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      河井継之助

 
1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 09:43:05
河井 継之助(かわい つぎのすけまたはつぐのすけ、 
文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))。 
継之助は幼名・通称で、諱は秋義、号は蒼龍窟。 
幕末期の越後長岡藩牧野家の家臣で、知行は120石。 
役高加算があったためか150石となる。 
その後、漸次出世をしていたので、 
たびたび役高加算があった可能性もあるが、 
これが支給されていたか否か決め手となる史料は、存在しない。 
長岡藩の一代家老であれば、1,000石であるところを、 
藩政改革により自ら減知して、 
最終的な役職・家禄は筆頭家老・軍事総督・120石。 






47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/09(木) 19:01:06
西軍に一時的でも一敗味あわせたのは河井だけだろ。 






 


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2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 11:31:25
地元長岡での評判て実際どうなの? 

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/12(月) 11:34:54
やらんでいい戦いをやって藩を潰してしまったという評判は聞いたことがある 

4 :勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2007/02/12(月) 12:15:27
最前線だった訳ですから、どちらについても被害は甚大だったと思われます。 
潔い振る舞いへの評判は後々までの財産になりますし、悪くない選択だったのではないでしょうか。 

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/24(火) 13:02:06
>>2 
去年新潟の長岡に行ったが河井継之助の評判は賛否両論だった。 
長岡を戦火に巻き込んだ大罪人。〔東条英機なみに嫌うやつもいた。〕 
逆に武装中立をしたけどそれを跳ねつけた岩村高俊を憎んでいるやつもいた。 


14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 20:12:55
地元では昔から墓に狼藉されるほど憎まれていたのに。 
今になって再評価されると、いきなり地元での扱いが真逆になるんだもんなぁ・・・ 

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 21:48:43
世の中そんなもんじゃない? 




11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/15(木) 03:21:09

確かに、会社の経営陣にこんな奴がいたらイヤだ 
無能でも無難なリーダーの方がマシ 


13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/22(木) 14:37:51
田中角栄は尊敬し崇拝してたぞ 








16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/23(金) 12:09:21
ガトリング家老はすっかり有名になっちゃったのに、そのお師匠の知名度、まだ低いよなー。山田方谷。 
政治家としてはまず幕末最高なのに。大政奉還の起草もしたのにー。 
17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/24(土) 23:29:09
>>16 
大政奉還を起草したのって坂本龍馬じゃなかったか? 

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/02(月) 14:20:38
船中八策は基になっただけでそのまま使われたわけではない 


21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/04(月) 18:30:18
河合家は今どうなってるの? 
長岡に子孫はいるのかな? 

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 17:07:56
河井は嫁さんいたけど子供なし・・山本家も五十六が養子に入ってようやく復興だから家名断絶じゃないんでしょうか? 

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 03:54:30
山本帯刀には息子はいなかったが娘はいた 







25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 13:34:41
家老本人がガトリング砲を使用中に撃たれるって阿呆ですか? 
指揮官が前線にいてどうするんだよ? 

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 18:44:07
だって長岡藩くらいの小藩だと連隊規模も人いないだろ。 
大隊クラスがいいところだと思う。 
大隊長クラスの戦死って珍しくはないだろう、この時代。 

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/31(金) 22:10:03
同時期の南北戦争だと旅団長・師団長はおろか軍団長あたりも戦死する例は珍しくないしね 
ナポレオン時代の戦術がベースなのに銃はライフル化するなどして射程と殺傷力が向上してる 




35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 20:12:49
ガトリング家老ってネーミングを付けた奴って誰だろう 




32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/12(水) 20:47:30
長岡の戦争って戊辰で最大規模らしいけど 
マジ?会津城攻防戦より酷いの? 

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 12:50:08
会津城攻防戦は基本的に籠城戦で 
遊軍に佐川等がいる程度 

逆に北越戦争は野戦中心である 






36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/20(日) 23:23:02
柏崎の鯨波で戦ってから長岡までの曾地峠や関原でもドンパチしあったんだろか?2ヶ所とも鎧着た兵の霊がでたとか昔噂になったくらいだしな 






39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/07(木) 07:50:41
自分は長岡人だけど 
・・・彼は好き嫌いがかなり分かれているね。 
自分の感想だけど、左系の人は「嫌い派」って感じかなぁ? 
右系の人が好きっていうと言い過ぎかとは思うけど。 

小泉元総理の「米百俵」ブーム時『知ってるつもり』が小林虎三郎を取り上げて 
やたら河井を悪人的に放送しているのに多くの人が不愉快だったと地元では意見があった。 

残念なのは戊辰戦争と空襲の難を逃れていた彼の生家を取り壊したこと。 
(地主が嫌い派だった) 


『峠』の河井は美化されているけど、それはどの歴史小説の主人公でも多かれ少なかれある現象かと思う。 

>>36 
10年くらい前だったかな? 
市内の寺の墓地から足軽鎧だけ出てきたことがあって 
地元新聞でちょっとしたニュースになってたよ。 
関原とかだとまだ長州兵から刀を突きつけられて 
「百姓、船を出せ」って言われた。なんて話が出るときもある。 


会津みたいに戊辰のことはあんまり言わない街だけど 
文化的なこともあんまり大事にしない街です。 





43 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/24(火) 04:14:22
ジャズ大名と関係ある? 
44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/20(日) 19:26:54
地元の人々の意見はおもしろいな 
いまだに幕末を引きずっていて 








50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/15(水) 22:25:18.01
主演 クリント イーストウッド 
監督 セルジオ レオーネ 

皆殺しのメロディーが長岡城下に流れる時、 
非情のガトリング砲が火を吹く! 

巨匠 セルジオ レオーネ監督が贈る 
マカロニイースタンの快作! 
「ガトリング家老」にご期待下さい! 



転載元
ガトリング家老
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1171240985/1-100  








河井継之助

北越戦争の開戦
 

長岡藩は7万4千石の小藩であったが、内高は約14万石と実態は中藩であった。長岡藩では藩論が必ずしも統一されていなかったが、家老首座連綿の稲垣平助茂光は交戦状態となる直前に出奔。家老次座連綿の山本帯刀や着座家の三間氏は終始継之助に協力した。先法御三家(槙(真木)氏・能勢氏・疋田氏)は、官軍に恭順を主張するも藩命に従った。上級家臣団のこうした動きと藩主の絶対的信頼の下に、継之助は名実共に開戦の全権を掌握した。継之助の開戦時の序列は家老上席、軍事総督。但し先法御三家は筋目(家柄)により継之助の命令・支配を受ける謂われはなかったので、藩主の本陣に近侍してこれを守ったため後方にあり、1人の戦傷者も出さなかったと云われる。

継之助の長岡慶応改革によっても、先法御三家の組織上・軍制上の特権を壊せたとする史料は存在しない。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により当初新政府軍の大軍と互角に戦った。しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(7月8日)に長岡城を奪われた[4]

その後6月2日(7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じる。7月24日(9月10日)夕刻、敵の意表をつく八丁沖渡沼作戦を実施し、翌日(9月11日)に長岡城を辛くも奪還する。これは軍事史に残る快挙であり、石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は河井の戦術を研究したものであった。

外山修造の証言によると、奇襲作戦の最中、新町口にて継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負ってしまう。長岡郷土史によると、新町口では無いところで床机に腰掛けていたところを西軍兵に狙撃された。指揮官である継之助の負傷によって長岡藩兵の指揮能力や士気は低下し、また陸路から進軍していた米沢藩兵らも途中敵兵に阻まれ合流に遅れてしまった。これにより、奇襲によって浮き足立った新政府軍を米沢藩とともに猛追撃して大打撃を与えるという作戦は完遂できなかった。一方、城を奪還され一旦後退した新政府軍であったが、すぐさま体勢を立て直し反撃に出る。長岡藩にはもはやこの新政府軍の攻撃に耐えうる余力はなく、4日後の7月29日(9月15日)に長岡城は再び陥落、継之助らは会津へ向けて落ちのびた。





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