1 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 08:10:08.93 0
身体障害者、心身障害者や、統合失調症患者、ハンセン氏病患者に対する差別、隔離政策、保護、福祉などについて語るスレです。 
※かなり微妙な話題なテーマですので、節度を持った発言をお願いします。 





3 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 09:30:15.52 0
文明の発展が障害者を創る、という説がある 

識字率の増加がディスレクシア(読字障害)を創り、 
産業革命が起こり、工場での規則正しい労働に適応できなかった人々が 
知的障害者とみなされ、 
IT革命でサービス業に適応できなかった人々が発達障害者とカテゴライズ 
されるようになった 




50 :世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:24:34.63 0
37 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 21:22:07.50 0 
日本の戦国時代って、生存競争厳しそうだけど、障害者って生き延びることできたんだろうか? 


38 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 21:29:11.53 0 
山本勘助とか大谷吉継とか障害者だろ 



 







39 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 21:35:34.31 0 
障害の種類とか、身分によりけりなのかな。 
果たして、若年の農民でろくに自分で歩けないやつを、養ってくれる仕組みがあったかどうか。 


40 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 21:49:29.87 0 
視覚障害その他の身体障害、知的障害等々を負った人を 
養う仕組みは普通にあったんじゃない? 
そもそも戦国時代ということと生存競争が厳しい云々という 
ことが直接関係するとは思えないけど。 


41 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 21:51:35.10 0 
江戸なら乞食の描写で障害者が多くみられるけどな 

51 :世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:24:55.72 0
44 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 22:38:54.88 0 
戦争が多い時代は、当然、後天的な障害者は多かったわけで、 
救済策もある程度は講じられたんじゃないかな。 
戦争のために障害を負った人間が「はい、それまでよ」で 
切り捨てられたのでは、本人も家族も我慢ならなかっただろう。 
現代の福祉政策のようなものではなかっただろうけど。 
中央集権ではなかったので地域差は大きかっただろうけど。 


45 名前:世界@名無史さん 投稿日:2011/09/24(土) 22:49:26.83 0 
冬ともなれば北西の季節風が砂埃を巻き上げる江戸。 
ましてや栄養や衛生の状態も悪い。 
盲人はそれほど珍しくなかったということだ。 

盲人の仕事といえば、按摩に音楽、鍼医者、そして金貸し。 
落語に盲人をからかった話が多いのは、金貸し=盲人に対するやっかみも手伝ってのことだとか。 

しかし音楽や按摩の才能がない盲人は悲惨だな。 
盲目の国学者・塙保己一は楽器も弾けず按摩もできなかったので、 
学問で身を立てることになって大成した。 
点字もない時代の学問修行は大変だったろう。 

52 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/27(日) 23:13:52.69 0
>戦国時代の障害者 
以下、文献がどこかへ行ってしまったので記憶によるものですが。 
「乞食」をやしなっておき、村同士で諍いが生じた際、贖いとして死罪にす 
るという慣習があった筈です。 
『金枝篇』で言うところの王殺しや持衰の様に、罪をあがなわせて殺すこと 
で解消する、という発想があったともいう。 
『信長公記』には、先祖が常盤御前を殺して以来、代々乞食をやっている男 
が田舎にいたという話があります。 
この場合、信長が特別に養わせていますが、その前でも生きていけたらしい。 

中世に、身体的な影響を与える病などが原因で不具になり、養ってくれる身 
内や僧がいなかった場合、乞食となり、京都なら非人頭の配下となりました。 
11世紀以降、病人などに由来する「乞食」が「非人」と呼ばれ、清水坂一帯 
に集住し、組織化されています。 
現在の今熊野の辺りが、かつての葬送地である鳥辺野(後にやや北へ移動)。 
六波羅の由来は六波羅蜜寺で、髑髏原とする説はあまり信用出来ませんが、 
そう言われたのも無理はない、「死」と縁のある一帯でした。 
元々、鴨川より東は京都ではない。 
祇園というのは八坂社(祇園社)に由来する地名ですが、祇園は元々疫病を 
司る神ですからね。街中にいられては困る存在です。 
この手の存在の祭りは、郊外(都市との境界)で行われましたし。 

>冬ともなれば北西の季節風が砂埃を巻き上げる江戸。 
「風が吹けば桶屋が儲かる」という奴ですね。 










11 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/20(日) 17:51:52.29 0
五台山は文殊菩薩の霊地。 
文殊は老人・女・子供・病人が主な救済対象であったため、食事や蒸し風呂 
の施与を積極的に行うべき対象とされていました。 
この信仰、日本にも影響を与えています。 
光明皇后が風呂で綺麗にしたのは阿?如来であったと言いますが、聖徳太子 
が衣を施した道端の老人や、行基は文殊の化身とされていました。 
己が弱者の姿で現れるから、敬って救えとは文殊について説かれた経典の弁。 

ただ、病人と囚人を兼行で助けた僧侶の例が見られるのは、病人も囚人と同 
様に、「悪行」の報いを受けた存在と見做されたためですね。 
ハンセン氏病などの「業病」は己の行いの結果と見做されたので。 
ただ、これは当時の人間の世界観から「病原」を追求した結果で、知識の積 
み重ねられた現代から批判するのは、妥当ではないでしょう。 




13 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 17:56:30.70 0
日本のハンセン氏病患者って、多くは乞食をやらざるをえなかったんだよね? 
他の職業にも就けなくて。 

14 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/20(日) 18:15:25.91 0
>>13 
寺社の門前に小屋をかけ、寺院と俗人の援助を求めていたようですね。 
奇形の人間(片輪)も、同様にしていた様です。 
彼らが乗る車を曳いてあげると、功徳になると言われていました。 
身体が不自由になっていた主人公が車で湯治場まで曳かれる『小栗判官』は 
その一例。 
近代の方言でも使われた「かたゐ」は、片輪、ハンセン氏病患者、乞食を指 
す言葉であり、罵倒語でもありました。 
乞食はほいととも言いましたが、こちらは語義がよく分かりません。 



15 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 18:23:03.49 0
>>13 
日本はというより西洋でもハンセン病の患者は町はずれなどに隔離されていた描写をみる。 

日本ではイタコは視覚障害の女性がなっていたとか。 

17 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 18:24:25.82 0
>>15 
街から離れた場所に隔離されるのと、乞食をやるのとでは真逆じゃない? 



16 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 18:23:24.13 0
>寺社の門前に小屋をかけ、寺院と俗人の援助を求めていたようですね。 

中世、近世通して、こういう慣行が行われていたのでしょうか? 


18 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/20(日) 18:33:25.32 0
>>16 
中世には明らかに見られたもので、『一遍聖絵』にその光景が描かれています。 
彼らが小屋架けをしていた大きな寺社(四天王寺など)が救済対象としていた 
ということですが、時宗の史料であり、上の『小栗判官』でも時宗の上人が援 
助しているという様に、時宗が特に熱心であった様です。 
願阿弥による、貧民救済も有名。 
「罪の報いを受けている者」への救済という点をあげつらう人もいますが、これ 
は後出しジャンケンでしょう。当時の価値観です。 

近世はよく分かりませんが、少なくともハンセン氏病で乞食は普通にいました。 
宗教的な見方には、変化が出ていたと思いますが。 
大きな祭りの時に乞食が数十人門前に連なるという光景は、戦前まではまだ見 
られる光景でしたし、片輪や病者もその中にいたでしょう。 

前近代に不治の病をかかえていると、まともな職に就ける可能性が低い。 
江戸時代に金玉が広がっている乞食を治そうとオランダ人の医師が申し出たと 
ころ、これが施しを生むので、お心遣いは有難いが遠慮すると言われたという 
逸話があります。 
地鎮盲僧も含めた琵琶法師(最初から盲目だったかは不明)、ごぜ、イタコが 
盲目であったのも、他に就く職業がなかったというのが大きいでしょう。 
とどのつまり、音曲か宗教ということになる。 






2 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 09:20:18.38 0
史上もっとも有名な身体障害者はティムールでOK? 
それとも、このスレでは先天的なものに限定するのかな。 

113
ミハイル・ゲラシモフによるティムールの復顔像 


19 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 18:34:07.78 0
>>2 
隻眼を身障者に含めるなら、ハンニバルがおりました。こちらが史上もっとも有名ですね。 
英雄系は、やっぱり戦争中の身障が主たるものになりそうです。 

24 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 19:29:06.86 0
>>19 
ネルソン提督やダヤン将軍も忘れちゃイヤン 

21 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/20(日) 18:43:22.93 0
>>2 
彼と対戦したバヤジットも隻眼ないしは眇であったと言います。 
眇と言えば、平清盛の父である忠盛が有名。 
公の場で公家たちから「伊勢のヘイシはスガメなり」とはやされたものの、 
見返して逆に賞賛されたという逸話があります。 
(平氏と瓶子、眇と酢瓶をかけてある) 
しかし、今の大河ドラマというか、現代の風潮では出すのは無理でしょうね。 

この時代は、高身長でひょろりとしていたり、色が黒かったり青白かったり 
すると、公家でも囃されました。 
それを歌や当意即妙の返事、行動で見返すのが、甲斐性とされたものです。 
ただ差別だと押さえ込むより、こういう身体的特徴を認めた上で価値を誇示 
して見返すという方が、私は好きですね。現代にやれとは申しませんが。 

22 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 19:03:36.68 0
>>21 
>この時代は、高身長でひょろりとしていたり、 
ちょっと違うかもしれませんが、2mオーバーのピョートル大帝は巨人症のようですね。 
年少の頃は、あるいは宮廷で囃されたりすることもあったかもしれませんが、 
開けっぴろげな性格と溢れる知的好奇心で、良い意味で史上の「巨人」となりました。 

25 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 19:39:29.36 0
戦傷での隻眼ならフィリッポス2世にアンティゴノス1世、夏侯惇、クトゥーゾフ、ネルソン(のち右腕も失う) 
生来の眇なら元祖独眼竜の李克用やバイバルス 
ハンニバルのは行軍中に結膜炎に罹ったせいらしい 





4 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 13:45:47.20 0
フランクリン・ルーズベルト:ポリオの後遺症で下半身まひになり、車椅子を使用していた 
ヨーゼフ・ゲッベルス:小児まひにより右足が短くなり、歩くときはひきずっていた 




5 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 14:21:30.10 0
クラウディウス帝 


ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルススは、ローマ帝国の第4代皇帝である。 
父や兄に似ず生来病弱で、吃音や片足を引きずるなどの癖からユリウス・クラウディウス朝に属する男性としては珍しく公務から遠ざけられ、長くエクィテスの階級に留まった。
 



6 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 15:52:11.69 O
・ルートヴィヒ2世(バイエルン国王) 
国政放置で森の奥にたてたメルヘンちっくなお城で白鳥ごっこ。 
統合失調症と重度ヒキコモリ? 
ガチホモが精神疾患か否かは現代でも微妙ラインか 

・エリーザベト妃(オーストリア皇后) 
王室が嫌になって放浪者になってしまった系 
なんか雅子さまやダイアナ妃と同じタイプの病気ぽい 
普通のお嬢様が格式ある王族に嫁ぐとこうなっちゃうものなのね 

10 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 16:54:30.61 0
>>6 
エリザベートは宮廷にいたときは、郷ひろみ級のトレーニングオタクだったしな。 

7 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 16:13:44.23 0
シャルル6世(フランス王) 
恐らく母方の祖父からの遺伝。孫のイングランド王ヘンリ6世にも遺伝 
親政を始めてしばらくして、突如キレて武器を振り回し側近を惨殺 
その後は時々正気に返ることもあるが、叔父・従弟と弟がしゃしゃり出て国内は大混乱 
ちなみに当の本人は天寿をまっとうしたw 






27 :世界@名無史さん:2011/11/20(日) 21:26:41.61 0
ttp://www.systemicsarchive.com/ja/b/discipline.html 
中世初期から多くの癩施療院が、ヨーロッパ中に、例えばパリ郊外(中心に対する周縁)に造られた。 
重要な点は、この施療院なるものは、医学的治療のためではなく、道徳的排除のために設けられたと 
いうことであり、中世末期に癩病が廃れると、性病患者が、しかしその後すぐに狂人が 
「後継者」として施療院に閉じ込められる。この封じ込めは、狂気を理性から排除し・ 
隠蔽することによって、かえって理性に狂気の存在をあらわにする。理性の存立=権力秩序にとって、 
狂気なるスケープゴートはむしろ必要なのである。 


31 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/20(日) 23:25:58.69 0
>>27 
「狂人」の扱いというのも、難しかったでしょうね。 
京都の大雲寺(光源氏がマラリアの療養に訪れた寺のモデルともいう)は、近代の治療が 
入るまで、その手の患者の療養施設として有名でしたが。 
基本は大雲寺や上賀茂社の霊水を飲ませて座敷牢。 
フアナは火の気を与えられなかったそうですが、実際火事を起こしかけた話もあります。 
照明と暖房が火しかない時代、つらかったですね。 

32 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/20(日) 23:27:04.95 0
>実際火事を起こしかけた話もあります。 
日本で座敷牢に閉じ込められていた狂人が、ですね。失敬。 
取り上げるしかないが、そうなると寒いし暗い。 


38 :世界@名無史さん:2011/11/22(火) 21:58:26.58 0
狂人といえばイヴァン雷帝だなあ。 

虐殺を命じた直後に泣きながら罪を悔いて神さまに懺悔して 
そしてまた虐殺その他の暴虐→悔い改めの繰り返し。 

糖尿病で血糖値が上がっていて精神の混濁を招いたという説もあるらしいけど。 


39 :世界@名無史さん:2011/11/22(火) 22:03:07.00 0
俺が読んだのでとりわけ痛ましいのが北斉の廃帝殷。 

父の文宣帝は周知の通り完全な殺人狂だったが 
その父から囚人を斬れと命じられた天性温和な少年皇太子・殷。 
彼は処刑を泣いて拒んだ。父は激怒。皇太子は「精神昏擾」して 
以後言語障害になってる。 

40 :世界@名無史さん:2011/11/22(火) 22:11:21.13 0
殺人狂で有名なのが「大西皇帝」こと張献忠。 
「今夜は誰も殺すべき奴はおらんのか」と酩酊して喚きちらし自分の妻子を惨殺。
翌朝我に返って 
「なんで俺を止めなかった!」と近臣を惨殺。 

『叛旗・小説李自成』でこやつを英雄視して 虐殺された明の忠臣を矮小化していたのは実に見苦しかった。 
案の定、文革で毛沢東と江青に媚びるための小説だった。 






41 :世界@名無史さん:2011/11/24(木) 17:33:48.63 0
優れた記憶力(所有している戦象の名前を全て覚えていた)をもちながら文盲と記録されているアクバル大帝も
特殊な能力が発現する タイプの障害者だった可能性はあるんでしょうか? 


42 :世界@名無史さん:2011/11/24(木) 17:44:58.07 0
近代以前なら為政者でも文盲は珍しくなく、文書が必要なら秘書が口述筆記する 
文字を用いるとむしろ思考力や記憶力が鈍くなるとソクラテスも言っている 





44 :世界@名無史さん:2011/11/26(土) 02:19:56.70 0
古事記に出てくる伊邪那岐と伊邪那美 の国生み神話で 
最初に生まれた子が先天的に骨格を持たない子(水蛭子)だったので 
葦舟に乗せて海に流したという。 

この神話が物語ることとして 
古代の人は生まれた子が障害児だと海や川に流して捨てていたのだろうか? 

45 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/26(土) 10:12:47.37 0
どうも、不具の子だと川に流す、山の木の上や岩の下に置くなどの捨て子習 
俗があったのではないか、という説もあります。 
子が産まれて来る前の世界に帰すという意味合いがあったのかもしれません。 
当時の葬法を連想させるやり方ですが、誕生と死亡は、文化的には表裏一体。 

ただ、記録された例は説話での特殊なものですし、捨てた後で様子を見ると 
状態が変わっていたので拾って帰ったという話があることからすると、捨て 
た子を拾いなおすという、近世にもあった習俗であったのかもしれません。 

46 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/26(土) 10:22:32.60 0
ただ、野獣に食われる可能性もあったでしょうね。 
平安中期ないしは後期の京都での例ですが、屋外(羅城門の下)に捨て子が 
いたのを朝方見かけた男が、夕方になってもまだ犬に食われずにいるのを見 
て、不思議がったという説話があります。 
野外とはいえ、犬でもなければ狼その他がいたでしょうし。 
一種の神判に委ねたものかもしれません。 

なお、門というのは一種の公共というか「誰のものでもない空間」扱いされた 
もので、死体や捨て子、悪疫に感染した身寄りの無い病人などは、ここに放 
置されました。 
神や鬼や狐が住むとされたのも、人の住む空間ではなかったからでしょう。 
人がいない、都市の中の空白だからこそ、人以外が住みつける。 
そして、常人の世界から除外された人も行き着く。 
乞食(生きている病人・不具も含む)というのも、門の下によくいた様です。 
 








57 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/11/30(水) 22:42:21.55 0
昔は仙台四郎の様な人が自分の町にもいて、皆が世話していたが、彼がいなくな 
って町からゆとりの様な空気が消えたとは、水木しげる先生の弁。 
貧乏でも知的障害でも、きっちり管理される様になりましたね。 
板の上で孤独に死ぬことがなくなった代わりに、管つきで病院で死ぬのが当世風。 

障害というので、亥の子(東国の方々にはお分かりにならないでしょうが)を思い 
出しました。 
今でもよくやっていますが、掛け声は 
「亥の子亥の子亥の子餅ついて繁盛せえ繁盛せえ」という無難なもののみ。 
「亥の子亥の子亥の子餅ついて祝わん奴は鬼産め蛇産め角生えた子産め」 
の方は、完全に廃れましたね。 

仮にどこかで復活したら、己と関係のないことでも口を出したがる正義漢が 
止めに入り、止めさせて満足気な顔をすることでしょう。 
悪漢は影に入ろうとするが、正義漢は表に出ようとする分、まだ性質が悪い。 

やらない家があまりよく見られない風潮自体は田舎では健在で、東京から越 
して来た家が断ったが「嫌な感じがした」と新聞に投稿していました。 
(もっとも、これはこれで十数年前の話です) 
とはいえ、出が田舎の私としては、地場には従えという気も致します。 

58 :世界@名無史さん:2011/12/01(木) 11:22:57.36 0
仙台四郎って知らんからぐぐったら、諸星大二郎の「六福神」の福助の元ネタか。 
実在したんだアレ。 

59 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/12/01(木) 21:47:09.56 0
そもそも、福助人形の福助自体、今から200年ほど前に実在した人物です。 
身体障害者が見世物に出されていたのが評判を呼び、引き取った旗本の屋敷に 
吉事が続いたことから、本人も厚遇されたという話。 
そういえば、どこの国でも小人は見世物にされていましたが、我が国でも鎌倉 
時代の『病草紙』に、小人の芸が出て来ます。 
他にも畸形の例が紹介されているのですが、見ている方が笑っている一方で、 
見られている方も笑っているのが、印象的ですね。 

海外で有名なのは、エレファントマンか。 
他に近代では、ヘレン・ケラーと大石順教が感動的。 
ヘレンも知っていた塙保己一、サリバン先生も偉大な人物でした。 















転載元
 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1321744208/