1


 
1 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 09:33:43.57
 中国の古都・西安で見つかった墓誌(故人の事績を刻んで墓に収めた石板)に、「日本」との文字があることを紹介する論文が中国で発表された。墓誌は678年の作と考えられるとしている。日本と名乗るようになったのはいつからなのかは古代史の大きななぞ。大宝律令(701年)からとの見方が有力だったが、墓誌が本物ならさらにさかのぼることになる。 

 中国の墓誌を研究する明治大の気賀沢保規教授(中国史)によると、論文は吉林大古籍研究所の王連竜氏が学術雑誌「社会科学戦線」7月号に発表した。 
祢軍(でいぐん)という百済(くだら)人の軍人の墓誌で1辺59センチの正方形。 
884文字あり、678年2月に死亡し、同年10月に葬られたと記されている。 

 百済を救うために日本は朝鮮半島に出兵したが、663年に白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に敗れる。その後の状況を墓誌は「日本餘●(●は口へんに焦) 拠扶桑以逋誅」と記述。「生き残った日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」という意味で、そうした状況を打開するため百済の 将軍だった祢軍が日本に派遣されたと記していると気賀沢教授は説明する。 

http://www.asahi.com/culture/update/1022/TKY201110220586.html 

上の方に「日本」の文字が見える。「最古の日本」の可能性が高い 
=「社会科学戦線」7月号、王連竜氏の論文「百済人祢軍墓誌考論」から 
http://www.asahi.com/culture/update/1023/images/TKY201110220633.jpg 


3 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 14:28:30.25
別にこの記事の時代に、もう日本の国号使って居ても、別段驚かないけどね。 

小野妹子が隋に持っていった、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」のいわゆる聖徳太子の国書が607年で、隋からの答礼使裴世清に持たせた返書「東天皇敬白西皇帝」がその2年後だし。 

東=日の本なんて、古代人においては普通の発想でしか無い。 




7 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 17:32:08.68
また意外なとこから出てきたね。 
白村江の敗戦のショックでわずか15年の間に大急ぎで改名したんだろうな。 


 








8 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:36:27.79
全文をみないで思いつきかきこだが・・・・ 
「日本餘●(●は へんに焦) 拠扶桑以逋誅」の日本って「国号」というより 
もっとくだけた異民族の俗称が入りそうな文脈なんだが。 

白村江の戦いの後、あわてて国号をたてて、その直後に旧敵国側の人間が 
日本の立場を尊重して日本の新国号を御丁寧につかってくれそうな文脈じゃない。 

ひょっとすると「日本」というのが当時の倭国への蔑称とまではいかなくても 
俗称だった可能性があるのでは? 
で、倭国政府は大陸や半島での「日本」とい「倭」の俗称を何らかの誤解の下に 
正式国号としてしまったのでは? 

11 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 19:56:04.55
>>8 
墓の主が百済の人間だからこっそりと日本に義理立てした可能性も無くはない。 
墓誌は埋めてしまうから役人の目に触れる危険も無いだろう。 

13 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:01:55.40
>>11 
ああ。旧百済の人間として、百済を援助してくれた倭が海の向こうで「日本」とか名乗って健在なのを内心喜んでいる、 
てな文脈なのかなあ。 

どのみち朝日の記事だけじゃ何もわからないや。 

12 :荒らしを呼ぶ男:2011/10/23(日) 19:56:40.53
日本餘?拠扶桑以逋誅 
日本は餘?、扶桑に拠し、以って誅を逋れる。 

日本は生き残り、扶桑(大海の中)に拠し、以って誅を逃れる。 
この10文字だけで読めば、こんなところかな。 



14 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:04:43.45
ひょっとすると日本に亡命した百済貴族が、唐に帰服したこの墓主に対して縁故を辿って 
天武政府の依頼を受けて、「今度"日本"という新国号にしました。この新しい名前で唐との外交関係を改善できないか 瀬踏みしてくれませんか?」とか働きかけていたのかも。 

いかん。もう小説の世界だなあ(w。 


15 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 20:24:53.98
「日本の餘?、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読む。 

「日本国の残余兵は、国内の東方に逃亡した」という意味。 
扶桑(ふそう)とは日本の東域(正確には関東方面)のこと。 

16 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:27:59.70
>>15 
そうかい。知ったふりの、いいいい加減説・断言氏。 

●扶桑(ちゃんと調べてみたよ) 
原義は、東海の日の出るところにあるという巨大な神木。 
転じて、東方海上にある島国。扶桑・扶桑国は、日本の異称ともなった。 

17 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 21:47:00.74
>>16 
調べたら何でも分かると思っちゃいかんぞ。 
扶桑というのは、語義がまだ不安定な言葉だからな。 

18 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:05:33.67
>>17 
日本人がいう扶桑じゃないぜ。 

日本国内純正仕様解釈ではなく、 
「7世紀の中国人」が扶桑といったら何の意味があるかの問題だ。 
この文章では、「大海の中の島」という意味で使われているのは明白だ。 
わるあがきをするな。 

それにしてもどうだっていいことで衒学をするもんだな。 
なーにが、「日本の餘?、扶桑に拠り、以て逋誅せり」と読むだ。 
俺の翻訳のほうがよっぽど分かりやすいだろが。しゃらくさい 

19 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:09:04.55
>>15 
?は「噛む」という意味のやうですが。 



22 :日本@名無史さん:2011/10/23(日) 22:53:13.15
扶桑=日本、の意味となったのは、平安・鎌倉時代以降だろうな 


24 :日本@名無史さん:2011/10/24(月) 00:45:31.09
「日下(くさか)」とは関係ないの? 
 
27 :日本@名無史さん:2011/10/24(月) 02:21:10.86
>>24 
それは枕詞に由来すると考えられている。 


29 :日本@名無史さん:2011/10/24(月) 09:07:50.98
日本ぐらいは使っててもおかしくないんじゃないか? 
日の本の国→日本だろ 

おまいらも「お彼岸」ぐらいは知ってるだろうが、あれは「むこう岸」という意味だ 
つまり「ひノもとノくに」とは半島倭人からすると、日本海を見ながら「むこう側の本国」=『ひの本の国』だということ 
和語の音に当てる漢字を倭→和と改めたように、「ヒに日をあてた」ってわけだよ 







さっき思いついたんだけど、一瞬でもナットクしそうになった方は挙手を願いますw 

30 :日本@名無史さん:2011/10/24(月) 09:35:19.12
>>29 
ノシ 

レスを考えながら読んで損したw 


32 :日本@名無史さん:2011/10/31(月) 20:37:16.09
国内向けに使われていたのかな? 
中国向けには倭国でさ 

33 :日本@名無史さん:2011/11/05(土) 23:28:13.04
>>32 
ちがう 
中国向けに「倭」だったのを中国向けに「日本」に変更したってこと。 
国内ではヤマトのままでかわりない。 

34 :日本@名無史さん:2011/11/09(水) 20:36:39.42
墓碑の全面写真見たけど、 
扶桑の「扶」の部分は欠けてるみたいだなあ。 
扶桑とは読めんぞ。 

35 :日本@名無史さん:2011/11/15(火) 12:34:41.49
670年が近江令、日本建国の年だと思う。 

36 :日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:04:31.23
>>35 
たかが法律だろ 
なんで日本がなかった 
ことになるんだよ 

37 :日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:15:20.20
禰軍は665年、唐の使者として倭国に来た。 
日本書紀にしっかり出ている。 

38 :日本@名無史さん:2011/11/15(火) 23:55:19.09
新羅の記録では、倭が日本になったのは670年。 
禰軍は672年まで新羅にいた。 

39 :日本@名無史さん:2011/11/17(木) 07:24:17.11
倭→日本改名は674年3月と見る。 

40 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:07:48.25
天武天皇3(674)年3月、対馬で銀が採れたが、これは「倭国で初めて」のことだと日本書紀は記している。 
この「倭国」は狭義の「倭国」=奈良県でなく、明らかに対馬を含む広義の「倭国」=「大倭国」であるので 
この時はまだ「日本国」でなく「倭国」だったが、 この事件を契機に「倭国」は「日本国」に変わったのではないか。 
根拠は三つ。 
 
①天武天皇4(675)年1月に奈良県を「倭」でなく「大倭」と記した記事が現れる。 
狭義の「倭国」=奈良県を「大倭」と記した例は宣化天皇以前に数例しかない。 
これは広義の「倭国」の国名変更を暗示している。 
 
②天武天皇3年は、前後の年に比べて極端に記事が少ない。 
「日本」を神代に遡らせるため、国名変更の記事を省略したか。 
 
③天武天皇4年は祝賀ムードが高まり、新羅の王子忠元や耽羅(済州島)の王姑如が日本に来ている。 
ここで両国に国名変更を伝えたのだろう。 


41 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 12:24:49.44
ていうか、倭も日本もやまと。 
飛鳥と明日香(あすか) 
平城と奈良(なら) 
長谷と泊瀬(はつせ) 
みたいなもんで、基本的には新しい表記法が増えたということ。 
まあ確かに奈良時代以降、対外的にも日本全国としての国名を「日本」としている節はあるけど、 
一方で称徳天皇の詔や万葉集など、奈良県のやまとのことを「日本」と表記している例もある。 

42 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 13:18:07.65
701年に対馬で金が採れた(実は嘘だったらしいが)とき 
途絶えていた元号を復活させて「大宝」と改元。 
その後元号は途絶えることなく「平成」に至る。 
674年の銀も、全ての神々に捧げ全ての官吏に配るという大騒ぎなのに 
改元記事が無い。 
国号変更したなら、黄金のジパング=ジャパン=ジッポン=日本の出発点か。 

47 :日本@名無史さん:2011/11/20(日) 03:21:23.29
倭から日本ってのは、白村江の敗戦のあとに 
王朝交代があったかのようにみせたかったのではないかな 
隋から唐に変わったみたくさ 

54 :日本@名無史さん:2011/11/23(水) 08:50:32.57
天武は673年、耽羅の使者に革命宣言してる。 

55 :日本@名無史さん:2011/11/23(水) 09:05:32.54
耽羅からの渡来人の坂上田村麻呂を多賀城に遣わし、蝦夷を討ったのだろう? 

59 :日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:07:14.15
>>55 
坂上田村麻呂は、東漢氏だろう?たしか。 
だから、応神天皇時代前後くらいに、 
日本に移民してきた出自をもつ豪族だよ。 


43 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 17:19:16.03
「新羅」⇒「しらぎ」 
「百済」⇒「くだら」 
「任那」⇒「みまな」 
「白村江の戦い」⇒「はくすきのえのたたかい」 

でも今の中学生や高校生の教科書には 
「新羅」⇒「しんら」 
「百済」⇒「ひゃくさい」 
「任那」⇒「伽耶諸国(かやしょこく)」 
「白村江の戦い」⇒「はくそんこうのたたかい」 

に成っている件について…。 
これも朝鮮人どもの影響だろうか…?? 

44 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 18:42:51.33
前の読みの方がコリア語に近いのにねw 

45 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 20:16:02.87
まぁ百済をどうやってもくだらとは読まないのは確かだから別に良いけどね。 
百済観音とかもひゃくさいかんのんと読む人が増えて話が通じないとかなりそうだな。 

57 :日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:00:04.28
>>43 
「しらぎ」とか「くだら」ってのは、あくまでも 
倭国側での読み方で 
当時、彼らが何というふうに 
自分たちの国名を読んでいたのか、分からんのだよ。 
漢字というのは、時代によって、音韻が絶えず変化するからね。 


46 :日本@名無史さん:2011/11/19(土) 23:37:40.95
新羅→シルラ 
百済→ペクチェ 
高句麗→コグリョ 
任那→イムナ 

コリア語だとこうだったっけ? 



48 :日本@名無史さん:2011/11/20(日) 08:46:06.33
コリア語は新羅語がもと 
日本語は高句麗語に近いらしい 

58 :日本@名無史さん:2011/11/24(木) 11:03:55.33
>>48 
日本語は倭語だよ、普通に。 
高句麗語ってのは、高句麗の王族が扶余だったから 
扶余語だろうね、おそらく。 
だとしたら、高句麗語ってのは、女真語の祖語に近いと思われ。 

49 :日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:10:04.40
「新羅」は「シラギ」、「百済」は「クダラ」、「任那」は「ミマナ」なのに、 
なぜ「高句麗」は「コマ」じゃなくて「コウクリ」なの? 

50 :日本@名無史さん:2011/11/20(日) 10:23:26.97
慣用かな? 
ただ、たしか日本書紀とか六国史に「高句麗」は出て来ないよ。 
「高麗」と表記し「コマ」と訓んでるはず。 

51 :日本@名無史さん:2011/11/20(日) 13:30:45.51
>>50 
山梨には巨摩(こま)っていう地域があるんだけど、高麗からの渡来人が住んでいたから「こま」って読むんだよ 
って中学で習った。 



65 :日本@名無史さん:2011/12/02(金) 19:04:25.09
「失われた言語」とかって解釈すると胸熱 



94 :日本@名無史さん:2011/12/11(日) 15:40:01.24
ヤマトも畿内の地名だよね 
地名が国名になるのは結構大規模な軍事統一が必要なんじゃないだろうか 

95 :日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:11:47.09
>>94 
「ヤマト」が国号になったことはないんじゃないか。 
6世紀以前には中国から「倭国」と一方的に呼ばれていたものが 
6世紀前後に日本側から「日本」という国号を中国に伝えている。 
日本で初めてできた国号が日本。 
それ以前にはまだ畿内を中心とする小国連合であって 
一つの国という概念が国内にあったかどうかは分からない。 


96 :日本@名無史さん:2011/12/11(日) 18:22:35.11
倭も日本も国内での訓みはやまと。 
漢字での新しい表記法が増えたにすぎない。 
あすか→飛鳥・明日香 
なら→那羅・平城 
はつせ→泊瀬・長谷 
しき→志貴・磯城 
うじ→宇治・菟道 
なにわ→難波・浪速 
やまと→倭・日本 



98 :日本@名無史さん:2011/12/11(日) 21:41:23.67
いやほんとね、教科書とかテレビの歴史番組とかで、 
「中央集権国家を確立し、倭国から日本国に国名を改めた云々」 
て刷り込ませた過ぎたんだと思うね。 
実際はほんと漢字での書き方が増えただけの話で、 
倭国・日本国どっちとも国内的には「やまとのくに」だったんだと思うんだよね。 
奈良時代以降「やまとねこ」表記には倭根子も日本根子も使われるし、 
万葉集でも「日本」は「やまと」と読まれ、大方奈良県のことを指すわけだから、 
「国号を『わ』から『にほん』に改めた」云々てのは、ちょっと違うんじゃないかなあと思う。 

99 :日本@名無史さん:2011/12/11(日) 21:47:27.10
気がついたら日本=にほんになってたってことか。 

100 :日本@名無史さん:2011/12/11(日) 22:06:50.99
大陸(漢風)文化の影響かな。 
平城京の「ならのみやこ」、平安京の「たいらのみやこ」も 
「へいじょうきょう」「へいあんきょう」になっちゃったしな。 





転載元
「日本」の呼称、最古の例が中国で発見。678年の墓
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1319330023/l50

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