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9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 11:46:53
話題がないから
みなさん平氏や源氏でだれが好き?
理由もあるとベターだなあ
58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/30(土) 22:03:18
>>9
携帯から、読みにくいのはご容赦を。
平重衡、宗盛父子、あと源為義
重衡は、千手ノ前・奥方とのやりとりとか、最後の川原での場面が泣ける。
あと、宗盛は確かに凡将だけど、副将・清宗への父としての愛情とか、斬られる場面がこれまた泣ける。
為義は、保元の乱で、敵方後白河天皇に味方した子供の義朝に、代々伝わる鎧を届けさせる場面が好き。
『明ケヌレバ、敵トナル子ノ許ヘ、遣ワシケル、親ノ心ゾ、哀レナル』
この文見て、鳥肌たった。
長文、乱文すいません。
61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 23:00:18
私が最近株急上昇なのは重衡。
凛々しい武人貴族、それでいて明るく気配り上手な人だったらしい
からね。戦も強かったといわれてる。
そんなわけで彼が主人公の小説を入手して読み進めてる。
姉の徳子との絆がいい感じ。
平 重衡(たいら の しげひら)は、平安時代末期の平家の武将・公卿。『建礼門院右京大夫集』や『平家公達草紙』によると、重衡はちょっとした事でも人のために心遣いをする人物であり、いつも冗談を言い、怖い話で女房を怖がらせたり、退屈していた高倉天皇をなぐさめるために、強盗のまねごとをして天皇を笑わせたというエピソードが残されている。
199 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/19(土) 21:54:01
重衡かっこいいよ重衡
164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/22(月) 19:44:49
どうして重衡は一の谷で殺されずに捕虜になったのかが謎だ
39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 13:53:55
三位頼政って平家にペコペコしてるだけの うだつが上げらない老人なんだけど
そんな彼を何が奮い立たせたんだろうか
源頼政の鵺退治近衛天皇の御世、帝が毎晩何かに怯えるようになった。
その昔、帝の病平癒祈願のため、源氏の棟梁・源義家が御所にあがり、「陸奥守、源義家!」と叫んで弓の弦を三度鳴らしたところ病魔が退散し、帝の容態はみるみる回復した。
そのため此度も武士を警護につけるがよかろうということになり、同じ源氏の一門で武勇の誉れ高かった頼政が選ばれた。そして深夜、頼政が御所の庭を警護していたところ、艮(うしとら)の方角(=北東の方角)よりもくもくと黒雲が湧き上がり、その中から頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という「鵺」と呼ばれる怪物が現れた。頼政は弓で鵺を射、駆けつけた郎党・猪早太(いのはやた)が太刀で仕留める。その後、頼政は仕留めた鵺の体をバラバラに切り刻み、それぞれ笹の小船に乗せて海に流したという。
38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/07(土) 21:18:02
謡曲「頼政」の
忠綱 兵を 下知して曰く水乃逆巻く所をば 岩ありと知るべし弱き馬をば下手に立てて 強きに水を防がせよ流れん武者には弓筈を取らせ 互に力を合はすべしと唯一人(いちにん)乃下知に依つてさばかりの大河なれども一騎も流れず此方(こなた)乃岸に喚いて上れば味方の勢は 我ながら踏みもためず
このくだりと謡のリズムが好き
40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/09(月) 22:12:33
能鑑賞の本には
平宗盛の仲綱への仕打ちに対する憤りとは別に、
優れた戦略家として死んでゆくことへの妄執
老武者が「名」を残すことに対する執心が原因ではないか、と載ってる
41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/10(火) 09:49:08
ありがとう、勉強になりました
能かあ、まだ近づいた事ないなあ
平家物語の琵琶法師は有名だけど、
源平は能でも広く後世に伝わったんでしょうね
2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 11:45:45
101 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 05:14:11
鎌倉悪源太義平が大好き
もっと活躍して欲しかったちなみに平治の乱で義朝、義平が没してなかったら都で義朝の跡取りは頼朝 だろうけど義平の源氏の中の立ち位置ってどうなったんだろう?
三浦氏と新田氏を中心に 義朝の代より坂東で大きな勢力になってると思うけどその武力を背景に頼朝が 棟梁として都で権力をって事を義朝は考えてたのかな?
103 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/01(木) 16:43:10
義平が無事落ちて坂東で勢力はったら
頼朝の出る幕はないんじゃないかな
104 : ◆QqQquqqauQ :2007/11/03(土) 15:46:40
なかっただろうね。
頼朝の母方が多少まともな血統だったとはいえ、マッチョ気質の坂東武者を貴種性でまとめるのは義平や朝長が生きていては不可能だったと思う。
105 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/04(日) 16:49:27
頼朝は坂東で貴種として価値はあっても実力勝負の 坂東じゃ義平の名の方が通ってるよね
平治の乱がなく義朝が40代くらいで早逝してたら源平じゃなく義平、頼朝の源氏同士の対立があったかも さて皆様が当時の源氏ゆかりの武者ならどっちにつきますか?
106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/04(日) 17:40:07
>>105
やっぱり義平かな。豪胆な印象があって、暗めな自分には良さそう。
107 :たられば君:2007/11/05(月) 09:42:28
>>105
義平と頼朝なら僕は頼朝かな。
義朝が早世していたら正嫡は志田義広あたりに移りそうだけど。
108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/05(月) 13:31:08
>>105
叔父を容赦なく攻め滅ぼしちゃう怖ろしい義平
彼の武勇に期待する
115 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 09:19:51
清盛、頼朝が組むと協力ですね
義平は坂東のリーダーとして鉄板ですから幕府などのビジョンはなくても千葉介、三浦氏や新田氏などが
坂東の独立を掲げた争いになるかもしれませんね
皆様の意見の全てが興味 深いのですが概ね頼朝派=現実、堅実派
義平派=夢を買う派 て感じですね
状況、条件さえ整えば 坂東武者達は義平に将門の再来を見れたかもしれませんね
ただ頼朝が黙ってないでしょうが
皆様は義平、頼朝に何を託しましたか?
116 :たられば君:2007/11/07(水) 20:52:57
義平は坂東にいる源氏を率いられない要素が多すぎるでしょ。
自分の弟は希義・義門・全成・円成・義経が京方に回る。
義朝の有力な弟たちはみな敵に回る。
為義と結べば為朝以下は味方になるかもしれないけれど、
義賢を討っているだけに孤立しそう。
味方の大族は大庭・千葉・上総・相馬・三浦・秩父。
うまくまとめられたら関東限定の地方勢力にはなりえるかもね。
117 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/11/07(水) 23:58:18
三河の範頼が微妙な立場に。
123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 17:55:45
古代律令国家が崩壊しながら武者の世になっていく
この時代
魅力いっぱいなのに戦国や幕末に比べて・・・
そんな時代のこのスレを
盛り上げる為に皆様どんどん参加して下さい
義平の野望に!
124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/09(金) 19:28:50
そう思うならageよう
11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 19:22:13
12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 09:12:52
範頼の再評価か
一般的になんか情けないイメージはあるが
山陽道の大将として、負けてる戦は少ないし
それなりに評価されていい人物と思う
義経が神がかり過ぎるんだよね
13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/20(火) 14:43:56
範頼の勝利した戦いといえば
藤戸の戦いや葦屋浦の合戦
藤戸の戦い(ふじとのたたかい)は、源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。
葦屋浦の戦い(あしやうらのたたかい)は、平安時代末期の内乱、治承・寿永の乱の戦いの一つ。源範頼率いる平氏追討軍が筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町一帯の湾港)で、九州の平家方の豪族原田種直らとの合戦に勝利して九州上陸を果たした戦い。
19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 11:53:18
蒲冠者は名将でFA?
20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 13:35:12
名将というと語弊があるなあ。
統率者としてはそれなりに優秀だったというのが精一杯じゃないかなあ?
個人的な能力というより源家の血統が占めてる部分が大きい気がするし。
21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 13:54:00
御家人が離れないだけの統率力はあったのかな
22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/27(火) 14:18:45
Wikiで見る限り、個人の能力は良くわからないが、配下の力を上手く使い大局的に軍を動かせるだけの能力はあったという感じだね。
Koei式に言うと統率85 武力60 知力70↓ 政治70↓みたいな。
46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/25(月) 22:45:09
ところで上に出てた範頼だが、武将としちゃなかなか優秀じゃね?
そもそも苦戦したのは頼朝が三種の神器や安徳天皇を無事に保護する戦いをするように範頼に命じてたことや養和の飢饉による食糧不足や兵船不足、それから自分たちの所領の保持や恩賞による自領の拡大を最優先する自立心の強い東国御家人が 軍の中心だったってのが大きいと思う。
そもそも苦戦したのは頼朝が三種の神器や安徳天皇を無事に保護する戦いをするように範頼に命じてたことや養和の飢饉による食糧不足や兵船不足、それから自分たちの所領の保持や恩賞による自領の拡大を最優先する自立心の強い東国御家人が 軍の中心だったってのが大きいと思う。
苦戦したとはいえ、そういったハンデを乗り越えて、ほとんど敗戦もなく 山陽道、北九州を制圧して平家討伐に貢献した範頼の実績はどうみても名将じゃなきゃできんよ。
3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/16(金) 13:25:59
真の主役は後白河法皇
23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 01:17:13
俺は木曾義仲だなぁ
親父がらみで頼朝との確執とか複雑な関係が面白い
戦争は普通に強いよな、この人
http://ja.wikipedia.org/wiki/木曽義仲(源義仲)
24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 09:57:05
http://ja.wikipedia.org/wiki/木曽義仲(源義仲)
156 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/23(水) 05:43:17
源氏が最終的に勝てたのはほとんど義経ら源氏到来以前に平氏を瓦解させた木曾義仲の功績じゃん
24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/08(木) 09:57:05
悪源太と義賢か
義仲・・・戦はきわめて上手いが、統治が出来なかったね
もっとも義経だって出来るとは思えないが
頼朝ー範頼ラインだから平氏が西に落ちて以後の、
京の統治が出来たんでしょうね
25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/09(金) 11:02:18
大蔵館襲撃の件は 秩父党内の河越・畠山の勢力争いも絡んでるみたいだね
68 :宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/08/03(金) 13:06:26
桓武平氏系図(女子は省略)
平忠盛―┬清盛―――――――――┬重盛―――――┬維盛――妙覚
├家盛 | ├資盛―┬盛綱
├経盛―┬経正 ├基盛――行盛 ├清経 └盛国
| ├経俊 | ├有盛
| └敦盛 ├宗盛―┬清宗 ├師盛――源智
| | ├能宗 ├忠房
├教盛―┬通盛――通衡 | └某 ├宗実
| ├教経 | ├行実
| ├業盛 ├知盛―┬知章 ├重真
| └仲快 | ├知忠 ├重遍
| ├重衡 └知宗 └清雲
├頼盛―┬仲盛 ├維俊<養子>
| ├光盛 |
| ├保盛 ├知度
| ├為盛 ├清房
| ├知重 ├清貞<養子>―┬師行――師範
| └静遍 | └清兼
├忠重<養子> └清邦
|
└忠度―――忠行
69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 17:22:29
>>68
これは見事
70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/03(金) 19:10:24
誰でもいいから源氏も頼む
73 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/04(土) 01:02:48
源頼義┬義家┬義親─為義
├義綱┝為義┬義朝┬義平
│ ├義宗├義賢├朝長
│ ├義忠├義広├頼朝┬頼家
│ │ ├頼賢├希義└実朝
│ ├石川├頼仲├義門
│ │義時├為宗├範頼─範円─為頼─吉見
│ ├若槻├為成├全成 頼宗
│ │義隆├為朝├円成
│ │ ├為仲└義経
│ │ ├行家
│ │ ├泰綱
│ │ └有朝
│ └義国┬新田
│ │義重
│ └足利
│ 義康
└義光・・・続く・・・
74 :奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. :2007/08/04(土) 02:49:28
ちなみに。
>>73の義光から続く、ある一系は名乗りが特徴的なのでまとめたことがある。
義光─清光─逸見光長─基義─惟義─
義 重─┬惟 長─┬義 隆──隆 継──隆 信
又太郎 │又太郎 │彦太郎 太郎三郎 弥三郎
│ │
│ ├経 頼──泰 隆
│ │彦二郎 又二郎
│ │
├義 継 ├信 継──泰 継
│又二郎 │彦三郎 三郎次郎
│ │
│ └継 氏──貞 継
│ 彦四郎 又四郎
│
├重 氏─┬頼 隆──長 義
│又三郎 │三郎太郎 孫三郎
│ │
│ └義 氏──義 兼──信 義
│ 弥三郎 彦三郎 又三郎
│
├義 俊──泰 義──義 清
│又四郎 小四郎 孫四郎
│
├義 直──基 直──基 尚
│又五郎 八郎 孫五郎
│
└義 継─┬時 継──光 継──宗 継
又六 │六郎太郎 小太郎 孫太郎
│
└宗 義─┬義 継
六郎次郎│二郎太郎
│
└宗 信
又二郎
義 重─┬惟 長─┬義 隆──隆 継──隆 信
又太郎 │又太郎 │彦太郎 太郎三郎 弥三郎
│ │
│ ├経 頼──泰 隆
│ │彦二郎 又二郎
│ │
├義 継 ├信 継──泰 継
│又二郎 │彦三郎 三郎次郎
│ │
│ └継 氏──貞 継
│ 彦四郎 又四郎
│
├重 氏─┬頼 隆──長 義
│又三郎 │三郎太郎 孫三郎
│ │
│ └義 氏──義 兼──信 義
│ 弥三郎 彦三郎 又三郎
│
├義 俊──泰 義──義 清
│又四郎 小四郎 孫四郎
│
├義 直──基 直──基 尚
│又五郎 八郎 孫五郎
│
└義 継─┬時 継──光 継──宗 継
又六 │六郎太郎 小太郎 孫太郎
│
└宗 義─┬義 継
六郎次郎│二郎太郎
│
└宗 信
又二郎
78 :宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c :2007/08/05(日) 17:41:33
実際、平家物語の重盛は美化されすぎだからな。
平重盛重盛に対する同時代人の評価は、
- かくの如きの時、必ず使を送られ殊に芳心(親切な心)を致されるなり(『山槐記』)
- イミジク心ウルハシク(『愚管抄』)
- 武勇時輩にすぐると雖も、心懆甚だ穏やかなり(『百錬抄』)
など好意的なものが多く、優れた武人であると同時に穏和で気配りのできる人物だった。
保元・平治の乱での勇猛で生き生きとした姿は影を潜めるが、殿下乗合事件を見ると、激しい感情を心の底に隠していたと考えられる。重盛がつぶやいたという「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」(『日本外史』)の言葉も史実かどうかは不明だが、『愚管抄』でも重盛は「トク死ナバヤ(早く死にたいものだ)」と生きることに望みを失った言葉を残しており、清盛と後白河院の対立の中で無力であった状況を考えれば、あり得ない話ではない。更に重盛の母は身分が低かったため、支えてくれる有力な親族を持たず、同母弟の基盛が早くに死去していたことも、重盛の孤立感を深めたと推測される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/平重盛
79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/06(月) 13:33:40
件の牛車事件も実際は重盛が仕返しさせたらしいからな。
ただ、『愚管抄』では「イミジク心ウルワシキ人」という評価らしい。
実際重盛って武将としてはどうだったのか?
80 :山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/08/17(金) 22:14:43
「殿下乗合」の真相は、『平家物語』の作者も参照したらしい『玉葉』を見 れば分かりますが、『源平盛衰記』の作者は、『玉葉』以外の史料も参照し たらしく、この時浄海は福原で逆修の最中であったと記し、「普通とおおいに違えり」としていますね(傍注ですが)。
重盛の武勇については、『保元物語』に、源為朝に挑戦しようとしたら父に止められたとあるぐらいでしょうか。それも真偽は定かではありませんが。
149 :130です:2007/11/10(土) 05:01:47
尾張と言えば…頼朝が長田に「約束通り尾張美濃をくれてやる」(終わり身をくれてやる)と言って長田を斬らせた話しは本当ですかね?。
150 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/10(土) 15:23:07
>>149
長田もその後、謎が多い
ですよね、ついでに地元での長田評も聞いてみたくないですか?
151 :130:2007/11/10(土) 18:36:57
>>150
長田は評判悪いですよね。そう言えばやっぱり皆さんは義経は伝説的に凄かったと思います?私も義経が好きで源平の勉強をしたのですが…凡将ではないと思いますが…美化し過ぎのような…
152 :130:2007/11/10(土) 19:03:24
私は義経も凄かったかもしれないが義経についていた甲斐源氏が異常に強かったのではと思っています…一ノ谷も武田の騎馬なら?甲斐源氏の騎馬なら?なんて感じです。
158 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/15(金) 21:14:18
義経って当時の戦の作法からしたら掟破りの卑怯モンだろ?
163 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/03(水) 22:10:17
>>158
多勢に無勢は卑怯とはいうけど、義経はその逆なんだからいいじゃない。
流川楓のプレイを自己中心的だと批判してた記者が、試合が進むにつれ、 そうじゃない、自己中心的のレベルを超えてゲームそのものを支配してると 気がつくんだよね>by スラムダンク
景時は猪と批判したけど、義経はちゃんと大局を見据えてたと思う。
まあ、政治の大局は読めないと言われてるけど、それも無理ないと。
頼朝追討の院宣が秀衡に下されてから、義経は鎌倉の敵になってしまった。
武士全般というより鎌倉の利益を第一に考える頼朝に対し、義経の夢は、 源氏を再興した暁には奥州と共生していくことだったんじゃないのかな。
159 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/16(土) 13:03:50
ここには源氏贔屓しかいないのか?
平清盛って非道な独裁者ってイメージあるけど実は人情味あっていい奴なんだよ
目下の者でも人前では立ててやったり、幼い頼朝を結局は助けてやったりとしてるんだよな
そんな甘ちょろい清盛さんが好きだ
160 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/16(土) 13:24:21
その甘さが平家滅ぼしたけどね
まあ、でも上に戴くならやっぱり頼朝よりは清盛の方が良いよね
その清盛が死んだからガタガタになったんだろうけど
161 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/16(土) 19:06:47
亡くなった長男の重盛の代わりに宗盛が後継者になったのが痛い
せめて知盛が後継者になってれば…あんなことにはならなかったんじゃ…
166 :山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/09/28(日) 21:19:39
>>159
>目下の者でも人前では立ててやったり
『十訓抄』の伝える逸話ですね。他にも色々といい話があります。
あの中では若い頃の話とされていましたが、『平家物語』で晩年の清盛=おごって滅んだとされていた以上、出世前に限定しないといけなかったのでしょう。
当時の人間は、人間の能力や勝敗は冥界(仏神の世界)の采配によるものだと考えていたので、滅ぶのには必ず理由があったとする。
おごったのが原因で滅んだというより、滅んだからおごった面が強調された。
そもそも、『平家』に出て来る清盛の悪行というのがはっきりしません。
寺社勢力の攻撃(大仏殿焼き討ち自体は偶然らしい)は、彼に限らず義経な どもやっていますし(義経は勝尾寺でしたが)。 敵対する寺社への攻撃は、延暦寺の名が大き過ぎ、殺戮が苛烈過ぎたとはいえ、何も信長が最初にやったことではない。
禿は検非違使が使っていた密偵がモデルだとも言いますし、有名な殿下乗合 の一件も、清盛が福原に出ている間に重盛がやらかしたことですし。 それに、武家の報復としては珍しくない。
相手が摂関家ということで、当時の公家から見れば僭越=悪行でしたが、は たして全階層から否定的に見られることであったかどうか。
169 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/29(月) 01:31:19
清盛はまだ幼い従者が寝坊していても彼らを起こさずそっとしておいた
というような話もどっかで聞きいたなー
昔の時代は殺伐していたようなイメージがあるんだけど
このような細やかな心配りって珍しいんじゃね?
清盛個人の人格のなせるわざなんだろうかね
170 :山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/09/30(火) 01:24:11
それも『十訓抄』です。
編纂した側がどんな社会的な立場にいたかで何をよしとするかも変わって来るでしょうが、中世は公家や僧侶も武威を振るいましたからね。
源満仲が、入道する前に「家来になめられるから」殺生戒の誓いのみは無視し たという逸話が『今昔物語集』にありますが、当時の入道が基本的に一線を退 いても在俗と変わらないものであったとはいえ、武家の「家来」に対する暴力 性(家来に対して、敵対者に対して)を伺わせる話です。
しかし、鞭ばかりでは人は動かないでしょう。
とりわけ名誉の尊重された時代ですから、「身内の前で褒めてもらえる」とい うのは、忠誠心を増したことでしょうね。
いい話が過ぎて半分戯画になっているのは、慶滋保胤と平清盛と尼子経久か。
181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/31(土) 10:22:35
結局のところ
源氏の武略を比較すると
義仲>>>>>範頼、義経?>>>>>頼朝
ってとこだな
政略の比較では真逆だけど(義経を除く→義経は最低レベル)
182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/03(火) 12:35:42
武略とは関係ないけど
頼朝の個人武勇は相当高かったらしいね
反対に義経は以外と身体能力は低かったみたい
なんか不思議だけど納得できる自分がいる
183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/05(木) 12:16:57
義経は馬術と剣術は得意だったが弓は苦手だったといわれてるね
184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/05(木) 12:21:08
なんでも弓というのは膂力が必要で それだけは技術や努力で補えないからだとか
弓力の低い弓を使ってることがばれるのを嫌がって取り落として海に流された自分の弓をわざわざ回収するとかいう記述がのこってるらしいね
193 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/12(金) 01:26:39
>>183
源平戦時代は打物は下馬して行うのが殆ど(というか当時は乗馬しての打物は悪しきこととされていた)
弓が出来なければ乗馬する意味がないね
200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/21(月) 19:37:19
>>193
鎌倉時代どころか南北朝時代でも普通に馬上打ち物してるやんw
それどころか
大坂冬の陣図屏風や姉川合戦図ですら馬上で刀を持って戦う武士が描かれてるし
金吾利口書や信長公記にも騎乗して刀で戦う武士の記述がある
信長公記にいたっては「抜刀して斬りかかる七~八百騎云々」とありかなり大規模に馬上打ちものが残っている様がわかるわけで
203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/23(水) 02:10:44
那須の与一が好きだなあ
転載元
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1171593841/
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