1okehazama
 




1 :日本@名無史さん:2012/04/09(月) 05:40:40.99
実は悲運の名将だったんだな 
後北条家並みに過小評価されすぎだろ 


















31 :日本@名無史さん:2012/04/21(土) 07:43:00.98
近くの今川の陣を叩こうと思ったら 
それが義元の本陣だった 

織田信長 




9 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 22:59:26.87
義元が東海一の弓取りとなるまでの話や 
信長の父信秀の事を知りたいね 

 


81 :日本@名無史さん:2012/05/05(土) 23:14:11.77
小学生の頃、山岡荘八原作、横山光輝作画の「徳川家康」に嵌ってたんだけど、 
今川義元の出番が結構多かったので思い入れある 
一般的にはそんなに知名度高くないけど、当時としては大勢力だったんだよね 
ただ公家趣味があったみたく、お歯黒とかしてるのはなんか違和感あったね 

82 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 11:36:38.92
実際に公家趣味があったかどうかを示す史料は無いよ 
ただ京から下ってきた公家を保護したのは確かだよ 

83 :日本@名無史さん:2012/05/06(日) 21:30:59.46
>>82 
今川義元の描写はいつも、 
・お歯黒 
・額に二箇所の点(よく公家の描写でされるやつ) 
・公家っぽい背の高い帽子みたいなやつ 
何でここまで徹底されているんだろう? 

84 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 01:56:22.33
>>83 
まさに公家といった感じだよね 
単純にそういった描写の物が溢れてるから、皆右にならえといった感じになってるんじゃないかな? 
ステレオタイプというか 
信長といえば茶筅髷とマント、秀吉は猿顔、家康は狸、政宗は眼帯、といったように 

ただ、幕末に描かれた錦絵の今川義元は普通の鎧を着てるし、化粧もしてないんだよね 
今川義元の木像も化粧は無く、公家ではなく武家といった感じの様相 
誰がいつ公家風今川義元を思いついたのか… 


2imagawayosimoto
 
3



85 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 04:14:37.84
母親が公家出身だからでは?>義元の公家イメージ 

実際は八幡太郎の流れをくむ武家の名門なのに 

86 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 13:08:08.90
名家だしあっさり桶狭間あっさりで討ち取られたから 
戦を知らないお坊ちゃんと思われたのかもね 
ただのボンボンに武田が従うはずないのにね 

87 :日本@名無史さん:2012/05/07(月) 18:24:17.31
まあ、リアルな話し、今川は源氏分家末流の足利の分家のそのまた分家の地侍に過ぎないんだけどね。 
なぜか足利が異常に出世しちゃったから今川もなんか名門であるかのように錯覚する人がいる。 



140 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 03:06:05.86
信長の引き立て役に徹した立派な武将 


142 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 10:54:01.43
太原雪斎がいないとただの凡将 

143 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 11:04:34.91
いや、いなくてもそこそこの武将だろ 
朝倉宗滴が評価するくらいの名将 



145 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 14:27:04.39
まあ御輿としては立派に見えたんだろ 
実際仕事ができるかどうかは別として 




6 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 12:59:26.67
三国志の袁紹とイメージがかぶる。 
名門で最大勢力、自身が家柄の件で見降していた風雲児に寡兵をもって敗れた・・・ 




32 :日本@名無史さん:2012/04/22(日) 05:20:26.03
将軍家が途絶えれば吉良がつぎ吉良が途絶えれば今川がつぐ 

なんでこう言われたの 
足利の分家の分家とかいくらでもいただろ 








72 :日本@名無史さん:2012/05/03(木) 14:18:27.58
雪斎以外にも有能な家臣が多いよね 

73 :日本@名無史さん:2012/05/03(木) 15:37:28.76
朝比奈や岡部とか 

74 :日本@名無史さん:2012/05/03(木) 16:48:53.53
個人的には岡部元信が家臣の中では一番好きなんだよね 
あの忠義と武勇はすばらしい 

76 :日本@名無史さん:2012/05/04(金) 13:14:45.05
親父の氏親は北条早雲を、義元本人は徳川家康を 
それぞれ家臣にしてたんだよな、今川パネェ 

20 :日本@名無史さん:2012/04/16(月) 04:24:34.88
今川家の城持ち家臣と今川家に従っている国人の区別がつかない 

21 :日本@名無史さん:2012/04/17(火) 23:08:51.81
早雲も今川の城持ち家臣だったんだよな 

5 :日本@名無史さん:2012/04/10(火) 12:19:57.97
そういえば、北条早雲は最後まで義元の親父を屋形様って呼んで仕えたんだよな。 
今川家の後ろ盾のおかげで伊豆や相模領有ができた。 













92 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 14:02:14.74
桶狭間と言う地名が一人歩きしてるけど、本当は田楽狭間って場所じゃないの? 
義元が討たれたのは 

93 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 20:28:07.19
今の通説では、田楽狭間ではなく、桶狭間山じゃないの? 

94 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 21:35:51.52
説というか、布陣したのが桶狭間山でしょ。 

95 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 23:54:29.29
田楽狭間って説も根強いね 

96 :日本@名無史さん:2012/05/12(土) 23:58:30.47
田楽狭間説は、織田軍の迂回説がほぼ否定されて正面攻撃説が主流になって 
から(正面攻撃説では、桶狭間山に攻め登ったことになってる)、あまり 
言われていない気がする。 

97 :日本@名無史さん:2012/05/13(日) 04:28:20.64
太田牛一の信長公記をしたじきにして小瀬甫庵が書いた 
信長記に出てくるのが田楽狭間だが 
史料的価値は低く、創作も多い。 
太田牛一の信長公記は桶狭間山だが参謀本部の戦史に田楽狭間が採用されているため 
それを参照している小説には誤りが多い。 

98 :日本@名無史さん:2012/05/13(日) 14:27:37.54
本陣があったのは桶狭間山だが、桶狭間山で戦死したという説は聞かないな。 

99 :日本@名無史さん:2012/05/13(日) 17:08:41.28
信長記の信憑性が疑われるようになってから、田楽狭間で戦死したという説 
も聞かないな。 

100 :日本@名無史さん:2012/05/13(日) 17:21:30.59
つか、激戦地と討ち死にした地をごっちゃにすべきじゃない 

101 :日本@名無史さん:2012/05/13(日) 23:39:25.13
で、結局何処で信長が戦って、何処で義元が討ち取られたの? 

102 :日本@名無史さん:2012/05/14(月) 00:47:53.71
>>101 
尾張国内の可能性が濃厚 

372 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 18:00:41.29
今川軍は何人戦死したの? 

373 :日本@名無史さん:2012/07/02(月) 23:25:42.29
そういえば桶狭間ってどれくらい死んだんだろ? 
全然聞いたことないな 














153 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 18:50:26.55
桶狭間の記述で鉄砲が出てこないのが不思議だよな。 
首巻自体の信憑性にもつながりそう。 

154 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 18:58:02.35
今川方が義元の輿やら弓鉄砲放り出して逃亡したって記述があったと思うが。 

155 :日本@名無史さん:2012/05/19(土) 19:42:59.92
放り出しただけで使ったとは出てこない。 
ましてや信長が大逆転勝ち?ならそこに鉄砲使用の記述が ないのが不思議。 
何百と持ってたというのならそういう鉄砲足軽の記述とか。 
数的劣勢なら鉄砲パワーで勝てたというならともかく 
すわかかれという突撃で勝てたというのがこれも不思議。 


171 :日本@名無史さん:2012/05/20(日) 22:57:55.28
織田のほうが強襲してるんだから鉄砲はつかわないんじゃない? 
銃剣ついてなきゃ槍のほうがいいだろうし 





 
7 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 20:13:02.55
いろいろ説があるけど結局寡兵の信長がどうやって義元の首を挙げたの? 

8 :日本@名無史さん:2012/04/12(木) 21:26:16.39
それには色々な説があるんだよ 


33 :日本@名無史さん:2012/04/23(月) 11:20:38.71
確か2か所の砦で戦闘をしていて、そこにいると見せかけて奇襲して義元を叩いている。 
つまり敵将に狙いを絞って、今でいうと中枢コンピュータを破壊した訳だ。 
司令塔がなくなったので今川軍は逃げ出したので、仮に司令塔以外だったら、囲まれてやられていたかも知れない。 
信長自身が行ったのだから、義元という確証があった可能性は極めて高いと思う。 

36 :日本@名無史さん:2012/04/25(水) 00:34:22.35
>>33 
「信長公記」に信長は 

「今度家康は朱武者にて先懸けをさせられて、大高へ兵糧入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、ご辛労 
なされたるに依って、人馬の休息、大高に居陣なり」 

「各々よく々承り候へ。あの武者、宵に兵糧つかひて、夜もすがら来たり、大高へ兵糧を入れ、鷲津・丸根にて 手を砕き、辛労してつかれたる武者なり。こなたは新手なり。その上、小軍なりとも大敵を怖る〃なかれ。運は天にあり。 
此の語は知らざるや、懸からばひけ、しりぞかば引き付くべし。 是非に於いては、稠(おお)ひ倒し、追い崩すべきこと、案の内なり」 

という発言をしたと記されている 
つまり信長は、目の前にいる敵が今川義元の本陣だとは思わず 
敵の先鋒隊(家康)と勘違いしていたと考えられる 
それなら突っ込んでいったのも納得出来る 
だって相手は疲弊した兵(と信長は思い込んでる)、こっちは新手、勝てないわけが無い 
まぁ家康はこの時点では元康と名乗ったんだけど 
太田牛一は結構適当なところがあるから間違ったんだろうね 


10 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 00:13:16.10
織田軍2000人今川軍25000人説があるが3000と45000というの 
もある。いくら雨が降っていても酒盛りをしている本陣 
に突っ込めたものだぎゃ。 

22 :日本@名無史さん:2012/04/18(水) 13:06:20.72
>>7 
仮に総勢25000の兵がいたとしても今川義元の本陣に割ける人数は3000とか5000くらい 
対する信長は約2000の精鋭ぞろいであり、戦力差はほとんど無いはず 
しかも雨があがった直後のまさかの遭遇戦であり、陣を張って待機していた今川側と比べれば 
破れかぶれの決死の特攻をしかけた信長側の方が有利 
桶狭間は完全に運の勝負だったと思われる 

24 :日本@名無史さん:2012/04/19(木) 03:09:15.34
>>22 
ただの雨じゃなく公記によると 
「にわかに急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔に打ち付くる」(雹を含む豪雨が急に発生して敵の方向に降り注いだ) 
「二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒る」(しかも二抱え、三かかえもあるような木が倒れる台風なみの強風) 

つまりダウンバーストが今川本隊に向かって発生したわけで 
普通の雨程度なら準備も出来るし、信長は返り討ち必至 
信長は超、運のいい奴とは言える 

25 :日本@名無史さん:2012/04/19(木) 10:47:06.29
>>24 
酒盛り(捏造の可能性もあり)も雨で兵が凍えるのを防ぐための行動だけど、それも仇になったね 
信長の人生最大の幸運と義元の人生最悪の不運がちょうどかち合った戦だと思う 

26 :日本@名無史さん:2012/04/19(木) 14:54:21.98
雨が降ったのは突入寸前なので、奇襲成功との関係性は低い。 
清洲から善照寺砦を経て桶狭間に至る間に気づかれなかったのは人為的要素がないと無理なので、簗田出羽守配下の者が街道筋に 手勢を配して、今川方の物見や伝令を討ち取っていたと考えるのが 妥当。 
事前に百騎ばかりで奇襲を掛けさせるなどしているので、清洲から 小勢がまばらに出撃するのを不審に思わせない工作もしている。 
急な出陣で、兵がまばらに出て、善照寺に終結するのを今川方は 察知出来ず、そのまま物見を封じられて接近を許した。 
物見が働いていれば、雨で視界が悪くなれば動き回って情報を得る。 
雨だけで気づかないはずがない。 
意図して物見を封じない限り、敵方への情報管制は出来ない。 
現代戦で言う、電子妨害を掛けたと見るべき。 
 
27 :日本@名無史さん:2012/04/20(金) 01:47:20.19
>>26 
でもその考えはあくまで個人の想像の範疇を超えないなぁ 
なんせまともな史料が少なすぎる 
タイムマシンがあるなら一番最初に見てみたい戦だ  

11 :日本@名無史さん:2012/04/14(土) 03:12:02.64
一つ一つの砦を落とす為に兵を分散させて、肝心の本陣が手薄になってしまったのがな 

13 :日本@名無史さん:2012/04/14(土) 19:18:17.05
桶狭間で勝ってれば、上洛して14代将軍足利義元に成るまで突っ走れたよね。 

14 :日本@名無史さん:2012/04/15(日) 00:08:52.71
尾張も支配出来ていただろうが 
美濃や伊勢まで進出できなさそう 
というか京都に上洛する理由も意思もなかっただろう 


172 :日本@名無史さん:2012/05/20(日) 23:32:20.61
のんびり遠戦でもやろうとした今川に一気に白兵戦仕掛けたんだろう 
それで今川はビビッて逃亡したと 




214 :日本@名無史さん:2012/05/22(火) 15:17:32.71
敗因は軍規の弛緩だろう 
砦を落としては歌を歌い、敵の小部隊を撃破しては歌を歌いでは 
義元は軍規違反者を歌の才があるからと言って無罪放免にする人物だからな 
今川家では敵の首を取るより歌をよむ方が出世できる 



28 :日本@名無史さん:2012/04/20(金) 09:35:16.00
安土城と今川館が燃えてしまったのは実に痛い 
ここが残っていたら 
信長公記以外の史料や当時の武士の記録も現代に残っていたかもしれない 
大田牛一は後方の人間だから人づてに聞いた話もあろう 







転載元
 【桶狭間の戦い】今川義元【花倉の乱】 
 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1333917640/ 















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