503 :名無し三等兵:2012/07/27(金) 20:52:13.25 ID:???
うちの爺さんは揚子江を見て、その広さに驚き
地平線から日の出を見て更に驚いたと話してたな
突撃し先に行ったら者が撃たれるとは限らない、後ろだからと言って安全でもない
横の戦友がいつの間にか死んでいる、そして死にもの狂いで敵陣突っ込んでも怪我一つない、運、としか言い様ないと語ってた
戦地でも楽しい事は結構有った見たいで、移動中果物食べたとか言ってた、
爺さん二等兵だったんだけどさ、最後は卒中だった、救急車で運ばれ、翌日葬儀屋の車で帰ってきた
504 :名無し三等兵:2012/07/27(金) 21:31:12.05 ID:???
うちの爺様もそう言っていたな。
突撃でも何でも飛び出すときは一番先が安全だわさって。
あとから団子で行くと集中して狙われるってね。
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483 :名無し三等兵:2012/07/26(木) 14:52:44.45 ID:KtA70qvf
父方、母方両方の爺さんは戦争中既に年齢的に爺さんだったんで共に戦争に
行くことなく地元に居た。
母方の爺さんは満鉄の株の買いすぎと原爆で財産の大半を失った。
505 :名無し三等兵:2012/07/28(土) 00:13:47.79 ID:???
祖父からは戦争の話は聞いたことがない。
行かなかったのかな?
関東のド田舎だが、徴兵があったのかも謎だ。
506 :名無し三等兵:2012/07/28(土) 04:26:02.40 ID:???
隠れ里で自治体も把握してなかったとか
507 :名無し三等兵:2012/07/28(土) 19:35:03.25 ID:???
戦後生まれの50代とかじゃないの?祖父上は?
510 :名無し三等兵:2012/07/29(日) 08:24:14.48 ID:???
じいさんの所属してた部隊が判明したので調べたら、部隊の隊長が
じいさんの所属した部隊の戦争体験記本を出してることが判明。
こいつがまた、職業軍人の将校で、やる気満々のやつで、後方部隊だった
にもかかわらず、前方に立候補したりして、無駄に同じ部隊の兵隊が
死ぬはめになった。
そりゃおまえは職業軍人でヤル気まんまんにしたほうが出世するだろうが、
はた迷惑すぎる。
こいつのせいで死んだ人間が多数なのに、よくこういう本で嬉々として、
自分の戦功みたいなのを自慢できるな、恥ずかしげもなくこういう本が
だせるものかと厚顔無恥っぷりが信じられない。
まーそのおかげで、どういう状態だったかわかったけど。
513 :名無し三等兵:2012/07/30(月) 04:26:47.47 ID:???
ここってマジなスレ?ネタスレ?
おれの大叔父さんが
アホだから除隊になったけど
どうもひいじいさんが小金持っているから
裏金使ってうまく徴兵逃れしたっぽい。
ほんとなら、まじめにひっぱされた皆様に
正直スマンかった…
519 :名無し三等兵:2012/08/01(水) 17:32:52.26 ID:???
8月だし そろそろ話すか
ばあちゃんの友だちのばあさんの話し
戦時中女学生だったが海軍の事務所に勤労奉仕して
書類の整理する係りだったらしいんだが
不要になった書類を墨で塗りつぶして処分したんだそうだが
駆逐艦だかの艦艇が沈んだやつの書類を塗りつぶす仕事がどんどん増えて
「これはほんとに大丈夫なんだろうか?」って思ったらしいけど
家に帰っても家族には絶対に言わなかった って話し。
524 :名無し三等兵:2012/08/03(金) 19:02:10.75 ID:mXOWJw6Q
俺のじいちゃんの弟がテニアンで死んだらしいな
あってみたかったなあの世であえるかな?
525 :名無し三等兵:2012/08/03(金) 19:51:02.55 ID:???
俺の婆ちゃんは1945年8月9日に小倉に住んでた。幼かった母親も。
八幡の初空襲は今でもはっきり覚えてるそうな。空が真っ赤に染まったとか。(母親談)
で、婆ちゃんは、9日の朝、晴天で空襲警報があって(エノラ・ゲイの事前偵察)、機影
を見たらしい。
その後、2回に渡ってB-29の爆音を聞いて、空襲警報があったがドン曇りで機は見えず、
なんか機数が少ないな、って思ってたら、次の日の朝刊で、長崎に新型爆弾、ってでっかく
出たそうだ。(広島はもうヤラれてたから、そういうのがある、ってのは知ってたらしい)
戦後、あの2回の雲上のB-29がファットマン抱えてた、って知って仰天したそうな。
あの日、小倉が晴れてたら、俺は生まれてなかった・・・かも。(合掌)
527 :名無し三等兵:2012/08/04(土) 06:36:26.20 ID:???
>>525
お前はラッキーだな
拾った命を大切にしろよ
531 :名無し三等兵:2012/08/09(木) 21:15:29.69 ID:YXNIG3D0
母方のじいちゃん(大正14年か15年生まれ)だけど日大にいたから学徒動員されて満州へ。
満州の部隊に配属されてしばらくしたら本国に連れ戻される。なんか知らんが在学中の試験結果が優秀だったらしく整備課に移動になったらしい。
本国に戻ってきたら満州のときの部隊が全滅しててと聞いて驚いたらしい。
整備課に配属後は『疾風』の整備してた。現在も疾風の話する時は楽しそうです。
他には鍾馗と百式司偵は見たことあるって言ってた。
じいちゃん家に自分で作ったまとめ録あったはずだから今度確認してみる。
532 :名無し三等兵:2012/08/09(木) 22:15:33.01 ID:???
祖母の話と曽祖父と親戚の話を。
父方の祖母は勤労奉仕の女学生で軍服を縫ってたらしい。戦中の震災で工場のトイレが倒れて臭かったと。
空襲で住んでる町はすべて焼けて病院の近くを逃げるときに通ったらしいんだがリヤカーに黒焦げの母子の死体があって怖かったと。
あと姉妹の一人が肥溜めに落ちてとんでもなく臭かったとw
兄弟がどうも南方に居たらしく、ゴムサンダルを送ってもらったそうだけど履いたら非国民だと言われたらしい。
その祖母と結婚した祖父は少年飛行兵らしく、終戦までグライダー部隊で訓練を受けてたらしい。コンバットが大好きだったらしい。
母方の曽祖父は日中戦争の初期に出征してたらしく、今で言うPTSDで除隊。WW2後に地方政令都市に来たGHQ支部詰めの警備員になったというから驚き。元日本兵なのにねw
親戚の方はご健在(祖母も健在)で車も乗るそうなのだが、少しだけ聞いた話しによると元憲兵らしい。
南方にもいてなんやかんやで高射砲部隊にも居たとか言ってた。今度詳しく聞いてみないと。
533 :名無し三等兵:2012/08/12(日) 20:12:35.19 ID:???
うちの近くに香取海軍航空隊の跡地があって
爺さんに「戦争中はどうせ日本機は一方的に撃ち落とされてたんでしょ?」
って聞いたら、B-29は二機撃墜したぞと言ってちょっとムッとしてた。
撃墜された米軍のクルーは一人を除いて住民に竹槍でやられたそうだ。
日本軍の飛行機は空中戦しなくても一週間に一機は整備不良で墜落してたらしい。
ある時は空中戦でグラマンにやられたゼロ戦が畑に不時着しようとして墜落炎上したんだが
たまたま農作業をしてた爺さんが突っ込まれて主翼で首を切断されたのを見たって言ってた。
535 :名無し三等兵:2012/08/13(月) 16:38:49.47 ID:???
>>533
ここか
いかにも飛行場跡地らしい十字の地形だな。
536 :名無し三等兵:2012/08/14(火) 08:01:24.28 ID:???
>>535
そう、一度飛行機に乗せて貰って上から見たときは
あまりに滑走路の後が残っててびっくりした
横風でも降りれる様に滑走路が十字にクロスしてるみたい
534 :名無し三等兵:2012/08/12(日) 23:48:13.08 ID:hbN+1K8F
子どものころ聞かされた話ではオランダ兵と戦ったと言ってたから
インドネシアのどこかの島だったんじゃないかと思う。
いつも言ってたのが「斬り込みなら日本軍が最強」。
夜陰斬り込めば蘭兵は烏合の衆だったと言っていた。
子ども心にすげーな、と思ったけど、斬り込みなら最強、
なんじゃなくてきっと火力がなかった、おそらく補給切れ
だったんだろうな、とも思った。
というのは、斬り込みの後の話は、いつも食い物の話だった。
もう何も食うものがなくて、戦うこともできなくて
次々と戦友が病死・餓死していくんだと。
上からはいろんな命令は出たけど、下っ端同士では約束したらしい。
「先に死んだ者の肉を残った者が食ってなんとしても誰かは国に帰る」
何人かの身体をもらって、帰ってきたと語る祖父は怒るでもなく
泣くでもなく、いつも淡々としていた。
きっと自分の立場の中で為すべきことを為したと思っていたのだと思う。
祖父は上官の悪口は決して口にせず、天皇への敬慕は失うことなく
ひとりの農民として96歳で逝った。
543 :名無し三等兵:2012/08/16(木) 12:51:00.94 ID:WFDBSRQK
おれの母方の爺ちゃん(ロシア人)、工兵でスターリングラードからベルリンまで転戦してたらしい。
所属してた中隊が4回壊滅してそのつど生き残ったって・・・
537 :名無し三等兵:2012/08/14(火) 23:08:54.29 ID:???
うちの爺さんは、18歳で志願兵として海軍に入隊して
士官学校を経て、潜水艦の伊ー10に乗り、ドキュメンタリー映画「轟沈」の
撮影班助手を兼務しながら3か月間の潜水生活の苦労話を聞かされました。(メシはうまかったそうですw)
途中、物資補給でトラック島で大和と同時停泊の時、士官学校の恩師が大和の乗組員だったので
こっそり大和に潜入して恩師に会ったと聞かされました。
その後、呉(?)に帰港後、砲術学校を経て、霧島に乗船するも、
第3次ソロモンで沈没しましたが、爺さんは第3砲塔内で退艦命令が出るまで、
船が傾いても真っ暗な砲塔内で耐えてたらしい。この時、何百名かは亡くなりましたが、
駆逐艦の救出のおかげで命拾いしました。
その後、乗船する大きな船艦が無くて、舞鶴で終戦をむかえたそうです。
原爆の光も見えたっていってました。
今年91歳の爺さん談。(元気です)
長文失礼しました。
538 :名無し三等兵:2012/08/14(火) 23:32:52.47 ID:???
>>537
「轟沈」の出演艦は伊10で合ってるようですが
撮影は昭和18年9~10月
霧島が沈んだ第三次ソロモン海海戦は昭和17年11月14日
・・・・あれ? 撮影の「その後」としては時系列が合いませんね
しかも霧島の第三、第四主砲塔はワシントンの16インチ砲で破壊されてるようですね
ああ、あと、海軍で「士官学校」とか言ったら張り倒されますよ?
539 :名無し三等兵:2012/08/15(水) 00:20:23.91 ID:???
>>538
士官学校...確かに変でしたね。すみませんでした。
爺さんから聞いた話によると、確か時系列はこの通りなんです。
実際、あの映画に爺さん映ってますし、
もう一度確認してみますね!
紛らわしくてすみません。
砲塔はすぐやられたみたいですね。
とにかく真っ暗な記憶しかないそうです。
542 :名無し三等兵:2012/08/16(木) 12:37:47.94 ID:???
ドキュメンタリー映画「轟沈」は、
当時の撮影機材&技術でよく撮れたと思う。
暗い艦内や潜航シーンなど、困難が多かったはず。
それに参加されたのは貴重すぎる体験。
おじい様の撮影にかんするお話も、
できればぜひ披露してくださいませませ。
546 :名無し三等兵:2012/08/16(木) 15:48:15.50 ID:???
>>542さん、いろいろディスられてますが>>537です。
ありがとうございます。
私は祖父が海軍兵だった事を最近聞かされたので、
あまり専門用語とか知らないので、素人にもわかる範囲でしたら・・・
そして今度、祖父に会う機会あるため、いろいろ聞いてきます。
私は軍事に関して無知なため、何を聞いていいかわかりません。
諸先輩の方々の知りたい事とかも含めて、何を聞いてきたら良いですか?
よろしくお願いします。
547 :名無し三等兵:2012/08/18(土) 07:35:16.82 ID:???
厚生省に行ってだな軍歴証明もらっとけ。
海兵出だと普通にネットに名簿が出回っとるからな。
下手すりゃ1号の時は何分隊で成績どのくらいまで
「丸」なんかで晒されとる始末。
551 :名無し三等兵:2012/08/18(土) 09:52:14.58 ID:TxQwu8W4
うちのじいさんはアムール川のほとりにいってたよ
向かいに住んでた爺様は赤紙こなかったけど青い紙が来て大工さんとして南方の島(島の名前きかなかった)へ行きみんな死んだんだけど自分だけは海に飛び込んで流木に掴まって漂流して陸まで行き終戦迎えたらしい。
みんなやせ細って蛇食ってたって言ってたのが印象的
552 :名無し三等兵:2012/08/18(土) 11:20:32.65 ID:???
母方の祖父が硫黄島に行ってたらしいんだが
母親が子供の頃に亡くなったので、本人には会ったことがない
俺が母から聞いた話によると、どうも海岸砲かなんかの砲兵部隊にいたみたい
でも今でも生存者が1000人くらいの硫黄島に行ってたのかと思うと?な感じ
どこか他の島嶼防衛部隊だったんじゃないかな?って今でもおもってる
トラックに乗っていたら後方の車両が爆撃されたなんて母親は聞いたって言ってたけど
硫黄島なんて戦闘開始したらトラックで移動する余裕なんてあったのか?って思う
転載元
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1336389680/
ナルキッソスの黄昏
みんなのじいちゃん等は戦争中どこに行ってたの?
みんなのじいちゃん等は戦争中どこに行ってたの? その2
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