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http://ja.wikipedia.org/wiki/満州事変 



665 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/14(火) 12:41:12.76 ID:7RG8CbgC0
これは基本だから押さえておけよ 1
  ↓ 
日本の戦争は「満州事変」、すなわち、東北中国の侵略から始まった。 
これは1931年9月の柳条湖事件を発端としている。 
柳条湖というのは、奉天(現瀋陽)という都市の北東部にある場所だ。 
当時、「満州」には「満鉄」(南満州鉄道)といって、日本の半官半民の会社があった。 
鉄道を中心に、鉱山など植民地経営をしていた会社だ。 
9月18日、この鉄道の柳条湖付近で爆発が起こった。 
この爆発は、「満州」に配備されていた関東軍による諜略で、その首謀者は板垣征四郎、石原莞爾らだ。 
しかし、関東軍はその爆発を「中国軍が起こしたものだ」とデッチあげて、柳条湖付近に駐屯していた中国軍を攻撃した。 
これは日本政府の命令ではなくて、現地の関東軍が勝手に動いてやったことだ。 
関東軍は「満蒙領有」を考えていたのだが、米国の反対などもあり、領有はむずかしかったので、やがて、溥儀という人物を皇帝に立てて、「満州国」という傀儡国家をつくりだした。 
日本政府は、はじめ「不拡大方針」をとったが、けっきょくは、「満州」で関東軍がやっていることを、追認、追認、追認・・・と、 ずるずると引きずられていった。 





709 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/18(土) 14:29:50.34 ID:NuT7kukR0
これは基本だから押さえておけよ 2 
  ↓ 
関東軍は傀儡政権「満州国」を作ったが、張学良の東北軍などが「満州国」に接する華北に存在し、
盛んにゲリラ活動をおこなった。 
また、「満州国」を支配したものの、当初の目論見より資源が少ないこともわかった。 
つまり、「満州国」を維持するために、さらに中国の華北も支配しなければならなくなった。 
それで、2・26事件後の1936年4月、広田弘毅内閣は「支那駐屯軍」の増強を決定する。 
この「支那駐屯軍」とはなにかというと、天津にいた軍隊だ。 
この「支那駐屯軍」=天津軍が、1937年7月7日、北京の西南にあるマルコ・ポーロ橋=盧溝橋付近で 連日のように軍事演習をおこない、中国の29軍と軍事衝突をする。 
いわゆる「北支事変」と呼ばれるものだ。 
日本軍の挑発がきっかけで起こった軍事衝突だが、それから4日後、陸軍中央は、関東軍から 2個師団、朝鮮軍から1個師団、日本国内から3個師団、合計6個師団の華北への派兵を声明した。 
1個師団は2個旅団=約1万2000人ほどから成る最大の単位。 
つまり、日本は、ただちに7万人以上の大軍を投入した。 
日中は全面戦争に突入する。 
以降、国民精神総動員実施要綱が決められ、12月には南京攻略、翌38年10月には武漢攻略・・・と、 「満州」から中国大陸を南下し、そして奥地へと踏みこんでいった。 
このように、36年の2・26事件以降、侵略戦争の泥沼化が始まる。 
それが当時の日本の国民に支持されていたことは、たとえば東京市民が、「南京陥落祝賀」の提灯行列に 約40万人、「武漢攻略」の提灯行列には、約100万人参加したことからもわかる。 
その当時の合言葉は「暴支膺懲」だ。 
軍部は正しいことをしているが、中国の一部には悪い奴がいて、中国人民を扇動して日本に抵抗している、 その悪人を排除すれば、自然と中国人は日本に靡くから、この「事変」=戦争は早期に決着がつくと言っていた。 
新聞も、連日のようにそうした論調で報道していた。 
一方、米国、それから英国は、中国にたいして、直接軍隊を派兵して援助することはなかったが、 
軍事物資を調達して支援した。 
最初は香港ルートを使っていたが、それが遮断されると、仏領インドシナルート、ビルマルートで、蒋介石を支援した。 
そして、対日石油輸出の禁止など米国の措置にたいして、41年のパールハーバー奇襲による日米開戦、太平洋戦争が始まる。 
だから、初めの一歩である、「満州事変」から真珠湾攻撃まで、あるいは本土空襲までは、有機的につながり、 必然性をもった歴史の流れなんで、「15年戦争」という呼びかたがいかに的確な捉えかたか、ということがわかる。 


751 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/19(日) 17:44:45.22 ID:nmKn6dvj0
これは基本だから押さえておけよ 3 
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中国の戦線はだんだんに拡大した。 
上海事変は、2・26事件の翌年、1937年8月13日に始まる。 
盧溝橋事件(同年7月7日)では、日本政府は不拡大方針ということを言っていた。 
日本の司令官と中国の司令官とで現地で話し合いができた。 
話し合いがついてこれでお終いと言ったのに、軍隊を送ってだんだん拡大していった。 
盧溝橋事件から北支(中国北部)にだんだん戦闘規模が大きくなって、 そのうち近衛内閣はもうこれ以上拡大しないと宣言するのだが、実際は上海で事件が起こる。 
上海で事件が起こると、今度は海軍が陸戦隊を上げて、それから、揚子江に艦隊を入れて沿岸を砲撃させ、 上海の抵抗を破ろうとした。 
ところが中国側の抵抗が強くてうまくいかない。 
それだけじゃだめだということになって、北支にいた軍を南下させた。 
北支には朝鮮に駐留していた日本軍を北上させた。 
それから、内地からまた別に師団を送って、北中国から南下した日本軍を合わせて上海で戦って、 
激闘の末、やっと上海を取るわけだ。 
そして日本政府は声明を出して、上海からは一歩も先へ進まない、この戦争は局地的な戦争であって、 決して日中戦争ではないと言った。 
ところが、上海を占領した日本軍は政府に言わずに南京に向かう。 
そして南京で虐殺事件が起こった。 
政府が上海から外へは行かないと言ったのだから、それは国際的な声明だ。 
それにも拘らず翌日、上海の占領軍は南京に向かった。 
その後は、それを聞き入れなければクーデターだと言って脅す。 
しょうがないということになって、陸軍が勝手にとった行動を中央政府が、 
国際的状況の中で日本軍の罪というわけにいかないから、それを正当化するような屁理屈を考えて追認したというのが、 対中国戦争拡大のメカニズムだ。 





転載元
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1317533496/l50