1











1: 人間七七四年 2008/12/01 23:55:32 ID:dAh2tIjp
って何?

一番、不可解なもの。解せないもの。仮説すらあやふやなもの。






4: 人間七七四年 2008/12/02 01:58:48 ID:Et5JsQCN
本能寺の変…は、不可解でも無いか


8: 人間七七四年 2008/12/02 16:44:16 ID:7AIiJZ9O
本能寺の変後の家康の楽しい旅路
11: 人間七七四年 2008/12/03 14:24:25 ID:mWhLENyq
>>8
詳しくは知らないんだけど、時系列とか変なの?
天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・安土城を訪れた(信長が家康を謀殺するためという説もあり、本多忠勝など選り抜きの家臣団と共に行動した)。
6月2日、堺を遊覧中に京で本能寺の変が起こった。このときの家康の供は小姓衆など少人数であったため極めて危険な状態(結果的に穴山信君は横死している。)となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。しかし本多忠勝に説得されて翻意し、服部半蔵の進言を受け、伊賀国の険しい山道を越え加太越を経て伊勢国から海路で三河国に辛うじて戻った(神君伊賀越え)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/徳川家康







9: 人間七七四年 2008/12/02 17:45:56 ID:CmD48TzT
桶狭間の戦い

地元が今川だから調べてるけど、本によって説が全然違う




10: 人間七七四年 2008/12/02 17:55:46 ID:AFc0Wpja
結城秀康の死因
秀康の武将としての器量は一流で周囲からも認められており、武勇抜群、剛毅で体躯も良かったと言われている。一方で、伏見城において行われた秀忠将軍就任祝いの席には、上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、秀康と景勝は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼をもって景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。結局秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという。

慶長10年(1605年)権中納言に昇任。慶長12年(1607年)には伏見城番に任じられる。だが病にかかり職務を全うできなくなったため3月1日に越前へ帰国、閏4月8日死去。享年34。死因は「当代記」が梅毒と伝える。後を嫡男の忠直が継いだ。






12: 641 2008/12/13 15:11:36 ID:oE18xKpU
埋蔵金が何処にあるのか。
徳川埋蔵金
1868年4月に江戸城が無血開城となった際、当時財政難に喘いでいた明治新政府は幕府御用金を資金源として期待していた。ところが城内の金蔵は空であったため、幕府が隠匿したと判断した新政府軍による御用金探しが始まった。
探索の手は大政奉還当時勘定奉行であった小栗忠順にも及んだ。小栗は奉行職を辞任した後、上野国(群馬県)群馬郡権田村に隠遁していた。彼が幕府の財政責任者であったということから「小栗が幕府の金を持って逃げた」といった流言が飛び、更には「利根川を遡って来た船から誰かが何かを赤城山中へ運び込むのを見た」と証言する者まで現れた。加えて小栗が江戸城開城に伴う幕府側の処分者の中で唯一命に関わる刑罰(斬首)となったことも重なり、「幕府の隠し金が赤城山に埋められていることは事実である」と信じた人々が赤城山の各所で発掘を試みた。

その後、埋蔵金研究者達により赤城山に眠る徳川埋蔵金は以下のようなものであると定義された。
○幕府の将来を憂慮した大老井伊直弼により莫大な金を赤城山麓に埋蔵することが企画された。
○井伊直弼が横死した後、軍学者であった林靏梁によって埋蔵が実施された。
○埋蔵された額はおよそ360万 - 400万両。この額の根拠は、勝海舟の日記に「軍用金として360万両有るが、これは常備兵を養う為の金で使うわけにいかない。」との記述が元と思われる。
○埋蔵に際しては中国の兵法の1つである「八門遁甲」が施され、各所に偽計が張り巡らされている。
○山中にある双永寺は埋蔵時、見張り所とされていた。
○小栗忠順は機を見て埋蔵金を掘り返し、幕府再興を画策する役を負っていた。





15: 人間七七四年 2008/12/13 18:21:32 ID:XExLrGOm
安土城が八角形か四角形か

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1582年(天正10年)、家臣明智光秀による信長への謀反(本能寺の変)の後まもなくして何らかの原因によって焼失し、その後廃城となり、現在は石垣などの一部の遺構を残すのみだが、当時実際に城を観覧した宣教師ルイス・フロイスなどが残した記録によって、焼失前の様子をうかがい知ることができる。
安土城





18: 人間七七四年 2008/12/17 00:13:10 ID:HwBFXs2k
飯は何を食ってたんだとか。

19: 人間七七四年 2008/12/17 22:53:14 ID:XAurRhsv
湯漬けじゃないの?

20: 人間七七四年 2008/12/17 23:12:03 ID:9C89LLoV
秀頼君の(遺伝子上の)父親は誰かな。

「秀吉公ノ実子ニアラズ 大野修理ト密通シ捨君ト秀頼君ヲ生セ給フト 」と記述する随筆『明良洪範』に身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)の並外れた巨漢であったとする。また、『長澤聞書』には「世に無き御太り」と記されている。家康が二条城で秀頼と会見した際に、秀頼の巨体から醸し出されるカリスマ性に恐怖し、豊臣家打倒を決意したと記録するものもあるほど、武将としての威厳はあったとされている。このため、平均身長が現在よりかなり低かった戦国時代においても「小柄な武将」として有名だった秀吉(身長が5尺、約152cmもないと言われている)の実子かどうかが疑われる一因になっている。ただし、祖父の浅井長政や祖母のお市が長身だったことを考えると、秀頼が大柄でも何ら不思議はない。
豊臣秀頼




23: 人間七七四年 2008/12/21 22:00:50 ID:KKSnCxOO
ヤスケと明石全登の末路はどうしても知りたい
まあ絶対に新資料は出てこないだろうけど

弥助(やすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の人物。アフリカ出身の織田信長の家臣。彌介とも。
黒人男性で、現在のモザンビーク出身とされる。
『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26~27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される。
天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重症者が出るほどで、初めて黒人を見た信長は肌に墨を塗っているのではとなかなか信用せず、着物を脱がせて洗わせたという。
本当に肌が黒いことに納得がいくと信長はこの黒人を珍重し、自身に譲ってもらい「弥助」と名づけて士分に取り立てて身近に置くことにした。
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変の際には弥助も本能寺に宿泊しており、明智光秀の襲撃に遭遇した。信長が死ぬと二条御所に行って戦った末、明智軍に捕縛された。家臣にどう処分するか聞かれた光秀は「動物で何も知らず日本人でもない」との理由で処刑はせず、南蛮寺に送った。この処遇は光秀のこの黒人に対する蔑視を現していると考えられる一方、弥助を殺すことが忍びないと思った光秀が生かすための方便であったとの意見もあるが、真実は不明である。弥助の以後の消息は不明。


 
宇喜多秀家の軍師的存在で、慶長4年(1599年)にお家騒動(宇喜多騒動)が起こって重臣の多くが出奔すると、執政として宇喜多家中を取り仕切った。
翌慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで秀家が西軍に与すると、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努め、福島正則を相手に善戦した。西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。
戦後、宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田孝高[4]の下で庇護されたといわれている。孝高の死後、息子の長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。
慶長19年(1614年)、大坂の役が起こると豊臣方として参陣する。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では伊達勢と交戦、同士討ち事件が起きている。天王寺・岡山の戦いで、天王寺口の友軍が壊滅したことを知ると、松平忠直の軍勢に突撃し姿を消す。その後の消息は不明で、戦死したとも南蛮に逃亡したとも言われており、死亡時期については諸説ある。

 


 
24: 人間七七四年 2009/01/13 03:09:25 ID:bxLScVxJ
戦国時代にコンドームが存在していたという説

25: 人間七七四年 2009/01/21 09:26:31 ID:PTSkd7lU
マジで?何製なんだろ。


29: 人間七七四年 2009/03/26 18:45:34 ID:/YX2IZI4
濃姫の末路
濃姫
父は斎藤道三で、母は明智光継の娘・小見の方。
天文18年2月24日(1549年3月23日)、政略結婚のため尾張国の織田信長に嫁いだ。
織田氏に嫁いだ後の消息は早世説・離婚説など諸説に分かれている。







33: 人間七七四年 2009/06/19 23:49:49 ID:yMgx3uKc
たった2年の工期で完成した名古屋城

51: 人間七七四年 2009/07/02 16:55:55 ID:Dob7vfUe
>>33
mjd?



34: 人間七七四年 2009/06/20 21:21:16 ID:cVurB8Aw
戦国七不思議を作るとしたら

・桶狭間の真実
・安土城の全容
・本能寺の黒幕説
・川中島の真実
・手取り川の真実
・秀吉中国大返し

……あと一個なんかない?
できれば西国で

38: 人間七七四年 2009/06/21 04:51:56 ID:Q8In3R1Y
>>34
村上水軍埋蔵金

40: 人間七七四年 2009/06/21 08:21:49 ID:A9SaAsxH
>>34
信玄西上の理由

35: 人間七七四年 2009/06/21 03:22:29 ID:IgCfBbBK
秀吉の指の本数
豊臣秀吉: 右手の親指が2本あったとルイス・フロイス、前田利家が記録している。




36: 人間七七四年 2009/06/21 03:47:13 ID:s/s1Kt/N
二階崩れの真実
二階崩れの変(にかいくずれのへん)は、戦国時代の1550年(天文19年)2月に勃発した豊後の戦国大名・大友氏の内紛、お家騒動。義鑑父子の襲撃が大友館の二階で行われた事に由来する。




44: 人間七七四年 2009/06/22 00:36:33 ID:gV6jinVH
斎藤道三は二人居た説
北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。
近年では『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉との父子2代にわたるものではないかという説が有力となっている。





46: 人間七七四年 2009/06/22 10:29:00 ID:4TU+3jQw
上杉謙信は女なのか?

74: 人間七七四年 2010/01/13 02:35:23 ID:U8HpGrne
>>46
本気で謙信はおんにゃのこだから、遺体を調べろと主張する人とかいるらしいなw

49: 人間七七四年 2009/06/26 22:02:58 ID:jIOLyuNx
武田信玄に影武者が居た

50: 人間七七四年 2009/06/26 22:11:16 ID:dMcfxStj
影武者のいない武将の方が珍しいだろ。

むしろ山内一豊の、五人の影武者はその後どうなったのかを知りたい。
山内一豊
慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の武士の多くは新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要なポストを主に旧臣で固めたが、有能な長曾我部旧臣は登用した(例、本山氏・谷氏・吉田氏・武市氏・宮地氏・森氏など)。
当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆(野中玄蕃・市川大炊・柏原長宅(半右衛門)・乾宣光(七郎左衛門)・乾和三(猪助))を影武者として共に現地を視察した(影武者の存在などは機密事項であったため通常記録には残らないが、一豊の場合には明記されている稀有な事例である)。




61: 人間七七四年 2009/09/28 17:13:12 ID:SE/KnV3q
加藤清正、オランカイでの女真族との激突
1































64: 人間七七四年 2009/10/04 02:13:36 ID:DvOZv7O9
なぜ石田三成は石高をふやさなかったのか?

67: 人間七七四年 2009/10/20 15:44:18 ID:VYtfk9u0
>>64
恨まれるからじゃない
本多正信がそうだったし

69: 人間七七四年 2010/01/12 22:07:55 ID:d6SnNuIP
>>64
武功派の福島・加藤並みの所領なんだが

65: 人間七七四年 2009/10/04 02:17:21 ID:EyOoYpMF
豊臣政権の中枢にいる場合、下手に自分の領土を持つより、実入りはいいからな。
だいたい豊臣家蔵入り地220万石を掌握しているのは奉行連中だし。


71: 人間七七四年 2010/01/12 23:10:41 ID:5KEjNhAI
信長の尾張から岐阜への国替え。

あれがあっさり出来るんなら他の大名もやってただろ。
「何故信長ができたのか」「何故他の大名は出来なかったのか」
ちなみに、信長の兵農分離言説はこの岐阜移動が発端になってると思う。

78: 人間七七四年 2010/01/13 11:17:10 ID:z57S1VoH
>>71
あっさりって・・・
信長は美濃攻めに10年近くかけてやっと併合してるんだが。
で居城を移した。
だいたい信長は尾張時代にも何回も居城を移してるんだから
おかしくもなんともない。

72: 人間七七四年 2010/01/12 23:18:00 ID:d6SnNuIP
家康も浜松に移っている

73: 71 2010/01/13 00:32:52 ID:r19OfTl0
>>72
そういえば1年ぐらい前にも、
似たようなこと書いて似たようなレスされたことがあったのを思い出したわw

75: 人間七七四年 2010/01/13 03:33:27 ID:64mCZX0X
北条
伊豆→相模

76: 人間七七四年 2010/01/13 03:39:22 ID:64mCZX0X
あと三好長慶も

阿波→摂津→河内

77: 人間七七四年 2010/01/13 09:40:01 ID:A96cemWt
けっこうあるじゃんw



79: 人間七七四年 2010/01/15 23:38:55 ID:C5+pg/Wn
島左近の最後 鬼・悪魔と黒田兵は恐れていた。

80: 人間七七四年 2010/01/15 23:40:16 ID:J9JXBIrV
その割にいつどこでどう死んだか良くわかっていない島左近

81: 人間七七四年 2010/01/16 19:09:58 ID:f+ZgcCJO
大谷も首が見つかってないからあやしいしな


66: 人間七七四年 2009/10/18 13:23:18 ID:WYnHgvBf
キリシタン大名が火薬の代金に女奴隷を輸出していたのだが 
その女たちがその後どうなったのか? 
売られて嫁や妾にされたのだとしたら子孫がいてしかるべきだ



83: 人間七七四年 2010/01/23 22:50:02 ID:klAthhmd
支倉ヨーロッパ使節団の随行員だった人が先祖だって言う人々が住んでいる村がスペインにはあるらしいな。
美人が多くて有名な村らしい。 そこの娘と悠久の歴史ロマンを感じながらお万粉できたらいいな。

85: 人間七七四年 2010/10/21 13:36:18 ID:kRP+PoOc
>>83
ハポン(にほん)さんね
女子アナになってる人もいるとか
1代限りだから血は薄いだろうけど


93: 人間七七四年 2011/05/17 13:07:23 ID:dqcHzz/T
マジレスすると関ヶ原で毛利が西軍として参戦したのは本当に謎。

94: 人間七七四年 2011/05/17 18:03:52 ID:fevrKa5M
>>93
まあ、西の大将になったから
屈辱から倒幕エネが生まれたわけだし


96: 人間七七四年 2011/05/18 00:50:52 ID:diKreGF9
うーん 秀吉が抱いた星の数ほどの女の中で、なぜお茶々だけがポンポンと
子供を身ごもったのか・・・・
といっても茶々が他の男の種を仕込んだと言われればそれまでなのだが

97: 人間七七四年 2011/05/18 03:04:36 ID:kAdSJqro
南殿も2人生んでねぇか?

98: 人間七七四年 2011/05/18 06:07:36 ID:hfa4Ia+f
すると、秀吉の子はなんで夭折してばかりなのかというのが不思議だよな。
秀吉、秀長、秀次はすくすくと育っているから、遺伝的に問題があるようには思えないけれど。

99: 人間七七四年 2011/05/18 11:29:57 ID:frFeDv+Y
>>98
秀吉の父親の遺伝子に問題があったんだろ。



109: 人間七七四年 2011/08/26 22:59:41 ID:dA3iqVN4
帰雲城のことはまだ出てないのか?
あれこそ謎だぞ。
1













帰雲城は当地の有力武将である内ヶ島氏の居城であった。寛正年間に内ヶ島為氏により築城された。
天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震が起き、帰雲山の山崩れで埋没。城主の内ヶ島氏理ら一族は全て死に絶えてしまい、この瞬間をもって内ヶ嶋氏は滅亡してしまった。また、そのとき埋まったとされる埋蔵金伝説があることで有名。
なお、城のあった正確な位置は現在も特定されていない。保木脇に帰雲城趾の碑が建っているが、その場所が城跡であるとの確証は得られていない。



111: 人間七七四年 2011/08/29 01:59:51 ID:DFjjWisG
あそこの人たちは今も地下で元気にやってると結論が出ている





転載元
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1228143332/

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