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1:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 17:21:50 ID:ItJwvL2z
秀吉の天下取りを補佐した超名軍師、黒田官兵衛を語りましょう!(*・ヮ・*) 
その知略、勇武は大海を泳ぐ魚の如き自由自在、変幻自在であり、 
彼がいなければ秀吉も天下は統一できなかったとも言われます。 
秀吉死後、関が原のどさくさに紛れて九州を支配し、天下を狙おうとしたのも 
実は野心家である彼のみが成せる所業です。 
官兵衛自身はもちろん、その功績、周りの人物、事象などでもおkです! 

 

36:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 02:48:17 ID:TnfgsWFi
官兵衛は幽閉後はビジュアルに問題があるから、損してる 
髪の毛ないし、足悪いし、頭巾かぶるだろ。杖ついてるし、馬にも乗れん 
アクションゲーにはメインで登場できない属性だからな 

あと、小説でも大体中国大返しくらいまでしかちゃんと書かれない 
んで、そのあといきなり関ヶ原までワープ 
だから、有岡城幽閉と半兵衛の美談(長政を助けるやつ)が、 
どうしてもメイン扱いで、半兵衛が目立つ結果になってるんではないか 

半兵衛がなぜか美形扱いされてるのは、よくわからんが


 
37:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/01(火) 05:22:08 ID:2NTV3aD3
>>36 
ミーハー人気では損してるよな。半兵衛の美形は早死にのせいでしょ。
 
39:魔玉砲 ◆RX/MoGZ9xs :2006/08/01(火) 12:09:06 ID:adYEPKNQ
竹中の美形補正は龍興が女みたいな奴とからかったからじゃない? 


…まぁどうでもいう事だが


 












 
 
6:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:24:34 ID:RE88ppEN
小寺政職の子供を食わしてやってたのには感心した。自分を窮地に追いやった奴の子供なのに。
 
7:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:50:23 ID:sHYbBSI4
>6 
でも如水をほんとに評価してたのも籐兵衛さんだよ、筑前じゃないよ。 
身内同然の思い入れあがったんだよ。
 
8:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:52:08 ID:sHYbBSI4
籐兵衛=小寺政職

小寺 政職(こでら まさもと、永正14年(1517年) - 天正10年(1582年))は戦国時代武将黒田孝高が初めに仕えていた人物としても知られる。
 

49:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/04(金) 22:28:06 ID:RDJ5t4Dm
だいぶ前に読んだ「カルテ拝見 武将の死因」(杉浦守邦)という本では 
如水の死因を若い頃(おそらく小寺時代京で遊んだ時)罹った梅毒とし、 
如水に関するいくつかの謎を梅毒の症状や進行過程によって推測している。 
今手元にないのでうろ覚えなのだが 

有岡城監禁について 
→梅毒が進行すると、いきなり四肢に瘤ができて痛むことがある。 
有岡城に使者としてやってきた官兵衛がいきなり昏倒して歩行が困難な状態になったとしたら? 
荒木村重は使者である官兵衛をぞんざいに扱うわけに行かず 
かといって既に篭城臨戦体勢の中、自力で歩けない官兵衛を丁重に敵方に引き渡す手間を掛けられず 
結果的に干殺しのさなか敵方の官兵衛を生かし続けるという変な事になった。 
監禁は嘘。脚の障害や脱毛は梅毒の症状。 

次男についての記録が極端に少ないことについて 
→如水には子がたった二人しかいないのに、その片方である次男についての史料がほとんどなく、 
生まれ年と慶長の役での夭折したことしかほとんど触れられていない。 
梅毒に罹ると生殖能力が衰え、また薄弱児が生まれやすくなる。 
次男は薄弱児でとうてい黒田家を支えるには足りないと早くから思われていたのではないか。 
長政は梅毒に罹る前にできた子である。 

関ヶ原時の行動、晩年の奇行について 
→梅毒が生き延び末期になると、脳神経がやられて妄言奇行が多くなる。 
関ヶ原役の九州における如水の軍事行動は、普通ならあまりにも非常識であり 
これが失敗しなかったのはひとえにそれまでに如水が築いてきた名声と 
家臣団の錬度によるところがおおきい。 
如水の妄言はその後も酷くなっていき、それはちゃんと記録にも残っている。


51:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 00:39:53 ID:XgJ8xUHX
<瘡あたま>っていうあだなは、明らかに梅毒もちっぽいね。 
ただ、如水は長政と死んだ次男の他にも、もうひとり庶子の男の子いるけどな。 
確かかなり年取ってからの子で、正室の侍女に手をつけて(あらら) 
男の子が生まれたんだけど、生まれてすぐ家臣に養子に出したから黒田姓じゃない。 

3代目藩主忠之の黒田騒動の時、家老の栗山大膳が、家康が長政に与えた感状を 
万が一の時に備えて預けたのが、この如水の庶子。
 
52:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/05(土) 23:34:31 ID:TB8bypXn
如水は小早川隆景の評が実に言い得て妙
 
53:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 04:57:22 ID:jjmIjDi1
>>52 
これ? 

> ある時、黒田如水が隆景に質問した。 
> 「私は勘によって物事を判断するため、間違いを起こすことがある。私に比べ、小早川殿の 
>判断には狂いはない。何か秘訣があるのでしょうか。」 
> 隆景はこれに答えて 
> 「おっしゃるほどのことではありません。私は黒田殿ほど鋭くありません。物事を考えに 
>考え抜いたあげく結論を出すしかありません。黒田殿は頭が良いため、素早く決断なさる。 
>そのために情報に誤りがあった場合に判断が狂われることがあるのでしょう。」
 
54:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/09(水) 05:03:30 ID:jjmIjDi1
これもいい言葉だな。隆景というのは偉い人だ。 

 如水の子である長政も「分別」について隆景に教えを乞うた。 
 「分別に肝要であるのは仁愛です。仁愛により分別すれば万が一、理に当たらないことが 
 あっても、そう大きな誤りにはならない。逆に才智が巧みでも仁愛のない分別は正しいとは 
 言えないでしょう。」と答えたという。
55:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/13(日) 22:53:13 ID:eNpKMU6j
如水は、諸大名との交友関係は異常に広いね。 
小早川とも毛利とも鍋島とも細川とも、黒田家は如水の代は仲がいい。 
細川とは長政の代で天敵になり、鍋島とは忠之の代で険悪になったけどな。

58:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/14(月) 18:23:24 ID:Hs28zfof
でも小早川隆景は如水の事を信用してないんじゃなかったっけ?
 
63:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 10:15:40 ID:O2Ubz6bY
>>58 
お前知らんの? 
隆景と官兵衛はまぶダチだよ。 
いやネタじゃなくてほんとだから。 
広島に築城した時も官兵衛に土地の鑑定してもらってるし、 
九州征伐でも一緒に鍋島調略してるし 
朝鮮でも隆景と小西が意見食い違ったときも官兵衛は隆景と同じ発言してる。 
秀吉の次に認めてたと思うよ。
 
64:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/16(水) 19:47:32 ID:h5lzV7nq
広島城築城の件は、策士同士の腹の読みあいってかんじだけどな 

如水と長政は、豊臣政権で対毛利家の外交窓口である 
取次って職についてたから、毛利家と縁が深いのはそのせいだろう 
吉川広家が家督継ぐとき後押ししたのも、婚姻の世話もしたのも如水 
結局、黒田親子が政権内で失脚して、あとは三成が取次ぎになったけど、 
長政の関ヶ原の時の工作が成功したのは、毛利家との2代にわたる 
信頼関係があったからでしょうね




5:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:15:27 ID:97rq7+Bw
関が原があんな早く終わんなきゃね
 
9:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:54:35 ID:suy0O7J5
>>5 
息子すら思い通りに動かせないんじゃ、天下は厳しいだろ。
 
10:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:56:41 ID:sHYbBSI4
息子もなまじ才能があるだけにねえ・・・。
 
11:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/28(金) 23:57:34 ID:suy0O7J5
>>10 
でも、家康は長政使いまくったからねえ。
 
黒田長政
61
http://ja.wikipedia.org/wiki/

21:黒田節 :2006/07/30(日) 06:27:55 ID:xzPlal09
関が原において有名な石垣原?豊後で僅かな寡兵(農兵)で大友義統らの軍2000人相手に、 
勝利し、その後も肥後国境付近の城を開城(降服)させた。 さあ薩摩盗り目前にしてその野望ついえる、、、、、、
 
22:しまづ よしひろ:2006/07/30(日) 09:28:30 ID:FqGs144V
(´・ω・`)薩摩、大隅は、渡さんど!
 
23:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 11:33:29 ID:T6fzJVFl
じょすい「さつまちょうらい」 
(´・し・`) 

ながまさ「ちちうえごめんよ~」 
(´:ε;`) 
 
24:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 13:29:26 ID:yuxdlXQQ
>>21 
石垣原は双方寄せ集めではあったけど黒田軍の方が何倍か多かったはずだよ。 
大友方千を最初3千で攻めて負けて、次に本隊8千で潰したって内容だったような。

石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)は、慶長5年(1600年)9月13日に豊後国速見郡石垣原(大分県別府市)で行なわれた黒田如水(孝高)軍と大友義統(吉統)軍の合戦である。

 
25:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 15:40:27 ID:BiH0wCbC
大友を降したあとの北九州の西軍諸城が降伏したのは、時間的には、 
関ヶ原の勝敗が決まったあとではないの? 
黒田家が東軍だから交戦を避けただけで、別に如水の外交力でも神算鬼謀のせいでもないと 
思うんだけど。
 
26:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/30(日) 16:18:11 ID:srmz+7gP
>25 
大友義統の降伏が関ヶ原と同日だから、時間的にはその通り。 
西軍敗北の知らせを受け取った如水が、その情報を使って開城させていっただけだろうね。


65:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 01:16:27 ID:Ab6eLxD8
親父黒田より息子黒田の方が実は大物なんじゃない? 
如水も長政本人も周囲の人間も、なぜか父の方が偉大だと思いこんでるのが 
何か不思議な気さえする。 
戦場で槍働きさせてよし、策士としてもここ一番での大寝技も決められ、 
武断から文治の転換期に近世大名として領国経営もこなし… 
というのをひとりの人間がこなしたのは、凄いことだと思う。 

67:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 06:13:07 ID:BuwBUBr2
又兵衛との確執や再仕官にしつこく横槍いれたりと、長政は小人物の印象
 
68:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 07:43:25 ID:a5F+H9mx
親父の秀吉の天下取りへの貢献と息子の関が原での活躍のどちらにより信憑性があるかといえば 
あきらかに後者だろうに。そのへんから息子の方がすごいという意見があってもおかしくないと思う。 
 
69:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 15:03:27 ID:Ab6eLxD8
>>68 
長政の関ヶ原での活躍は確かにすごいね 
というか、東軍は長政の切り崩しと懐柔工作で勝ったようなものだし、 
上手い形で家康に恩を売ったものだと思う 
秀吉の中国大返しは、如水がいなくても起っただろうけど

74:名無しさん@お腹いっぱい。:2006/08/17(木) 19:08:08 ID:cyljvvOn
>>68 

長政の懐柔は如水の布石と信頼があったから行えたんだってばよ。 

・小早川秀秋→秀頼誕生の時に立場が危うくなった秀秋を小早川家の養子に斡旋、付け家老を黒田家から2人出す事に成功。 

・吉川広家→広家は嫡子では無いが、元長死後に如水に吉川家の相続を根回ししてもらう、如水を師父と敬慕。 

・武断派七将→戦場の生き字引として深く尊敬される、清正に至っては関ヶ原の九州戦線で如水に従うと言う手紙さえ送っている。 

これだけの下地を作ってたからこそ、長政の工作が実を結んだのだよ。 
そして長政しか離反工作を行う事が出来なかったのは、如水の信用がバックにあったから。 
高虎でも藤孝でも忠興でもなく、長政でなければ対毛利の工作はできなかったんだね。