8
武田八陣形


1 :人間七七四年:2009/12/03(木) 20:25:19 ID:EPnbP4lG
一国すら統一していない大名が一万人動員したり 
一国しか領有していない大名が数万人動員したり 
と戦国時代の動員戦力は誇張が激しい時があります。 
このスレでは合戦の動員兵力や大名の動員兵力を検証したりしましょう。 













3 :人間七七四年:2009/12/03(木) 20:36:48 ID:BagW00t0
ケチ利家は石高よりかなり低い動員力ですw



5 :人間七七四年:2009/12/03(木) 23:01:21 ID:0mNDe8PM
軍記物語の兵数は120%デタラメと思って間違いない
江戸時代になると騎数と全動員数の区別もつかない著者が多い





12 :人間七七四年:2009/12/04(金) 15:15:10 ID:k/HX5l/6
一万石あたり250人から300人 
石高は経済力と同時に人口も表す 




8 :人間七七四年:2009/12/04(金) 12:21:09 ID:a2UWCYIT
旗持ちとか馬の口取りとか戦力になるんかどうか分からん。

11 :人間七七四年:2009/12/04(金) 14:42:00 ID:kmgOAQ7B
>旗持ちとか馬の口取りとか完全武装で戦場に出て行く戦闘員。 
例えば5万石の場合、騎馬武者70+歩兵戦闘員で1000、 
それに非戦闘員500で、計1500がMAXと普通言われている。 

桶狭間では今川本隊5000に織田2000(全員戦闘員)が突っ込んだが、 
戦力は今川3000対織田2000で、状況から織田の楽勝も当然。 



13 :人間七七四年:2009/12/05(土) 11:55:35 ID:qDFyKcFE
東では北条、西では毛利が異常に大軍を動員するイメージがあるわ。

15 :人間七七四年:2009/12/05(土) 12:36:45 ID:ZGLV2CJC
>>13 
毛利は10万を動員したって記述がウィキかどっかにあったな。 
周りの豪族、宇喜田とか従えての数字だろうね。 
一方北条は5万がマックス。石高の割りに少ない感じだね。
 


18 :人間七七四年:2009/12/05(土) 16:21:14 ID:gkg6SbTB
>>15 
北条が5万がマックスって何の史料なのさ?北条領を殆どそのまま引き継いだ家康は関ヶ原の時に8万前後が出陣して、更に上杉の抑えとして結城秀康の軍が下野に駐屯してたわけだが 


19 :人間七七四年:2009/12/05(土) 18:33:48 ID:irZ/5Kbc
小田原陣の時の北条の動員数は、トータルで8万ほどだな。


29 :人間七七四年:2009/12/07(月) 22:14:22 ID:FqPkBoaE
>>19
小田原の時は15~60歳の男を徴兵したんだっけ?
あれは極端な例だとしても
通常時はどの程度の年齢の民が徴兵されたんだろう





21 :人間七七四年:2009/12/07(月) 00:39:01 ID:lAxouRbB
西国と言えば船岡山合戦の動員人数は多すぎるように思えます。
この戦いはあまり教科書では取り上げられませんが、長引いていたら応仁の乱のような扱いになっていたかも。


47
船岡山城遺構
船岡山合戦(ふなおかやまがっせん)とは、永正8年(1511年)8月23日、将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間でおきた、室町幕府の政権をめぐる戦いのこと。応仁の乱の際に船岡山を巡って発生した戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」ともいう。




24 :人間七七四年:2009/12/07(月) 14:59:44 ID:PUKvmcYZ
戦の前に間者(忍者?)を先発させて3倍くらいに言いふらした。
これも戦術の一つ。
間者「大変だ!上杉が2万で攻めてくるぞ!」
農民「女を隠せ!」
大名「ふむ、総勢1万か?7000で篭城すればやり過ごせるな」
実際は5000だったり





25 :人間七七四年:2009/12/07(月) 15:11:56 ID:lAxouRbB
誰の逸話か忘れたけど
家臣に貝の枚数を予想させて
「実際より多く見えるものだ」みたいなことを言った人がいたよな


26 :人間七七四年:2009/12/07(月) 16:26:55 ID:jIBefXr/
>>25
若い頃の信玄(=武田晴信)じゃなかったっけ?

あるとき、駿河の今川義元の正室として嫁いだ姉から大量の貝殻が贈られてきた。山国甲斐で育った信玄はこれを喜び、近習に貝殻の数を調べさせた。貝殻は2畳分あった。そこで家臣らを呼んで「お前たち、この貝殻が何枚あるか当ててみい」と命じた。ある者は5000枚、ある者は1万枚と思い思いに述べた。すると信玄は「皆的違いだ。3700枚ほどだ」と教えた。そして「わしは今まで、合戦には兵力が必要だと思っていた。だが兵力は少なくともよい。必要なのは5000の兵を1万に見せることができるように、兵を思うように動かすことこそ大事である。お前たちもこのことをしかと心得よ」と述べた。それを聞いた家臣らは「末恐ろしい若君よ」と驚嘆した(甲陽軍鑑。品第6)



27 :人間七七四年:2009/12/07(月) 21:53:11 ID:lcc4mVrG
日本戦史上もっとも大軍を動員したのは上杉謙信だろうね。
小田原城を囲んで関東を席巻した時は関東中の兵50万が謙信に従ってるし北陸を制圧した時ですら30万の軍を動かした。


544 :人間七七四年:2011/12/15(木) 15:09:03.26 ID:8nyMdTnt
>>27
それが本当なら、大軍率いといて越後一国も統一できなかった
日本一のダメ武将ってことに…。


アル中でいい歳こいて子供もいない。で、便所で力んで脳溢血、
謙信のイメージがどんどん崩れていくよ


546 :人間七七四年:2011/12/16(金) 20:04:42.34 ID:2AA0x5XC
>>544 まあ大軍つっても関東から集まる兵なんてイワシの集団の如き雑魚だし仕方ないよ。

ちなみに日本一のダメ武将は伊達政宗で確定済みだから謙信は日本2ってとこかな。

ちなみに日本3は俺




30 :人間七七四年:2009/12/08(火) 07:06:32 ID:16VQ9zuP
戦国時代は時代が下るにしたがって動員数が増えてるね。

もともと兵力に入らなかった農兵や雑兵がいつからか防衛兵力や予備兵力として運用されて、
戦力価値を期待されるようになり、小牧長久手の徳川や秀吉の小田原城包囲の時には総動員体制になったように思う。





36 :人間七七四年:2009/12/11(金) 21:53:49 ID:xENFi1Yl
小牧・長久手の合戦の織田信雄と徳川家康の連合軍の兵力が2万足らずという信じがたいほど少ないのは何故だ?
信雄は大国の尾張と伊勢を支配し、家康は今川氏や武田氏の領国を併せるほどの大大名だったのに


37 :人間七七四年:2009/12/11(金) 22:10:17 ID:KPuNyXXX
>>36
勝者の徳川が寡兵で大軍破った。すげーみたいにしたのかね。
三国志の曹操VS炎症の官渡の戦い。
兵力差10倍とか言うけど曹操軍には青洲兵30万がいたのに何処いったんだって疑問視されとる。
中国は前の王朝悪く書くこと多いしこういう兵力差捏造が多い。
日本もそういう面はあったとしてもおかしくない。
なんか武田もすんごい過大評価されとるし。
徳川を苦しめた武田が弱いだと立場無いから必要以上に印象操作したんだろう。
第2次大戦のアメリカ軍も日本軍は手強かったって証言してるけどこれも
「日本は強かった。でもそれを倒した俺達はもっと強い」ってことだったしな。


81 :人間七七四年:2009/12/15(火) 12:02:31 ID:R6sf7ZWd
>>36
まあそれは理解できるかも
信濃に甲斐は手に入れたばかりで
領内をまとめている途中で
動員などはまだ出来ない状態だったと思う
よって両地区からはの動員は見込めない
それにいくら北条と同盟を成功したとしていても
背後にはそれ相応の手勢を置いておかないといけないからやはり
大兵力をつぎ込めないと思う
三河、遠江の兵中心だったろうね
反対に信雄は防衛戦だから極限まで動員できたかもね


40 :人間七七四年:2009/12/11(金) 23:26:10 ID:bQuIdNrC
武田の領国を全て手に入れたわけでもないし、上杉、北条にも抑えが必要だから
小牧・長久手に全軍動員できるわけじゃないよ





52 :人間七七四年:2009/12/14(月) 04:15:23 ID:xbnKzwWg
この板でも戦力分析や比較をするときには1万石あたり250人って数値で計算してるけど、
これゼッタイってもんでも無かったみたいだな。
やろうと思ったら500人ぐらいまで行けたんだろう?



53 :人間七七四年:2009/12/14(月) 05:43:37 ID:YpmLWRqW
1万石250人は何処からきた数字なんだっけ?豊臣政権の軍役?
なんにしてもあくまで目安にしかならないよな。
信長の甲斐遠征の時に
「遠征なので兵糧がつづくよう人数は少なくすること、但し多いのと変わらぬよう粉骨するように」
みたいな意味の書状が信長公記にあったと思ったけど、状況により必ずしも最大動員でなくても
良い場合もあったようだし。正確な動員数は分りよう無いよ。



54 :人間七七四年:2009/12/14(月) 06:01:04 ID:M/m3sJG1
検地もできず自己申告しかないのに正確な石高あたりの動員数を
知る方法は文書以外にないからなあ。




57 :人間七七四年:2009/12/14(月) 11:07:53 ID:Qvsh8AuD
でも朝鮮や関ヶ原大坂みたいな動員って政権が最低限のノルマを指定した数だから
動員数=全兵力ではないよね
戦国時代も銭や現米での支給があったし、合戦になると傭兵を雇い入れた
つまり田畠以外の各産業の収入や毎年の収穫量で兵力も増減する
支配者の采配次第で兵力も変わって来るという事だ
後は攻戦か防戦でも違ってくる
徹底防戦ともなればもはや軍役だとか言っている場合ではなく
女子供や隠居の老人を問わず動ける者は皆武装して防戦にあたる
幕末にもこれらの事例が確認できる
要するに状況次第で変化するものであって石高だけから兵数をはかる事は出来ない




60 :人間七七四年:2009/12/14(月) 13:18:19 ID:KkYJ2Qbe
兵農分離は豊臣からだな。きっちりわけれたのは江戸時代だが


65 :人間七七四年:2009/12/14(月) 18:02:54 ID:0e4YcYvq
江戸期に入ってから戦役がほとんどないんだから兵農分離が完成したというのはちょっと違うだろ


66 :人間七七四年:2009/12/14(月) 19:21:39 ID:4/bigeqD
>>65
兵農が一致していたのは、村落にかかる「軍役」の存在のため。
軍役は江戸期になって消滅なんかしていない。

兵農分離には、農村が軍役に対して代銭で対応できるほどの経済力の向上と安定、
金銭によって軍夫として雇い入れられる都市の余剰人員の存在、
およびそういった労働者を組織し安定して供給できる業者の存在、
さらにそれらを運用する仕組みの成立、
こういった諸条件が整って、初めて兵農分離とい状態が出現する。

これらの諸条件が成立したのは江戸も徳川家光の時代あたりでようやく。
少なくとも信長の時代には、兵農分離などカケラも存在しない。


67 :人間七七四年:2009/12/14(月) 19:28:12 ID:KfSvux06
>>66
なるほど

68 :人間七七四年:2009/12/14(月) 20:12:44 ID:ouL5lA0h
小荷駄とかの陣夫などの動員は、兵農分離の範疇からは除外するべきだと思うけど
通常、兵農分離の対象とされているのは、侍とか足軽とかの直臣クラスの戦闘員と
自分は考えている


69 :人間七七四年:2009/12/14(月) 20:25:14 ID:4/bigeqD
>>68
陣夫、軍夫がいないと合戦なんて出来ないんだが。

あと足軽が農村から離れて都市居住が始まったのも徳川期。
多少早く取っても豊臣末期。


73 :人間七七四年:2009/12/14(月) 20:57:25 ID:ouL5lA0h
>>69
陣夫は江戸期も動員が原則、それも範疇に入れれば兵農分離は存在しない事になる

足軽が農村在住というのは再考する必要があるとおもう
時代・場所によって金銭による雇用、知行を与えているもの、短期、長期など多様な形態がある


70 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/14(月) 20:30:02 ID:5HLbpR2A
江戸期に入って整備される名主・庄屋とか村町の三役クラスには大名の直臣だった家もあったり。
少なくとも戦国期に武士だ農民だなどという区切りは、意識的にはあったかも知れんが明確なもんじゃないわな。




76 :人間七七四年:2009/12/14(月) 21:22:39 ID:CdorzkZN
飛騨(益田郡・大野郡・吉城郡三郡)は元禄5年の時点で60000石。
38000石から増えた分は全て開墾と言う事になってるが、これの評価次第だね。
実際に開墾したのか、最初の検地の時点で過少に見積もっていたのか。
どちらにしても少ない事には変わりなさそうだが。
戦国時代は6人役をしいたのかもしれない。
当時にしては非農業人口が多い地域だろうし。
コレくらいならなんとか合戦らしい合戦になるんじゃなかろうか。


5
飛騨国


78 :人間七七四年:2009/12/15(火) 10:58:58 ID:jAcHofsl
下国の飛騨三郡が総動員して千人だとしても、大国の動員力がその十倍あるだろうか?
万単位の兵力がほとんど軍記物の誇張なのかと疑いたくなってきたわ


79 :人間七七四年:2009/12/15(火) 11:26:49 ID:QpszLopU
>>78
姉川の時、近江の四分の一程度の領主でしかない浅井が八千
しかもこれは横山城の守備兵などを除く主力部隊にすぎない
近江一国でかるく三、四万はあるだろう
浅井の旧領の六割くらいを支配した(四割くらいは丹羽)
長浜領主時代の秀吉が姫路へ侵攻したときの兵力で七千五百くらいだし(黒田勢含む)
近江は最大級の大国だが、周辺の越前、美濃、伊勢、尾張もそこそこ巨大



82 :人間七七四年:2009/12/15(火) 12:35:03 ID:aVVzfVhd
確か飛騨の動員兵力は2、3000程度
飛騨は、近江を通した交易の中継地に当たり
しかも金山もあった
食料は輸入頼みだが石高よりもはるかに人口が居た




83 :人間七七四年:2009/12/15(火) 12:38:12 ID:QpszLopU
関ヶ原合戦時の石田一族は関ヶ原本戦とそれに続く佐和山籠城でほぼ最大動員だと
思われるが、関ヶ原に出撃した三成とその父兄(父兄とも三成とは別に領土が与えられていた)
の合計戦力は六千七百、三成の父兄が指揮した佐和山籠城兵二千八百といわれている
併せて九千五百だが、このときの石田一族の支配地、北近江四郡は浅井長政の支配領域
とほぼ一致している



152 :人間七七四年:2009/12/21(月) 18:08:16 ID:TPZqXCPf
戦国時代に比べて幕末期の動員兵力の少なさといったら無いな

156 :人間七七四年:2009/12/23(水) 02:26:43 ID:UIWaCq+M
>>152
兵農分離してるからね
武士だけの動員だと大した数がいないんだよな
江戸時代で財政難で軍縮やった可能性はあるけど

農兵は奇兵隊とかいたようだが


157 :人間七七四年:2009/12/23(水) 08:03:51 ID:VvkfHFlh
>>156
長州は奇兵隊を入れても石高あたりの兵数は少ない。

49

奇兵隊(きへいたい)とは、江戸時代末期に結成された、藩士と藩士以外の武士・庶民からなる混成部隊。


159 :仙台藩百姓:2009/12/23(水) 23:58:04 ID:aL6T1uZ2
>>157
それは戦闘員のみをカウントしているのと、国内で防衛に当たった数を含めていないからだお( ^ω^)
例えば長州藩だと幕末の武家数(陪臣含む)は約13000件あるお
つまり一家に一人、当主のみが出兵しても13000人は動員できたと言う事だお( ^ω^)
石高と比較しても妥当な数だと思うお( ^ω^)
他にも何処の藩でも人夫や時に戦闘員としても百姓(猟師等も)を動員しているお
これはカウントしていない場合が多いけど
総数で見てみると案外戦国時代の数も誇張とばかりは言えないお( ^ω^)



153 :人間七七四年:2009/12/21(月) 18:14:33 ID:3QHMS5cS
武器が揃わないと人数だけ出してもしょうがないからな。幕末期は既に。

154 :人間七七四年:2009/12/22(火) 04:18:22 ID:hhpfYZVN
抜刀隊は残って居るけど
戦国期に大勢いた長槍と弓は絶滅種だもんな


155 :人間七七四年:2009/12/22(火) 11:25:27 ID:2AYe1zoY
>>154
一応、組織としてはあるけどな、弓矢槍奉行・先手弓組・槍組など

158 :人間七七四年:2009/12/23(水) 20:35:58 ID:PyScCNed
兵農分離すれば常備兵ができて兵の動員が容易になると思っていたけど
このスレを見て考え違いをしていたことに気がつきました



160 :人間七七四年:2009/12/24(木) 00:05:25 ID:UFpyh3L0
戦闘員と同数。もしくは2倍近い非戦闘員がいるでなぁ

161 :人間七七四年:2009/12/24(木) 04:32:58 ID:I2I6tv1T
その非戦闘員というのは荷駄車曳いてる奴とか、旗持ちとか馬引きとか、伝令とか
ゴミ糞尿処理をする人とか、小間使いとか、ただの見物に来た奴とか色々な人が居るわけでしょ

そういう人達も竹槍持たせば一応は戦闘員になる訳で

戦闘員と非戦闘員の境界は曖昧で、簡単に変動するもんじゃないのかな
実際に会戦すればそれなりにはっきりするだろうけど
戦闘中に非戦闘員とされる人はいったい何をしてるんだろ


162 :人間七七四年:2009/12/24(木) 08:36:52 ID:brbFMUlH
>>161
戦国時代の小荷駄は別に非戦闘員でもなかっただろうな

163 :人間七七四年:2009/12/24(木) 10:35:13 ID:C/k2ORiu
陣夫、軍夫は基本戦闘に参加することはない。
戦闘に参加しない代わりに、敵の方も攻撃を邪魔しない限り
彼らを攻撃しない不文律のようなものが有ったらしい。



164 :仙台藩百姓:2009/12/24(木) 10:46:59 ID:2YTEGGZh
配下の武士以外については領民を徴発する場合や現地で募集する場合があったお( ^ω^)
これらは後方輸送をするただの人夫だったり戦闘員だったり状況によって違うお
あとは地侍(郷士)などをお互い引っ張り込んだりするお
つまり出兵した際と現地に着いた時では数が違うという事があるわけだお( ^ω^)
敵側から見た場合も、カウンター使って全員数えているわけでもないし
総数を見極めるのは極めて困難だお┐ (´ω`) ┌

小荷駄といえば、「荷駄」と言うくらいだから馬で運んだ訳だけど
米だけにしても一万人一月分運ぶとなると千頭ぐらいは必要だったはずだお
他にも乗馬用の馬もいたわけだし、思いのほか馬って多かったのかもしれないお( ^ω^)


165 :人間七七四年:2009/12/24(木) 10:56:34 ID:qwxbmc+1
合戦の給料ってどのタイミングで支給されていたのだろうか?
前払いだと逃げるやつでそうだし、後払いだと敗走したらただ働きになるし


166 :人間七七四年:2009/12/24(木) 13:09:30 ID:z26RTbUi
>>165
基本は前払い。

うろ覚えだが、関が原の直前、黒田家が傭兵を募集した時、
集まった数百を越える浪人や百姓が並んで金を受け取ったが、ズルをして2回3回と並ぶ者がいた。
金を渡す役人は怒り捕らえたが、如水はその者の名を聞くと「よし覚えたぞ、おまえには3人分の働きを期待している」
と言って許した。


167 :人間七七四年:2009/12/24(木) 13:15:06 ID:qwxbmc+1
>>166
サンクス
ワロタ


168 :人間七七四年:2009/12/24(木) 13:16:50 ID:C/k2ORiu
>>166
関ヶ原の黒田の例はかなり特殊なものだよ。
それにその逸話で支給されたのは給金そのものと言うより、支度金の性格が強かったと思われ。



172 :人間七七四年:2009/12/24(木) 16:19:31 ID:CVv6LmVG
自領の食糧減らさないための戦さ(略奪)だったら非戦闘員も連れていくよなぁ

173 :人間七七四年:2009/12/24(木) 16:33:55 ID:siN6pDDJ
現地調達つっても代金は払う建前だから、非戦闘員増えても困るんじゃない?

174 :人間七七四年:2009/12/24(木) 16:42:42 ID:Zj5RVv8k
他国から兵糧を略奪させるというけど、不確定な兵站を頼りに戦略を立てることは不可能だよな。
中国や西アジアなら敵は城壁に囲まれた一箇所に物資が山積される。でも、日本だと寺や各地の要害に分散するからねえ。





183 :人間七七四年:2009/12/25(金) 01:45:35 ID:zPm/QRXz
100石2.5人はあくまで100石の石高で2.5人の『専業』の『常備』兵を作ることが出来るという基準。
戦国時代だと村に住んでる地主が自分の村で働いている活きのいい農民に槍と鎧持たせればそのまま兵になる。
ところが、城下町に住んでて領主から給料貰うだけの武士にそんなことは無理。
彼らは村とのかかわりがあんまりないから。精々年に一回か二回名主が挨拶にくるだけ。
納税効率は上がっただろうけど、動員の効率は上がったとはいえなさそう。
兵農分離とは兵を(基本的に)常備するという非常に非効率なことをするやり方なのだから。



187 :人間七七四年:2009/12/25(金) 13:37:26 ID:m5DbuCdY
十河城攻撃の時、長曾我部は三万五千動員したらしいが、十万石あたり一万人相当?
多すぎやしないかな。
ただ、土佐の百姓は農作業行く時、いつも武器、武具持って行って畦に置いて起きて
出陣となったら家に帰らず、そのまま戦争へ行ったらしいから、通常よりはかなり動員率
高かったんだろうけどね。


193 :人間七七四年:2009/12/25(金) 21:10:25 ID:Qa8FcBlz
>>187長曽我部の半農半兵は屯田兵と微妙には違うが、イメージ的には屯田兵と考えておいて問題ないと思う。
だから普段は農民として活動するが、戦となれば兵力として集まる。
35000の兵力は更に若年の者や老年の普段の戦では召集しない者たちを召集したとかだろう。
兵糧やお金に余裕があり、短期的だったから問題なかったのだろう。
他の大名も似たようなもんだろうけど、それ以上に常備兵力を用意出来ない四国の土地柄を示している感じだな。


http://ja.wikipedia.org/wiki/一領具足


194 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2009/12/25(金) 21:24:41 ID:H/+IOYZJ
直臣に餅も買えないヤツが混じる土佐だからなあ。

195 :人間七七四年:2009/12/25(金) 22:20:43 ID:5X6qny4H

197 :人間七七四年:2009/12/26(土) 01:38:34 ID:CgangdWB
有名な逸話だろ

198 :人間七七四年:2009/12/26(土) 11:13:30 ID:/2A6gg/R
逸話って背景によるよな

199 :人間七七四年:2009/12/26(土) 13:44:12 ID:Kx2u+WNO
逸話を何でも鵜呑みにしたらいかんね

201 :人間七七四年:2009/12/26(土) 15:06:40 ID:DjuibA9D
長曾我部の餅の話は、秀吉からいただいた餅をありがたいから家臣にも見せますって言う、
秀吉に対する露骨なヨイショだろ。






205 :人間七七四年:2009/12/26(土) 18:47:00 ID:3JzuTXul
大阪夏の陣くらいの時期なら戦国期とあまり変わらないだろうが
三代将軍のころには余計な兵力は幕府に改易の口実になるし
経済的にも辛いから動員力は相当落ちているだろうね
具足も付けられない武士が出てきているくらいだから
戦役とは無縁になってきている


206 :人間七七四年:2009/12/26(土) 19:40:11 ID:Kx2u+WNO
やはり江戸期の動員力のが戦国期より劣るだろうね。

208 :人間七七四年:2009/12/26(土) 19:57:40 ID:DjuibA9D
だいたい「根こそぎ動員」なんて非効率この上ない状態なんだが…。


222 :仙台藩百姓:2009/12/27(日) 10:31:28 ID:htwPYb2e
大坂の陣あたりから諸藩の武家数はそれほど変わっていないはずだお( ^ω^)
極端な加減封されない限り何千人も暇出したり召し抱えたりなんてないお( ^ω^)


223 :人間七七四年:2009/12/27(日) 12:14:28 ID:+MQzUgek
関係ないが戦国末期くらいから、どの大名家でも政治を担当する文官と軍事を担当する武官を
かなり意図的に分化させたらしい。

江戸期になるが会津藩では、軍事関係の家臣は同じ家中でも「外様」と呼んだそうだ。




239 :人間七七四年:2010/01/04(月) 20:31:50 ID:brXTHxO1
天正九年(1581)の明智光秀の軍法では、軍役人数は「百石に六人」と書いた上で、
500石で「甲一羽、馬一疋、指物四本、鑓四本、のほり一本、鉄炮一挺」
1000石で「甲五羽、馬五疋、指物拾本、鑓拾本、のほり弐本、鉄炮五挺」
のように規定されている。


http://www.city.fukuchiyama.kyoto.jp/fukuchiyamaisanWEB/siteibunkazai/komonjyo/goryoujinjya%20mituhidekankei.html

50


実物はこんなの。画像直リンだと結構大きいサイズで見られる。

戦闘要員は1000石だと騎馬5、鑓10、鉄炮5、弓が不明で合計20~25人程度か。
「百石に六人」なら、1000石で60人の動員になるはずなので半数以上は非戦闘員。



240 :人間七七四年:2010/01/04(月) 20:33:10 ID:brXTHxO1
豊臣秀吉は軍令や陣立書がたくさん残っているようなので、動員の努力目標は明確。

http://sans-culotte.seesaa.net/article/18336456.html
ここを参考に書かせてもらうけど、
基本は100石につき5人で、これを「本役」と呼んでいる。
この他、100石につき4人の動員なら「四人役」のように呼称する。
石高制で知行を定め、100石につき何人という軍役賦課をする動員方法は
明智光秀の軍法と共通しており、織豊の政策の継続性が感じられる。

天正十八年(1590)の北条征伐の際は五畿内が半役(2.5人か5.5人?)なのに対し、
北国が六人半役、三遠駿甲信が七人役とか。
徳川前田上杉いじめにもみえるが、戦場との距離に応じて役の重さを決めている。
(軍令の写しは小田原市史資料編にあるそうなので、確認したい人はそちらを。)

文禄元年(1592)からの朝鮮役では九州勢が本役で、中国四国勢が四人役。
ただし大友、立花、島津、宇喜多などは役が軽い。
ここに慶長の役の陣立書の写真あり。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/27010047.html
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/27010048.html
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/products/nakagawake/kaidai74.html

あと、秀吉の場合は知行を宛てがう際に、大名家によっては「無役」と称して
軍役が控除される割合が結構大きく、政治的な恣意性が強い。
毛利、小早川、佐竹(たぶん鍋島も)といった豊臣家に協力的だった大大名は
石高のおよそ1/3が無役なので、動員の強度は他の2/3の水準になる。
たとえば小早川家の場合、筑前30万石のうち10万石は無役で、軍役は残り20万石だけにかかり、
朝鮮役では九州勢は本役なので動員目標は1万人となる。

その他、宮部家が因幡但馬5万石のうち1万石(1589)、丹羽家が加賀12万石のうち2万石(1590?)、
浅野家が甲斐22万石のうち3万石(1593)、中川家が豊後6万6千石のうち1万6千石(1594)と、
知行高の15~25%程度が無役になって、軍役を軽減されているケースがたくさんある。
加藤、福島、蜂須賀といったあたりはこの無役による控除がないようなので、
織田政権時からのステータスに応じてアメを配って手懐けているような印象。


241 :人間七七四年:2010/01/04(月) 20:33:52 ID:brXTHxO1
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、4月27日に島津義弘が大坂で徳川家康と会見したあとで
薩摩の島津義久宛に送った書状で、会津征伐の動員が三人役になると述べている。
旧参謀本部の日本戦史ではこの記述をもとに、会津遠征には参加しなかった西軍の分まで
関ヶ原の役に参加した全大名の動員兵力を100石につき3人で一律に試算して列挙している。
この試算の数字は非常に有名になっているが、値にはほとんど裏付けがない。

西軍側の資料としては8月に石田三成が真田昌幸に送った書状に陣立書がある。
http://www.city.nagahama.shiga.jp/index.cfm/6,8312,c,html/8312/20091026-105207.pdf
これの8番で書状の一部だけど写真が見られる。
これによると宇喜多秀家は57万石で18000人だから三人役だが、
小早川秀秋は52万石で8000人だから一人半役、
長宗我部盛親が22万石で2100人なので一人役、
毛利秀包にいたっては13万石で1000人と一人役にも満たない。
三人役を命令できるほど三成の政治的な立場が強くなかったのか、
戦場との距離を考慮しているのか。

もっとも8月20日に島津義弘が薩摩の家臣に送った書状に、
長宗我部は2000人の動員でいいのに5000人も連れてきている、
だからうちももっと兵士を寄こせ、と催促しているものがあるそうなので、
各大名は自主的に三成の要請以上の動員をしたらしい。


242 :人間七七四年:2010/01/04(月) 20:34:43 ID:brXTHxO1
江戸時代に入ってからの軍役はここを参考に。
http://sito.ehoh.net/gunyakukitei.html

慶長十年(1605)の幕府の軍役規定では
500石で鉄炮1挺、鑓5本(+本人1騎)
1000石で鉄炮2挺、弓1張、鑓5本、馬上1騎(+本人1騎)
2000石で鉄炮3挺、弓2張、鑓20本、馬上3騎(+本人1騎)、旗1本

他はほぼ等倍で増えてるのになぜか5本→5本→20本と歪な規定になっている鑓の数は
慶長十九年(1614)に1000石で10本に訂正されているらしい。
訂正後の値に従えば、大阪冬の陣の時の戦闘要員は1000石で15人。

元和元年(1615)の大阪夏の陣では鑓の数が減って
500石で鉄炮1挺、鑓3本(+本人1騎)
1000石で鉄炮2挺、弓1張、鑓5本、馬上1騎(+本人1騎)
2000石で鉄炮3挺、弓2張、鑓10本、馬上3騎(+本人1騎)、旗1本
戦闘要員は1000石で10人。

慶安二年(1649)の旗本の軍役規定では
500石で侍2 立弓持1 甲冑持1 鑓持1 馬口取1 草履取1 挟箱持1 小荷駄2
1000石で侍5 押足軽1 立弓持1 鉄炮1 長刀1 甲冑持2 鑓持2 馬口取2
草履取1 挟箱持2 沓箱持1 小荷駄2

このうち"立弓持"と"長刀"は5万石級の大名家でもそれぞれ2人と規定されていて、
主人の武器を運ぶだけの非戦闘員だと思われる。
(普通の弓兵は立弓持とは別に"数弓"として人数が規定されている。5万石なら数弓30人。
この他大名家だと鉄炮とは別に主人の"手筒"を運ぶ人数がいたりする。)

さらに"鑓持"は甲冑持や馬の口取りとセットになっていて、
騎馬武者の持ち槍を運ぶ従者かと思われるのでこれも非戦闘員か。

"押足軽"はぐぐったところ非戦闘員の監督役っぽいので、
戦闘時の戦列には組み込まれないと思われる。

動員総数は1000石で22人、基幹戦闘要員は1000石で侍5、鉄炮1、騎馬2騎で合計8人か?


243 :人間七七四年:2010/01/04(月) 20:35:25 ID:brXTHxO1
以上のように、明智光秀の時代に1000石で60人動員だったものが、
時代を追うごとに漸減していき、徳川家光晩年には1000石で22人にまで減少。
戦闘要員も同じくらいの割合で20人から8人に減少しているようにみえる。


244 :奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM :2010/01/04(月) 20:56:44 ID:lVxpIHN1
思い切り調べてもらい大儀。つかお疲れ様。

大坂の両陣は戦国期じゃないから無理してない感じだな。


245 :人間七七四年:2010/01/05(火) 16:50:25 ID:YuQ5spAl
平和な時代になっていくにつれ必要性がなくなり減っていったのかな
大きな軍備は財政を圧迫するだろうし





259 :人間七七四年:2010/01/27(水) 09:22:39 ID:sWhYbGoQ
籠城している時に兵糧ではなく給料が尽きてタダ働きを要求したとする。
その場合、籠城で援軍の見込みがない場合は、やっぱり脱走者が続出してしまうのかな?


261 :人間七七四年:2010/01/28(木) 17:56:48 ID:udYBLJuW
>>258
幕末の農民は実戦経験者がほとんどいない。
戦国時代はベテランの猛者の農民が多くいた。
戦国時代の武士は当主だけでなく、親子兄弟も従軍したりしたが、
幕末の長州征伐の時、将軍が旗本を招集すると子供ばかり集まってしまった。
当主が戦争を怖がって引退してしまい、未成年当主が増えてしまったため。


260 :仙台藩百姓:2010/01/27(水) 09:42:10 ID:l8XXoqKK
戦での脱走者はつきものだお( ^ω^)
戦闘による兵力の摩耗より脱走による兵力の損失で城は落ちる




262 :人間七七四年:2010/01/29(金) 14:00:51 ID:18WfL/u0
信長が美濃を攻略して2国の大名になった後、六角は逃走し、三好や松永も服属し
織田の躍進が始まっているようですね。
徳川や浅井などの同盟者がいるとはいえ、たった2カ国の大名が
なぜ名門六角や最大の実力者三好を圧倒するほど兵力を動員できたのでしょうか?


263 :人間七七四年:2010/01/29(金) 14:53:26 ID:gMymUhGD
2ヶ国といっても大国2国だし、甲斐とか駿河とか相模のような中小国とは違う。

264 :人間七七四年:2010/01/29(金) 16:26:34 ID:lWjIZ6qs
http://homepage3.nifty.com/ksatake/
の太閤検地を参考にすると、尾張美濃2ヶ国で111万石だね
ちなみに、相模・甲斐・駿河・遠江・三河の5ヶ国を合わせると113万石


265 :人間七七四年:2010/01/29(金) 17:45:20 ID:08E28O5F
石高だけでなく、経済も大きなポイント。
織田信長は祖父の代から経済の要地を押さえているのが大きいね。


266 :人間七七四年:2010/01/29(金) 19:30:32 ID:gNdwxbsJ
もっと重要なのはすでに織田勢には滋賀県や福井県や三重県の豪族も従軍していたこと

267 :人間七七四年:2010/01/29(金) 20:51:26 ID:18WfL/u0
なるほど。将軍を奉じる大義名分のおかげで近隣の勢力も動員できるわけですな。




311 :人間七七四年:2010/02/09(火) 01:03:07 ID:vBF8K2fs
検地は土地の面積を計測するのだから、 
収穫後の米を俵に詰める際に、籾のまま入れる風習があっても、 
石高に影響しないはずなのだが。 


312 :人間七七四年:2010/02/09(火) 01:29:18 ID:DbN9qgMm
>>311 
ググったらヤフ知恵袋で説明してるとこがあったよ 
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214296847?fr=rcmd_chie_detail 




295 :人間七七四年:2010/02/01(月) 18:26:56 ID:ixMjU3xk
3人役ですら集めることがままならず、
日之本一の遅陣と馬鹿にされた島津さんになんか用か


296 :人間七七四年:2010/02/01(月) 20:27:48 ID:qAh/ROwK
島津さん、なめるな
文禄検地で56万9千石余と認定されてるけど実質35万石(総人口30万程度だし…)、名目3人役(17070)は5人役相当だぞ

さらに本気出して2万~3万動員した耳川の戦いだと当時も35万石として計算で6~9人役
たぶんこれくらいが全力(総動員)といっていいんじゃないかな??

300 :人間七七四年:2010/02/02(火) 00:20:14 ID:m9Uzejxl
>>296
島津の割り当ては1万。35万の3人役だよ
それでも集まらないから半分の5000人にしてもらったけどね。




301 :人間七七四年:2010/02/03(水) 20:22:20 ID:5/vigasW
対馬の宗って朝鮮征伐の時五千人だっけ?
絶対傭兵が加わっているな。
根こそぎ動員しても徴兵だけではそれだけの数は確保できない。



関連
304 :人間七七四年:2010/02/06(土) 00:40:11 ID:NoMs5Lwj
朝鮮征伐の時、家康は渡海しないにもかかわらず、
名護屋に15000の軍勢滞在させてるな。




357 :人間七七四年:2010/02/21(日) 21:20:05 ID:QW+xIW9h
そういえば長篠の戦いの後、徳川家康の遠江回復のための軍は、傭兵部隊も多かったらしい。


360 :人間七七四年:2010/02/22(月) 03:47:25 ID:dWBE/XKT
戦国時代は足軽引き連れて戦場から戦場に渡る、傭兵隊長みたいなのが結構いたらしい。


361 :人間七七四年:2010/02/22(月) 03:52:57 ID:LJDbe54h
3000人ちゃあ10万石大名規模の傭兵団か、んなのどこにおんの?


362 :人間七七四年:2010/02/22(月) 05:08:32 ID:dWBE/XKT
一つの傭兵団が3000人も引き連れる訳ないだろ。
そんな傭兵隊長がいたらとっくに戦国大名化するわ。

十数人から数十人単位のものをいくつも雇ったと考えるのが普通。



364 :人間七七四年:2010/02/22(月) 09:10:55 ID:X1et3dCe
紀伊の雑賀衆なんて、そんな数十~数千の在外出身の百姓~足軽身分の傭兵集団を束ねる首領や土豪、地侍、海賊衆が、地縁や利害関係などで惣国を結び、戦国大名に匹敵する勢力になったんだろう。
雑賀衆には名字の無い実力者や流民の流入も多かったらしいし。
といか雑賀衆は稀なケースだろうけど


365 :人間七七四年:2010/02/22(月) 11:27:22 ID:ak9f/sLo
>>363
作戦中の食料だけの条件でも、たくさん人が集まる時代だからそんなに金はかかんかと




414 :人間七七四年:2010/04/28(水) 19:54:40 ID:rx1/Ql0O
社会工学研究所(1974年)による1550年頃の推定人口は

日本全国 1029万0100人

石見 8万4700人
備後 11万9900人
安芸 15万2800人
周防 11万1200人
長門 8万7800人
筑前 12万3100人
豊前 9万4000人

大内支配下合計 77万3500人

一方1550年当時すでに日本の人口が1400万人を超えていたとする
最近の斎藤修らの説に立つと、大内支配下の人口は110万人。

1550年頃の日本の人口は1600万人近くいたとする
藤野正三郎の説に従うと、大内支配下の人口は120万人。


415 :人間七七四年:2010/04/28(水) 19:58:07 ID:rx1/Ql0O
1550年頃の都市の人口は

京都:20万~30万人以上
山口6万人
博多5万人
天王寺:3万5000人
伊勢山田:3万人
堺:3万人
柏崎:3万人
春日山:3万人
鹿児島:2万1000人


538 :人間七七四年:2011/09/06(火) 04:15:08.14 ID:xWDLRQ7K
>>415
鎌倉は8万人居たそうだよ。北条の動員数は鎌倉からの動員が
多かったって書いてあったよ。


422 :人間七七四年:2010/05/05(水) 04:29:33 ID:BERL5pON
>>414
人口比では全国と比較して1/13.3だが大内や毛利の石高と比較すると以下の通りとなる。
(本来は一国全体を所有していたわけではないが、ここでは全体を所有していたとして)
もし大内や毛利が最大版図を維持したまま幕末を迎えていたら前田氏2倍以上の恐ろしい石高となる。
さらに彼らは交易の独占や50万石相当の石見銀山を持ち石高以上の実力を持つことになる。
関ヶ原で吉川の口約束通りに毛利が減封されなければなんらかの難癖をつけられて改易されていただろう。
(中国地方の太閤検地は過少申告な反面、長州の幕末実高は過大申告であることに注意されたし)

    太閤検地表高  幕末実高
全国 1848万4153石  3185万4419石

石見  11万1770石   17万2209石
備後  18万6150石   31万5061石
安芸  19万4150石   31万3164石
周防  16万7820石   54万8871石
長門  13万0660石   45万4256石
筑前  32万5695石   63万3434石
豊前  14万0000石   36万3350石
大内計125万6245石  280万0345石
全国比率 1/14.7      1/11.3

美作  18万6017石   26万2156石
出雲  18万6650石   30万2627石
伯耆  10万0947石   24万5034石
因幡  08万8500石   19万3334石
備中  17万6929石   37万2534石
石見  11万1770石   17万2209石
備後  18万6150石   31万5061石
安芸  19万4150石   31万3164石
周防  16万7820石   54万8871石
長門  13万0660石   45万4256石
毛利計152万9593石  317万9246石
全国比率 1/12.0      1/10.0


427 :人間七七四年:2010/05/16(日) 20:30:34 ID:KzpmPfcI
>>414の最小の数値1029万にだいたい海外でも当てはまる動員限界3%をかけたとしても30万
最大の1600万にかけたら50万
日本最大の関が原で20万くらいだから、案外正しかったりするのかもね


420 :人間七七四年:2010/05/02(日) 00:13:04 ID:IH40+qct
10万っていったら>>414でいう一国相当。
これには女子供や老人も含まれる。
そんな動員するなんてありえないよな


416 :人間七七四年:2010/04/28(水) 20:00:41 ID:cZZsAhYY
越後すごいな

417 :人間七七四年:2010/04/28(水) 20:05:27 ID:rx1/Ql0O
他スレからの転載です。

資料が30年近く前の古いものなので
最近の学説だとどんな感じなのでしょうね。




561 :人間七七四年:2012/05/26(土) 01:09:32.62 ID:45URy85P
基本的に武具って自前なんだよね? それとも支給品だったりするの?

570 :人間七七四年:2012/07/21(土) 01:49:46.19 ID:DD3uBF1F
>>561
基本は武器も食糧も持参。戦国遺文みると棒でも何でもよいから持って来い。
なんて書いてのまである。また徴兵範囲は法律によって定められているわけで
はないので、はっきり言って生きているなら誰でも戦場に連れて行かれる可能
性がある。

フロイス「日本史」  第四五章
そこで薩摩の国主島津殿は、自国に危険が切迫しているのを見ると、国内の全地方から人々の招集を 図り、老若男女を問わず、ついには武器を手にし得る者はことごとく、いかなる逃げ口も許さず、領 国の自由のために参集するように命令した。その際彼は、各人はただ四、五日分の米を帯に入れて携 えよ、その糧食が尽きる時までには、戦の勝敗は決していなければならぬと伝達した。このようにし て、人々が確信するところによれば、薩摩の国主は五万人近い人を招集した。それは何も驚くには足 りぬことである。日本では国主または大名が他と戦を始める時、彼は兵士たちになんら支払いはしな い。彼はせいぜい特殊な家臣に対して費用を払うくらいであって、軍隊にはほとんど費やさない。


562 :人間七七四年:2012/05/26(土) 01:15:46.07 ID:AGc69lpW
モノにもよるし大名にもよる
武田は玉薬が無いからお前ら自分で用意しろやと言い放ってる
一方で、大将側が用意するのが当然なのだがと断ってるあたり、こと玉薬は大名(少なくとも武田においては)が用意するのが当然
ほかに帽子やら顔面保護具やらは規定を設けて用意させてる
入手難度の問題なんだろう、恐らくは


566 :人間七七四年:2012/05/26(土) 09:17:37.38 ID:45URy85P
>>562
用意しろって言われても困っちゃいそうだ。当たり前だけど、お金ないと戦争ってできないんだなー



567 :人間七七四年:2012/07/21(土) 01:17:51.51 ID:DD3uBF1F
雑兵の実情を語るスレであげられてたけど、雑兵の3分の1が女だったらしい。
強制的に連れて来られたんだろうけどウガンダの神の抵抗軍の半数が誘拐された
少女だという話しを思い出す。アフリカの地方軍閥とやってることは変わらんな
戦国大名も。


571 :人間七七四年:2012/07/21(土) 09:46:25.76 ID:jUbVLZMA
>>567
女性が戦争に参加するのは避難拠点防衛戦だけ
その発掘調査もたまたまそういう所を調べたんだろ


572 :人間七七四年:2012/07/21(土) 09:54:27.40 ID:DD3uBF1F
>>571
それは違う。例えば武田と北条との合戦で死んだ兵士の死体を集めた静岡の
千本松原首塚でも、やはり3人に1人が女だったようだ。また、この時の合
戦を記した園太暦にも「山名勢猛からず、七八百騎か。そのうち女騎多し。」
とあって武田の騎兵に女が多かったという記述がある。当然騎兵使ってるんだ
から野戦だよ。


573 :人間七七四年:2012/07/21(土) 09:54:49.67 ID:ijSPW+5s
>>571
> 女性が戦争に参加するのは避難拠点防衛戦だけ


それはどういう史料からそう断定してるの?

575 :人間七七四年:2012/07/21(土) 10:09:45.23 ID:jUbVLZMA
千本松原首塚は女性じゃなくて若年層だろ

>>573
信長公記の高遠城女武者を始め村の城などの防衛戦に女性が出てくる史料は多い
しかし攻め手に女性が出てくる史料は極わずか


576 :人間七七四年:2012/07/21(土) 10:17:20.03 ID:DD3uBF1F
>>575

「沼津市千本浜の首塚と関東地方の中世日本人頭骨」 鈴木 尚
               人類学雑誌 第97巻 第1号 別刷 平成元年
○年 齢
 全て成人である。大多数は青年で、老年及び幼少年は全く認められない。
 (町ぐるみの合戦、籠城でなく)野外の合戦だったからであろう。

◆総 括
1)沼津千本浜の首塚が形成された時代は人骨の研究に基づくと、伝説の通り、室町時代中期から戦国時代にかけての合戦による戦死者と見なされる。遺体は合戦が終わると、直ちに埋葬されたが、その数は少なくとも200体に達したことであろう。
 遺骨は永い年月の間、海浜で風雨波浪に曝され、明治の改葬の頃は、人骨の多くが破片となって海浜に散乱し、ごく一部の遺骨だけが、埋葬当初のまま埋まっていた。改葬時、頭蓋骨が重点的に現在の首塚に移された。
2)発見された遺骨の2/3は男性、1/3は女性と判断され、彼らは成年が主体で、熟年は少数、老年と幼少年はない。
3)人為的損傷:頭骨には穿孔されたと思われる大小の円孔があったが、天正年間に千本浜で起こった武田・北条氏の合戦(北条五代記)に際し、種子島銃、矢、槍によるものと思われる。


578 :人間七七四年:2012/07/21(土) 10:28:20.57 ID:DD3uBF1F
>>575

武経七書の一つ尉繚子や史記には功城戦にも女子が加わってる記述もあるよ。古代中国の例だけど
この二つは日本でも広く読まれた書だからね。当然武将たちも目を通していただろう。
そもそも古代から日本に女の武人がいたことは古墳の発掘調査から明らかだから、戦国時代にもい
たとしても不思議ではないだろう。


579 :人間七七四年:2012/07/21(土) 10:37:45.09 ID:DD3uBF1F
>>577
千本松原を発掘調査した鈴木尚はほかにも鎌倉の極楽谷で新田義貞の鎌倉攻め
の際に死んだ兵士たちの遺体1000体を発掘しているんだけど、やはり男2
に対し女1の割合だったそうだよ。
まぁ新田軍に加わっていたのか鎌倉防衛のため町民から徴発されたのかわから
ないけど、少なくとも敵軍が侵略した際の拠点防衛には間違いなく女兵士も参
軍していただろうね。





580 :人間七七四年:2012/07/21(土) 10:53:20.02 ID:jUbVLZMA
着到状や軍役状に女性の名があることは皆無
北条や武田などは軍法状では
「物持ちとか武勇の人を除いて、百姓・職人・神主・幼弱の者などつれて参陣するのは、
もってのほかである。」と、規定されていて当然女性の出る幕は無い。
ただし防衛戦においては城が近隣住民の避難所になっていることもあり
島原や長島など極端な例を出すまでも無く女性が戦闘に協力している史料は
散見できる




581 :人間七七四年:2012/07/21(土) 11:29:17.92 ID:DD3uBF1F
>>580
う~ん。場合に寄りけりかも知れない。強行軍を編成する場合では訓練のほとんど
行われていない者を連れて行くわけにはいかないしな。そもそも雑兵ひとりひとり
の名まで記された史料ってあるの?

それと女を騎兵にするってのは、外国でもわりと見られることだけどね。騎手は体
重が軽いほど有利だから。例えば後漢書にも女官たちに印綬を与え騎兵としたとい
う記述があるし、モンゴル軍も敵を誘導する騎兵は女で構成していたらしい。山名
が連れていた女騎も、この類のものかも知れない。


594 :人間七七四年:2012/07/21(土) 13:22:29.08 ID:jl/1O8ep
>>580
そういう御法度は、逆にそういう人々が従軍することが多かった証左にもなる…
という考えもある
上層階級の武家は、人身売買や物取りを堅く禁じたりもしたけど
この御法度も、乱暴物取が戦場で横行していた証左であるし、実際多くの文書や伝承が残っている
神主、百姓、職人だって多くが戦争に従軍していたし、女の従軍も可能性大


602 :人間七七四年:2012/07/21(土) 18:46:17.52 ID:DD3uBF1F
>>594
フロイス日本史、園太暦といった日記や回顧録といった確実な史料や古戦場の
発掘結果から照らし合わせてみて、まずあったと見て間違いないでしょう。
それよりも一体この女兵士たちが、どういう身分の人間だったかが気になる。
漢代では地方在住の農民は男女問わず一定期間の辺境防備任務か兵役免除金3
00銭の貢納を義務付けられていたけど日本でも類似する制度があったんだろ
うか?
どうも日本の兵制って適当で武将の気まぐれに左右されている気がする。



582 :人間七七四年:2012/07/21(土) 11:42:58.54 ID:jUbVLZMA
>そもそも雑兵ひとりひとりの名まで記された史料ってあるの?
時代は下るが朝鮮征伐以降ならある。そこにも女性の名は無い
また騎兵なら士分格なので余計に記録が残りやすくなるだろうけど無い


583 :人間七七四年:2012/07/21(土) 11:50:10.84 ID:DD3uBF1F
>>582
そうか。防衛の際以外には徴発されてないと。なら、あの千本松原の遺骨
はなんだったんだろう?
ちなみに当時男女問わず軍事訓練をおこなっていたことは間違いなく、日
本に何年か滞在したことのある明人が書いた「日本一鑑」に倭国では女児
ですら武技を教わるという記述がある。まぁこの人は九州以外の地域には
行かなかったそうだが。

585 :人間七七四年:2012/07/21(土) 12:01:43.67 ID:piJ6CRnR
唐入りの時期は女性兵士を投入しなければいけないほど日本は切迫していたのか?
男子兵士が普通に投入できるなら女性兵士をわざわざ投入するのはどうかと思うぞ

士分格の話なら甲斐姫とか誾千代とかも士として否定ということか?



593 :人間七七四年:2012/07/21(土) 13:16:44.34 ID:jl/1O8ep
戦国時代に女性が動員されて戦うという例はよく聞くね
本多忠勝も女兵士について語った話しもあるし、中村一氏が
女丈夫と戦った伝説もある
尼などが武装して戦いに赴いた例や、従軍中に出産した足軽の話なんてのも
(多分女なんでしょうねこれは)
名が残らないのは、やはり当時の世相があるのではないだろうか
とにかく、この時代の女性の名前が今に伝えられているのは
本当にごく一部だから
女の動員は、中世まではわりとポピュラーだったのかもしれない