後、淀殿が茂蔵に恋に似た感情を持ったのは年齢貴賎を越えた男女の妙である。
    軍議に同席していた真田幸村は 、「男子たるもの茂蔵たるべし」と唸ったという。

    茂蔵が首刈り茂蔵と称せられる所以となった、大坂夏の陣を語ろう。
    その日の茂蔵は凄まじかった。迫り来る徳川方を古びた錆びた鎌一つで次々と
    首を刈っていくのである。稲穂を刈るが如く次々とである。しかし多勢に無勢
    身を寄せる後藤隊は徐々に潰走し、茂蔵は駆けに駆け、真田隊に合流したという。
    真田隊に合流した茂蔵は徳川本陣に突撃する機を得た!されど味方は次々と
    討ち取られていく。天賦の才に恵まれた茂蔵とて限界がある。
    さりとて茂蔵は最後の精魂を振るい出し家康公に一鎌あびせたのである!!!
    しかし茂蔵の錆びた鎌は長年の激戦で刃が既に使い物になってなかった・・・
    事切れた茂蔵に、家康公は日本一兵(ひのもといちのつわもの )よ、と称えたと語り継がれている。

    この伝承は高野山に残る高僧の日記に、“農民兵親子首切鎌”と題され今に至る。
    茂蔵討ち死にの齢、命日は、奇しくも父茂吉の初陣と同じ齢、同月同日であったと記されている。










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