1 :世界@名無史さん:2011/09/04(日) 20:42:33.08 0
滅び行く王朝に身を捧げた人や、汚名を省みずに自らの道を切り開こうとした人のことを語りましょう。 












17 :世界@名無史さん:2012/03/01(木) 06:25:17.07 0
岳飛秦檜 


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岳 飛(がく ひ、Yue Fei 1103年 - 1141年)は、中国南宋武将 
南宋を攻撃するに対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相秦檜に謀殺された。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。 
岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えばまず岳飛の名前が挙がるほどである。

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秦 檜(しん かい、1090年 - 1155年)は、南宋宰相は会之。江寧(現在の南京)出身。との講和を進め和議を結ぶが、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺・平民へ落とすなどした、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に恐怖政治を敷いたので、後世、その名は売国奴の代名詞となり蔑まれた。







2 :世界@名無史さん:2011/09/04(日) 20:55:48.35 0
足萎えのイカサマ師・タレーラン 


シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール1754年2月13日2月2日説も) - 1838年5月17日)は、フランスフランス革命から、第一帝政復古王政七月王政までの政治家外交官である。  

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「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高い。 

語録
「誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。 」
言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。」

 
3 :世界@名無史さん:2011/09/04(日) 21:23:36.73 0
東の忠臣の代表・文天祥。この人ははずせないだろう。 
西の忠臣といえばルイ16世の弁護人を敢えて買ってでたマルゼルブだな。 
「王家の方々が国内におられる限りは」と 
亡命の勧めを断りフランスに留まり続けて処刑された。 


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文天祥(ぶんてんしょう1236年 -1283年1月9日)中国南宋末期の軍人政治家である。 滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後はに捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。



4 :世界@名無史さん:2011/09/04(日) 21:28:19.82 0
明初の方孝孺、明末の史可法。 

ロマノフ朝のアレクセイ皇太子の御付武官というか養育係の水兵だった人。 
二人組みで、片方は帝政廃止となるや皇太子を苛めだしたのに 
もう一人は忠義に命を懸けて最後は赤軍に銃殺された。 


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方孝孺(ほうこうじゅ、1357年1402年)は、初期の儒学者。 
1392年、皇太孫(のちの建文帝)の側近となる。 
 そして建文帝の信任のもとで国政改革に従事し、徳治による政治体制を目指したが、燕王・朱棣(のちの永楽帝)による靖難の変が起こる。靖難の変末期には、方孝孺は建文帝から軍の総司令官に任命されたが、大敗して方孝孺は捕らえられた。

即位して永楽帝となった朱棣は、姚広孝の進言もあって方孝孺を助命する代わりに、彼に即位の詔を書くように命じた。これは、方孝孺が当時、儒学の大家として有名であったため、即位に関して簒奪として見ている儒学者の支持を得るためである。しかし、方孝孺は建文帝から重用された恩を忘れていなかったため、永楽帝の即位を「燕賊簒位」と大書した。これが永楽帝の怒りに触れて、一族800余名全てを目の前で処刑された後、同じく建文帝派であった斉泰・黄子澄と共に処刑された。


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史可法(しかほう、[[1601年]12月16日] - [[1645年]4月14日])は明末の政治家・軍事家。 

清が入関すると清との協力関係を構築し李自成征伐を主張するが、 馬士英など清涼に反対され失脚する。失脚した後は督師淮揚として江北四鎮の勢力と協力して清に対抗するようになった。

この後南明の支配地域が次々と清勢力に占拠されていくことになる。史可法は揚州に逃れ抵抗を試みるが、5月10日に愛新覚羅多鐸により揚州は包囲される。援軍も殆ど期待できない状況でドルゴンは史可法に降伏を勧告するが、史可法はこれを拒否。清軍が城内に侵入すると史可法は自刎した。



5 :世界@名無史さん:2011/09/04(日) 23:06:39.84 O
アレクサンドル・ネフスキー 

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アレクサンドル・ネフスキー1220年5月30日 - 1263年11月14日)は、ノヴゴロド公国を経てウラジーミル大公国の大公(在位は1252年-1263年)となる。 
 幼少の頃から智勇兼備の名将として父から高く評価され1236年に父からノヴゴロド公の位を継ぐように命じられた。当時、ノヴゴロド公国ではモンゴル帝国バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍の侵攻を受けなかったが、代わりにドイツ騎士団スウェーデンからその領土を狙われていた(北方十字軍)。しかも、1240年夏にはビルゲル率いるスウェーデン軍がノヴゴロドに侵攻して来たのである。しかしアレクサンドルはこれに対し、わずかな兵力でネヴァ河畔の戦いで大勝し、逆にスウェーデン軍を壊滅させると共に敵将ビルゲルを討ち取ってしまったのである。これによりアレクサンドルの勇名はロシア全土に轟き、この戦いに大勝を収めたことにより、アレクサンドルは「ネヴァ河の勝利者」という意味の「ネフスキー」と呼ばれることになったのである


6 :世界@名無史さん:2011/09/05(月) 01:49:52.02 0
明と清に叛いた呉三桂 


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呉 三桂(ご さんけい、ウ・サンクィ1612年) - 1678年))は、中国明末、初の軍人。清軍に対峙していたが李自成の北京占領に際して清に味方し、清の中国平定に尽力した。平西王として勢力を揮うが後に清に背き、三藩の乱を引き起こした。


7 :世界@名無史さん:2011/09/05(月) 20:50:39.98 0
日本では、やはり忠臣の鑑・大楠公であろうか。 

8 :世界@名無史さん:2011/10/10(月) 10:57:46.66 0
案外言われないが、マルチナ・ナブラチロワも教科書で教えられるべき反面教師だと思う。亡命を受け入れてくれ、テニス選手としての環境を提供してくれたアメリカを裏切ったんだから。 



12 :世界@名無史さん:2011/12/21(水) 16:27:51.88 0
ハルパゴス 

ハルパゴス紀元前6世紀)はメディア王国およびアケメネス朝ペルシア王国の将軍である。彼はメディアに反旗を翻したキュロス2世に協力し、メディアを滅ぼした。



13 :世界@名無史さん:2011/12/24(土) 20:22:11.43 0
なり上がりのナポレオンにはあまり忠臣はいなかったようだが、 
ワーテルローで降伏を拒否して全滅した老親衛隊は歴史に残る忠臣と言えるな。 






14 :世界@名無史さん:2012/02/19(日) 17:19:03.34 0
フリードリヒ2世の皇太子時代の親友カッテ少尉の話とかは泣ける。 

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フリードリヒ2世Friedrich II.1712年1月24日 - 1786年8月17日)は、第3代プロイセン王(在位:1740年5月31日 - 1786年8月17日)。 

本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していったが、イギリス王女との縁談を機会に、ついに逃亡を図ることになる。近衛騎兵少尉ハンス・ヘルマン・フォン・カッテとカイトに手引きを頼み、1730年8月5日早朝、旅行先の宿舎を抜け出したが、計画はすでに漏れており、王太子フリードリヒはロッホ大佐によってその日のうちに連れ戻された。

この逃亡計画が父王に知られ、フリードリヒはキュストリン要塞に幽閉された。このころ父王は国際的陰謀の渦中にあり、暗殺の恐怖に苛まれていたため、この逃亡計画も自分を陥れる罠だと考えてフリードリヒを処刑しようとまでしたという。手引きをしたカイト少尉はイギリスに逃亡したが、カッテ少尉は捕らえられて、見せしめのためフリードリヒの目の前で処刑された。フリードリヒが「カッテ、私を許してくれ!」と窓から叫ぶとカッテは「私は殿下のために喜んで死にます」と従容として斬首の刑を受けたという。フリードリヒは窓からその光景を見るよう強制されたが、正視できぬまま失神した。カッテの遺書には「私は国王陛下をお怨み申し上げません。殿下は今までどおり父上と母上を敬い、一刻も早く和解なさいますように。」と書かれていた。







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