1: 名無的発言者 2003/06/30 14:08:00
小日向 白朗(こひなた はくろう、1900年(明治33年)1月31日 - 1982年(昭和57年)1月5日)とは、単身で中国大陸に渡り、捕虜から「中国全土の馬賊」の総頭目にまで上り詰めた日本人の馬賊の事である。新潟県三条市出身。本名は健松。中国名は尚旭東。民衆からは小白竜とも呼ばれた。シベリア単騎横断で有名な福島安正中佐にあこがれ、中国、チベットを調査しながら、ドイツを目指そうと17歳で中国に渡る。中国では関東軍の坂西利八郎大佐に気に入られ、中国語、射撃等の訓練に励んだ。
20歳でモンゴルのウランバートルを目指す旅に出たが馬賊に襲われ捕虜となり、命と引き替えに馬賊の下働きとなる。その後、数多くの戦いで頭角を現し、のち馬賊の聖地である千山無量観で道教と武当派の中国拳法等の修行をつみ、大長老の葛月潭老師より「尚旭東(しゃんしゅいとん)」の名と破魔の銃「小白竜(しょうぱいろん)」を授かった。この瞬間小日向白郎は中国全土の馬賊の総頭目となった。
大本教の出口王仁三郎の蒙古入り後に、張作霖に捕らえられたとき釈放に奔走した。
戦後は国民党軍に逮捕され、漢奸罪で起訴されるも、日本国籍を有していることが認められ免訴となる。
1982年、東京都新宿区にて死去。
満州(満洲、まんしゅう、拼音:Mǎnzhōu)は、現在中華人民共和国において「中国東北部」と呼ばれる地域およびロシア連邦において「極東」と呼ばれる地域の一部を含めた北東アジアの特定地域を指す地域名。渤海・金朝・後金・清朝を建国した満洲民族や、夫余・高句麗を建国した濊貊族、鮮卑・烏桓・契丹・奚などモンゴル民族の故地である。「満洲」という言葉は、もともとは12世紀にはおもに民族名を指していた。しかし19世紀の日本では満州、満州国とは地域をさし、民族は「満州族」と呼ぶようになった。
日本で満洲と呼ばれる地域は、満洲国の建てられた地域全体を意識することが多く、おおよそ、中華人民共和国の「東北部」と呼ばれる、現在の遼寧省、吉林省、黒竜江省の3省と、内モンゴル自治区の東部を範囲とする。
「夕日と拳銃」に詳しい
伊達 順之助(だて じゅんのすけ、明治25年(1892年)- 昭和23年(1948年)6月1日)は満蒙独立運動や山東自治聯軍に参加した大陸浪人・馬賊。戦国武将伊達政宗の直系子孫。父は仙台藩知事・伊達宗敦(順之助は宗敦の六男)。中国名は張宗援。華族の子に生まれながら素行が悪く、麻布中学、慶應義塾中等部、学習院、立教中学など幾つもの学校を転々とした。
1914年、旧制海城中学校卒業。この間、立教中学在学中、1909年5月13日には東京明石町の路上で縄張り争いから不良学生を射殺する事件を起こし、1909年10月15日の東京地方裁判所判決では懲役12年、1910年6月の控訴審判決では懲役6年を宣告されたが、伊達家の弁護士の依頼により探偵岩井三郎が被害者の素行調査を行い、上告審を有利に進め、正当防衛であった事を立証。大審院の差し戻しによる宮城控訴院判決では執行猶予を得て釈放された。
北一輝、大川周明、出口王仁三郎などとも親交が深く、1916年に張作霖爆殺計画、1919年に山縣有朋暗殺計画(共に失敗)等、過激な行動が目立つ。
1916年に川島浪速が粛親王善耆らとおこした第二次満蒙独立運動に伊達順之助も参加し、その頃から大陸浪人として活動していたと思われる。第二次満蒙独立運動失敗後は山東自治聯軍に参加し、1929年に張宗昌(奉天派)とは義兄弟の契りを交わし張宗援と名乗る。1919年、朝鮮総督斎藤実預かりとなり朝鮮に渡る。義州国境警隊長になる。1923年、武装朝鮮人の根拠地を急襲。1931年、中国に帰化し張宗援と称す。山東省自治を目指す。1937年、満州国軍四千名を率い山東に出陣。1939年、「掖城事件」。伊達順之助部隊解散。1945年、日本軍、伊達に「張宗援」部隊再編成を持ちかけるも不調。終戦後、中国青島にて日本人戦犯として連行。戦犯とされ青島拘留所、上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所に収監され死刑宣告をうける。上海監獄に送られ、1948年6月1日に銃殺刑に処せられた。
昔かなり流行った長編小説だろ
♪ 亜細亜高嶺の彼方より
繰出す手下が五千人
夕日と拳銃 上巻 (角川文庫) [文庫]
張 作霖(ちょう さくりん、Zhang Zuolin)は、中華民国初期の軍閥政治家で、北洋軍閥の流れを汲む奉天派の総帥。満州の統治者であり張学良・張学銘・張学思の父。字は雨亭。
1875年、遼東半島の付け根に位置する海城県で生まれる。生家はあまり豊かではない上に、1889年に実父・張有財と死別。獣医の継父から乗馬を習った。気が合わず、家を飛び出したとも言われている。その後吉林省に渡り、馬賊に身を投じた。1895年、営口市高坎鎮一帯で生活。当時の東三省は警察力が弱く、非合法組織が数多く存在した。張はその中でたちまち頭目となり、朝鮮人参や、アヘンの密売で利益を得ていたと考えられる。彼の仲間には後に満州国の国務総理を務めた張景恵などがいた。
日露戦争後の1905年、東三省の統治体制を引き締める為に八旗兵の出身である趙爾巽が同地に派遣された。彼は行政手腕を以て知られ、財政収入の確保に奔走するとともに、地域の治安向上にも努め、馬賊に対しては帰順すれば軍隊に任用する旨を頭目たちに伝えた。張はこうした状況の変化にいち早く対応し、清朝に帰順して2千程度の規模を持つ軍の部隊長となった。この帰順は形式的なものであり、馬賊として広く知られていた張の下には更に多くの馬賊が集まり、隠然たる勢力を形成していった。
小日向氏の伝記ではありますが今でも
手にはいるのかな?
電車待ちの暇つぶしだったけど今も愛読書です。
ゴビ砂漠奇談だったけ?なんかそんな本と並んで戦前の大陸に
おける風俗を素朴に語る名著と思います。
どこまで信じて良いのかは分からんけど。
21: 名無的発言者 2003/07/27 00:07:00
狼の星座(1) (講談社漫画文庫―横山光輝中国ロマン傑作選) [文庫]
河出書房新社
子建(ちー・ずじえん)/著
孫秀萍(そん・しゅうぴん)/訳
満洲国物語 〈上〉 [単行本]
村上もとかの劇画「龍」のファンとして、小日向白朗の伝記劇画また出ればと思いま
すが……。
もっとも、中国の民衆の立場からすれば、下衆野郎でしょう。
1900年生まれで、1982年死去したらしい。
大攪把(ターランパ=馬賊の頭目)
会話力活かしたヤケクソ就職の一種と見ることもできます
馬賊というと「盗賊団」というイメージが強いが、元々は自衛組織(土匪・匪賊)の中の遊撃隊のような役割であった。当時の満洲では清朝の衰退によって治安が悪化しており、盗賊がはびこっていたためである。
これに対抗するため、民衆は自衛組織を作り、盗賊に対抗していた。しかし満洲内の混乱が進むにつれ、力を持った馬賊が本来の「自衛」を越えて盗賊まがいな行為も行う場合があった。
また、満洲で日本軍の支配が強くなるにしたがい、馬賊は日本人とも衝突するようになり、満洲各地で日本軍ないし日本人を襲う事件が発生する。現在の日本人が抱く「馬賊」のイメージは、この頃のものである。しかし、全ての馬賊が反日姿勢を示したわけではない。当時は、外蒙古の支配を確実にしたソビエトが満洲での影響力を高めるための工作手段として馬賊を利用しようとしており、同時に内蒙古・満洲の共産主義化を食い止めるため関東軍も馬賊を利用していた。日ソ双方の思惑により、馬賊は機動工作部隊としての色を帯びていく事となる。
また、馬賊の中には軍閥に成長するものもあった。馬賊出身の軍閥としては張作霖・馬占山等が有名であるが、彼らは当時中国で繰り返されていた政権交代の混乱に乗じて、その時々の政権の軍事的後見を担う事で連携していた(当時の中国には徴兵制度等はなく、政権に雇われた馬賊が「正規軍・政府軍」であり、また、馬賊の頭目が勝手に官職や軍の階級を自称する例もあった)。ただその連合も、馬賊をめぐる各勢力の思惑の変遷もあって決して長期安定的なものではなくその時々で連携先を変え、離合集散を常とした。
満洲国崩壊後は、馬賊組織も衰退していった。また、その後の国民党、共産党の内戦(国共内戦)でそれぞれの陣営に取り込まれて離合集散しながら、軍の一部に組み込まれていった。
匪賊(ひぞく)は、「集団をなして、掠奪・暴行などを行う賊徒」を指す言葉。「匪」「賊」とも否定的な価値判断を伴う文字であり、かれらと敵対する側、すなわち取り締まり側(体制側)・被害者側の視点からの他称である。日本では、とくに近代中国における民間武装集団を指す。韓国では、共匪と呼ぶことが多い。
外へ出れば只の匪賊
馬賊の歌
僕も行くから君も行こう狭い日本にゃ住み飽いた
波立つ彼方にゃ支那がある支那にゃ四億の民が待つ
俺に父なく母もなく別れを惜しむ者もなし
ただいたわしの恋人や夢に姿を辿るのみ
国を出る時きゃ玉の肌今じゃ槍傷剣傷
これぞ誠の男子(おのこ)じゃと微笑む頬に針の髭
御国を発って十余年今じゃ満州の大馬賊
亜細亜高嶺の間から繰り出す手下が五千人
長白山の朝風に剣を躍し俯し見れば
北満州の大平野 己が住家にゃまだ狭い
今日吉林の城外に駒の蹄を忍ばせて
明日は襲わん奉天府長髪風になびかせて
さっと閃く剣光に今日の獲物が5万両
繰り出す槍の穂先より双竜血を吐く黒竜江
いろいろと替え歌が有るようで
どれが元の歌詞なのかよくわかりませんでしたので
とりあえず私が良く歌う歌詞で
白朗の人生そのものだぜ。
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/china/1056949695/
日本史で過去最強の女性偉人って誰だと思う?
北海道弁ワロタwwwwwwwwww
ビリーザキッドより強いガンマンいるの?
漂流もの冒険小説を語れ!
歴史上の意外な話してくれ
馬賊で見る「満洲」―張作霖のあゆんだ道 [単行本(ソフトカバー)]
コメント
日本軍の金塊で著者関浩三さんが、禁断の昭和史小日向白朗の
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白朗亡き後10年後に上海時代の夫人、息子、孫は名古屋に来日。
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白朗亡き後10年後に上海時代の夫人、息子、孫たちは名古屋に来日。
白朗に教わった武術は今世界の格闘技連合の代表に。
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