1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:05:36 ID:sZy1C4xp0
俺のお気に入りは鈴なり武者

1






















仙石 秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。
豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いでの独断専行により、島津軍に大敗を喫し改易されるが、小田原征伐で許された。





4: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:06:49 ID:BsJXUarq0
禿鼠


1





















豊臣秀吉
天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。 清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げる。また信長の草履取りをした際に、冷えた草履を懐に入れて温めておいたことなどで信長の歓心を買うことに成功し、次第に織田家中で頭角をあらわしていった。その風貌によって信長から「猿」「禿げ鼠」と呼ばれていたらしい。






5: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:06:53 ID:gk/QIp4G0
西国無双

1

















天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。




東国無双


1






















本多忠勝
生涯において参加した合戦は大小合わせて57回に及んだが、いずれの戦いにおいてもかすり傷一つ負わなかったと伝えられている
織田信長にその並はずれた武勇を、武田征伐後には「花実兼備の勇士」と讃えられた。
豊臣秀吉には「日本第一、古今独歩の勇士」と称され、また、「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と勇将として引き合いに出された[7]。
戦場に出て敵と戦う時の槍働きは古今無双だったが、教練などでの槍術は甚だ不器用で戦場での忠勝を知らぬ人が見ると意外と思ったという(『甲子夜話』)。






6: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:07:46 ID:lOeWng5P0
長尾景虎スレかと思いました



上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 長尾 景虎(ながお かげとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。











8: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:10:08 ID:u/Bh6weN0
第六天魔王 織田上総介信長


1




























織田信長の鎧wwwwwwwwwwwww




10: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:10:42 ID:Idzk97z70
>>8
これだな
自分でいっちゃってるところも


25: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:18:21 ID:Dt61g0md0
信長の第六天魔王って本気でそう自称したわけじゃなくて武田信玄を馬鹿にするために言っただけらしいけどな


「日本耶蘇会年報」より、ルイス・フロイスが1573年4月20日(=天正元年3月19日)付けでイエズス会に送った書簡から。武田信玄が西上作戦にあたって信長へ送った書状に「天台座主沙門信玄」と記してあったため、信長は返書に「第六天魔王」と署名したというもの。この時期、信玄は比叡山焼き討ち後に逃れた天台座主覚恕法親王を甲斐に保護していた。これらの自称について他の史料はない。また、信玄はこの書簡の後にほどなく没している。





9: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:10:13 ID:i7BhJXqK0
謀聖


1





















尼子経久
北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、「謀聖(ぼうせい)」「謀将(ぼうしょう)」と称された。経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と称される。
多面に優れ、文武両道だったという。晩年に自画像を残している。
家臣に対しては非常に気を使う優しい人物であった。『塵塚物語』によれば、経久は家臣が経久の持ち物を褒めると、たいそう喜んでどんな高価なものでも、すぐにその者に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、経久の持ち物を褒めず眺めているだけにしたと伝えている。ある時、家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思い、松の枝ぶりをほめたところ、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めたという。それでも経久は諦めず、とうとう切って薪にして渡したという。世人はもったいないことだ、と話したが、経久は全く気にもしなかったという。また、冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えていたため、薄綿の小袖一枚で過ごしていたともいわれる。『塵塚物語』は経久のことを「天性無欲正直の人」と評している。






12: 忍法帖【Lv=8,xxxP】 2011/11/05 00:11:58 ID:/ph/SW9D0
謀神のかっこよさときたら


暗殺、合戦、策略、買収、婚姻など、勝利のためにあらゆる手段を用いた戦国時代最高の謀略家であるとされている。
彼の出世記録は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった三英傑を除けば、数ある戦国大名の中では速度・石高共に屈指であるが、その出世の大半は老境を迎えてからであり、その歩みは遅々たるものであった。
特に巧みなのが敵将や敵勢力に対する偽報や離間策であり、吉田郡山城の戦いや厳島の戦いはこれらを駆使して勝利し、更には新宮党事件を引き起こして尼子氏の弱体化を図るなどしたとされてきた。(ただし、新宮党事件に関しては元就の謀略を裏づける証拠はなく、近年では関与はなかったとされている。郡山合戦でも、元就が偽情報を流して風越山に尼子軍に陣取らせたとされる件も、尼子軍にとって戦術上適っていたとされる。また、厳島合戦で囮として宮尾城を築いたという説も、以前より宮尾城はあったことから元就の機略であったとする説は否定されているが、元就が陶軍を引き寄せるための戦術的基点として利用したのは確かである。)
数ある戦国大名の中でも有数の実力者であり、政治的才能と知見に恵まれた武将にして策謀家であったことは疑いない。だが、その武勇伝や知謀伝の多くは陰徳太平記や吉田物語など史学的信憑性の低い書物に記されたものばかりであるため、その実態を窺うことはできていない。ちなみに「謀神(はかりがみ)」という異名は、近世以降に三国志に影響を受けて創作された歴史譚の中における架空の異名。





7: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:08:54 ID:gk/QIp4G0
剣聖



13: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:12:14 ID:sZy1C4xp0
剣聖って誰のこと指した異名なのかよくわからん
足利義輝?

14: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:12:43 ID:gk/QIp4G0
>>13
その通り。
正しくは剣聖将軍だっけか。


1
























足利義輝
塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人である。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、鎌倉から江戸までの歴代征夷大将軍の中でも、最も武術の優れた人物ではないかと言われている。ただし卜伝はこの他に北畠具教や細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できない。また、上泉信綱からも指導を受けたのではないかと言われている。
松永久秀らに二条御所で襲われた際、将軍家秘蔵の刀を数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦ったという。この最後の奮戦を讃えて、現代において「剣豪将軍」と称される場合もある。


15: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:13:21 ID:xr/KOUS90
>>13
基本的に上泉信綱だと思う
義輝は剣豪将軍とかじゃないか


伝承や後世史料にみえる上泉伊勢守
剣聖と謳われ、袋竹刀を発明したとも伝わる(『桂萱村誌』)。多くの流派の祖とされ、様々な伝承が各流派に伝わる。 




17: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:14:10 ID:dHZhiPyKO
剣聖は上泉伊勢か卜伝だよなあ







18: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:14:49 ID:reNK0Y+90
はあまりかっこよくないな・・・・

26: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:18:31 ID:sZy1C4xp0
>>18
誰のだろう
可児才蔵?


可児才蔵
笹の指物を背負って戦い、戦いにおいては敵の首を討つことが常に多くてとても腰に抱えることができなかったため指物の笹の葉をとって首の切り口に入れておいた(あるいは口にくわえさせた)という。このため、才蔵の討った首と合戦の直後にすぐにわかったという。これらの経緯から、「笹の才蔵」と称された。







19: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:15:31 ID:4zwVFZYU0
橙武者・・・ちぇええええええええええええんんんんむしゃ



薄田 兼相(すすきだ かねすけ)
慶長19年(1614年)、大坂の陣に参戦。大坂冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いでは遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、味方から「橙武者(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意味する。)」との嘲りを受けた。
大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を取り、自ら何人もの敵兵を倒し、水野勝成の家臣河村重長の手にかかり、討死を遂げたといわれている。









27: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:19:04 ID:MX6eYSOl0
美濃の蝮しか思いつかん


「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾・海音寺潮五郎・司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。
斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。
新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。
新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。
義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。
道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。
同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の二代にわたるものである可能性が非常に高くなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見える。







28: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:19:48 ID:uDHVPmjI0
狸親父

1









































34: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:23:26 ID:reNK0Y+90
海道一の弓取り

37: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:25:13 ID:sZy1C4xp0
>>34
これかっこいいよね
今川義元ってゲームとかで舐められすぎ


2007年の大河ドラマ『風林火山』で今川義元を演じた谷原章介は、役を演じるにあたって、一般には公家かぶれで軟弱というイメージが浸透していて、桶狭間で油断して討ち取られたという「結果」ばかりが強調されて語られる傾向があると語った。
ただ近年では、漫画のセンゴク外伝 桶狭間戦記の様に従来の「公家かぶれの敗軍の将」というイメージではなく、「東海道一の弓取り」という名将としてのイメージに基づいた義元像も描かれることも増えている。また、PCゲームの信長の野望シリーズでも初期の作品に比べ、最近の作品では総合的に能力が高く評価される傾向にある。







35: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:23:53 ID:xr/KOUS90
攻め弾正


1











幸隆の智略と功績は信玄に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許された。武田家中でも一目置かれていたと言われており、戦国三弾正の一人として、「攻め弾正」の異名で呼ばれている。ただし現在のこうした幸隆像は、19世紀前半に近世の松代藩主真田氏の業績を記した『先公御事蹟稿』などを土台にしており、真田家の主張を前提として過大評価されたものである事は注意を要する。


槍弾正

保科 正俊(ほしな まさとし
父は保科正則で、信濃国高遠城を領していた国人であった。最初は武田信玄の信濃侵攻に抵抗したが、天文21年(1552年)頃に降伏してその家臣となった。武田氏の信濃先方衆(120騎持)の1人として活躍し、下伊那攻めや北信濃攻めに従軍した。特に槍に優れた使い手であったため、「戦国の三弾正」に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された。元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦では高遠城守備を命じられ、信玄から28か条の印判を与えられている。



逃げ弾正

春日 虎綱 / 高坂 昌信(かすが とらつな / こうさか まさのぶ)
 『甲陽軍鑑』に拠れば、虎綱は慎重な采配で三方ヶ原の戦い等においても撤退を進言し、「逃げ弾正」の異名を取ったという。
武田晴信(信玄)・勝頼期に仕え、武田四天王の一人として数えられる。
「高坂 昌信」の名前で知られるが、確実な文書上からの実名は「春日虎綱」であることが指摘されている(平山2008)。「高坂」は信濃更級郡牧ノ島の香坂氏に由来し、虎綱が永禄年間に一時的に香坂氏の名蹟を継承していることに由来し、「昌信」に関しては出家名であると考えられている。


爆弾正

1


































36: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:24:01 ID:4zwVFZYU0
「逃げ弾正」ってイメージ悪い気がする

42: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:27:34 ID:hhfg+4Mg0
>>36
突っ込むだけじゃなく、駆け引きがうまいってくらいの意味でとらえてもらっておk






40: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:26:06 ID:pS8IKEZn0
独眼流

54: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:44:42 ID:R0nn0SvG0
>>40伊達政宗だったっけ?


72: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:42:18 ID:uE5SExNE0
「独眼竜」ね、「独眼流」でなく

1
























41: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:26:45 ID:reNK0Y+90
地黄八幡

※(じきはちまん)

北条 綱成(ほうじょう つなしげ/つななり)
綱成は若い頃から武勇に秀で、毎月15日は必ず身を清めて八幡大菩薩に戦勝を祈願したといわれている、そして合戦になると朽葉色に染めた旗を指物として、常に北条軍の先鋒としてその無類の強さを見せつけたため、その旗色から「地黄八幡」と称えられ、近隣には常勝軍団としてその名がとどろいたといわれる。






43: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:28:05 ID:gQHKupzG0
まことの武将
鬼柴田


1






















武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている。

ルイス・フロイスの勝家評は以下である。
「信長の重立ちたる将軍二人中の一人」
「はなはだ勇猛な武将であり、一生を軍事に費やした人」「信長の時代の日本でもっとも勇猛な武将であり果敢な人」
「彼は禅宗であるが、他の宗旨を憎まず」
フロイスたちの越前でのキリスト教の布教については、いっさい妨害はしないが手助けもしない、教えが広まるかどうかは宣教師たちの「テガラシダイ(手柄次第)」だと述べたという。






44: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:28:12 ID:reNK0Y+90
肥前の熊


1






















龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)
若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。また、普段から家臣に冷たく接していたため、沖田畷の戦いで敗色濃厚となったとき、隆信の輿を担ぐことに嫌気の差した側近たちは輿を放り捨てて逃げ、そのため隆信は逃げ遅れて討ち取られたという逸話がある。
しかし、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。
宣教師ルイス・フロイスが残した記録では、沖田畷の戦いに於ける隆信の軍備に対し、「細心の注意と配慮・決断は、カエサルの迅速さと知恵でも企てられないように思えた」と評している。ちなみに、当時のヨーロッパではカエサルといえば鷹揚な人物として有名で、上記の人物評とは正反対である。但し、隆信はキリスト教には否定的だったようで、三男の後藤家信がキリスト教に入信しようとした際、これに猛反対して入信をやめさせた事もあるという(フロイス日本史)。







45: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:29:06 ID:gQHKupzG0
土佐の出来人


1

























47: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:33:55 ID:sZy1C4xp0
土佐の出来人は鈴なり武者のせいで息子死んじゃったんだよね・・・

50: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:37:25 ID:xr/KOUS90
>>47
息子どころか主要な家臣ほとんど死ぬハメになったと思う




49: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:35:31 ID:reNK0Y+90
元親は姫若子 鬼若子 土佐の出来人 鳥なき島の蝙蝠・・・いっぱいあるなぁ


長宗我部元親(ちょうそかべ もとちか)土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた。
織田信長は元親をあまり高く評価しておらず、慣用句の「鳥無き里の蝙蝠」をもじって、「あれは鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと伝えられる




52: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:40:16 ID:sZy1C4xp0
戸次川ってそこまでボロボロにされたの?
他の家の息子やら家臣やら死なせた上自分だけ逃げちゃったらそりゃ改易されるわな
というかよく打ち首にならなかったもんだ



55: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:46:28 ID:xr/KOUS90
>>52
確か横三列の端にいたセンゴクが速攻で逃げたおかげで真ん中にいた長宗我部家の武将は島津最終兵器戦国包囲殲滅マシーンIEHISAの包囲をモロに受けて壊滅したとか何とか
打首にならなかったのはマジで謎




57: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:52:07 ID:sZy1C4xp0
古参の部下だから改易だけですんだのかな
羽柴四天王の尾藤とかは確かそこまで酷い失敗したわけじゃないのに殺されたよね



60: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:02:21 ID:xr/KOUS90
>>57
考えられるとしたら記録的な大敗を晒した上に軍鑑まで処刑したら士気が落ちまくる上に
次の軍鑑に誰もなりたがらなくなるのを危惧したのかもしれない
いくら古参でもせっかく四国から借りだした戦力のほとんどを潰して恨みまで買った以上
生かす理由はないけど殺せない理由はあったと思う



62: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:14:06 ID:sZy1C4xp0
>>60
小田原の後で仙石を復帰させたのは寛大さを見せ付けるためだったのかな
活躍はあっただろうけど、5万石もらうほどだとは思えないし



63: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:23:43 ID:xr/KOUS90
>>62
だろうなー残る敵は狸爺だけだし器と兵力の差を見せつけて勝負を決めようとしたのかもしれん
結局同じ事をやられて最後は豊臣滅ぼされるけど







59: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 00:56:49 ID:q95nJ+84O
十三段崩し



元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いでは、織田軍に深く斬り込み、一時は織田信長の本陣近くにまで迫ったが、後に控えていた織田側の稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就らが駆け付け、その後、朝倉軍を撃破した徳川家康軍の増援もあり、浅井側は総崩れとなり敗退した。 この員昌の織田本陣に迫る猛攻は、「員昌の姉川十一段崩し」という逸話として残るが、江戸時代元禄期の『浅井三代記』が初出のため疑問視されている。







61: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:06:13 ID:pAVkN2WY0
キンカン頭


1





































66: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:29:23 ID:/uMYvf240
雷神


立花道雪
雷神を斬る 
道雪は『大友興廃記』などによれば若い頃に落雷を受けて半身不随になり、以後輿の上で指揮をとっていたとされる。また、落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀「千鳥」を「雷切」と改名し、傍らに置いていたとされる。またこの逸話から、「鬼道雪」「雷神」と呼ばれ畏怖されていたともされる。
しかし、秋月氏との合戦では「自ら太刀を振るい、武者7人を斬り倒した」という記録もあり、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無い為、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのは創作ではないかとも言われ、真偽はわかっていない。




68: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:32:14 ID:S7a300KkO
槍又差

1













利家は傾奇者の風潮を好み、若年の頃は女物の着物や動物の毛をあしらった着物などの派手な格好に、腰には赤鞘の太刀をぶら下げ、常に途方も無い長さの朱槍を携えていたという。若い時の利家は粗暴、かつかなりの喧嘩好きで知られ、往来では利家が通ると「又左衛門の槍が来たぞ」との声が上がったというまた晩年には自身の小姓衆に「若いうちは傾いてるくらいが調度よいものだ」とも語っている。(三壺記)(利家公御夜話)











73: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:43:26 ID:xr/KOUS90
夜叉美濃
鬼美濃


武勇名高い猛将で鬼美濃、夜叉美濃と渾名されて畏怖されたが、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたと言う逸話も残る情け深い大将でもあった。攻城戦の名手としても名高く虎胤の落とした城は補修が最低限で済んだと言われる。


 


65: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2011/11/05 01:28:10 ID:LGTtuEmI0
日の本一の兵


1























転載元
http://hibari.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1320419136/l50

「四天王」←こういうの

落語家の高座名の厨二すぎwwwwwwwww

歴史上最も「劣勢を覆した戦」って何よ?

【戦国】農民伝【最強】

新撰組にいたが、長生きできた人 『アメリカ留学した新選組隊士』

漫画家の逸話教えて

水滸伝の登場人物の綽名って厨二病にはたまんないよな



センゴク外伝桶狭間戦記(1) (KCデラックス)
センゴク外伝桶狭間戦記(1) (KCデラックス) [コミック]