47minamotonoyosihira

源 義平(みなもと の よしひら)は、平安時代末期の武将源義朝の長男。通称は鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太とも)。 
 平治物語』における義平は『保元物語』における源為朝と同様の主人公的な存在で、後に征夷大将軍となった頼朝の兄とあって、非常に颯爽とした若武者として描かれている。 






1 :日本@名無史さん:2010/12/17(金) 02:44:48
源義朝の長男でありながら生母の身分が低い故に官位叙任も叶わず(本人が求めていたかどうか?) 
嫡男として遇されないにも関わらず父義朝に孝行を励み六波羅清盛暗殺に執念を燃やした若武者を 
多いに語って下さい。 

なお「『義平』は武士起源論成立論を語る上での記号としてで」をルールとしましょう。 








 


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94 :日本@名無史さん:2010/12/18(土) 12:32:39
嵐山館襲撃は史実でないらしいね。 


大蔵合戦(おおくらかっせん)は、久寿2年(1155年8月16日平安時代末期に武蔵国源義平源義賢の拠点であった大蔵館を襲撃し、義賢と秩父重隆を攻め殺した戦い。


254 :日本@名無史さん:2010/12/21(火) 01:00:26
大蔵館は発掘調査されたみたいだね 
大蔵館襲撃の具体的遺物は出土しなかったけど14世紀までの痕跡は発掘されている。 
秩父党高坂氏の管理下にあったようだ。 







255 :日本@名無史さん:2010/12/21(火) 02:12:27
頼朝の同母妹坊門姫は平治の乱後、義平に従軍した後藤実基(秀郷流)に 
預けられ養育されたみたいだね。 


262 :日本@名無史さん:2010/12/21(火) 23:12:49
>>255 
「平治物語」で金毘羅系の本では義朝が坊門姫の養育を後藤実基に命じたとあるが 学習院本では後藤実基が太っていてこれ以上義朝一行についていけなくなったから 近江に留まったとある。 
「平治物語」の記載に差異はあるが 
後藤実基が坊門姫の嫁ぎ先の一条家に仕えていたのは事実らしいから後藤基実は坊門姫の近くにいたのだと推測はされる。 


440 :日本@名無史さん:2011/05/14(土) 03:44:17.63

これ本当なのかね。 
笛自体は鎌倉以前のものらしいけど 


義平と青葉の笛の伝説 

福井県の大野市(旧大野郡和泉村)には、義平が残したとされる青葉の笛がある。(伝承によると義平はその村の長の娘であるみつとの間に、一女を儲けている)その笛は現在は折れていて吹く事は出来ないが、子孫である朝日家に代々伝わっており今も大切に保管されている。近年の研究では鎌倉時代より前に作られた笛の特徴があるとされている。








290 :日本@名無史さん:2010/12/23(木) 10:31:02
義平って嫡男だったんじゃないの? 

源太って名前が嫡男っぽいわけだが 


292 :日本@名無史さん:2010/12/23(木) 23:15:03
源太というのは「源氏の太郎(長男)」という意味。 
当時は本名(義平)を読んではいけないから通称で呼ぶ。 

通称は 
官位が有る場合官位で呼ぶ。 
官位がない場合は通称名(兄弟順など)で呼ぶ。 

ちなみに「平治物語」では 
義朝は左馬頭または頭殿 
朝長は中宮大夫進殿 
頼朝は兵衛佐または佐殿 
と官位で呼ばれているのに対して 
義平は「悪源太」 

当時の扱いは 官位有るもの>官位無い者 

そして通称で呼ばれたものが官位を得ると官位名で呼ばれてステータスが上がったものと見なされる。 
(例 義経 九郎→判官殿) 

よって少なくとも平治の頃のステータスは 
義朝>頼朝>朝長>>>>>義平 
となっており 
頼朝の方が兄弟の中でのステータスが高いものと見なされる。 

293 :日本@名無史さん:2010/12/23(木) 23:18:22
もう一つ。 
従来義朝が為義の嫡子と見なされていたが最近はそうではないという見解も強い。 

義朝の弟義賢が「帯刀先生」という東宮職を先に得ていたが義朝はその頃東国にあって無位無官であったからということらしい。 
ちなみに義賢が様々な問題を起して都での出世をあきらめた後は頼賢が為義の嫡子になったと見なされている模様。 








259 :日本@名無史さん:2010/12/21(火) 20:59:12
武蔵七党と坂東八平氏はどう関係するのかな 

八平氏ってどっちかっていうと、両総、常陸ってイメージがあるんだけど 

武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野上野相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。 




坂東八平氏(ばんどうはちへいし)は、平安時代中期に坂東(関東地方)に土着して武家となった桓武平氏流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれた。

 



261 :日本@名無史さん:2010/12/21(火) 21:33:36
坂東て基本、箱根より向こうだよな? 




263 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 09:51:10
関東八屋形のなかに平氏って一人だけかよ 
没落とはこんなにあっけないものなのに古代氏族ってのだけはしぶといとかないね 


265 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 17:24:09
>>263 
前スレでも書いたけど 
決定的だったのは結城合戦だね。 
今川氏の軍制(寄子、足軽)によって血縁戦闘部隊は壊滅させられた。 

結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。

269 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 19:57:05
>>265 
下層民の戦闘部隊(寄子、足軽)によって名家の血縁戦闘部隊が殺戮されるってやるせないね。 



266 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 18:51:31
関東八屋形、宇都宮氏についてだが 
その祖、藤原宗円は藤原北家道兼流であり「兵の家」出身じゃないんだよね。 
ただ父親の兼房 はとても乱暴な人だったようだ。 
実質、関東に根を下したのは益子正隆の娘に入婿して宗綱をもうけてからであり、 
宗綱は八田氏に入婿して嫡男朝綱、小田氏の始祖八田知家をもうけている。 

八田氏とは何者なのだろうか? 



270 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 21:11:22
>>266 
八田氏って秦だと言ってみる。 

271 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 21:17:22
実際そういう説も聞いたことある。 


272 :日本@名無史さん:2010/12/22(水) 21:33:52
名田経営者が土地名から名字をつくるのは不思議ではないだろお 
名字からの類推って研究者からすればまったく信用のない部類だとおもうわ 

児玉源太郎とか、承久後に西国に下向した名家の子孫はいるな 
毛利家の重臣だから明治にも元勲として名を馳せれたんだろうけど 
かつての名家もやっぱ足軽レベルの禄を食んで生き残るしかないだろうね 



279 :日本@名無史さん:2010/12/23(木) 03:30:27
そういや弓月の君、弓月氏が日本に来てなんで秦氏を名乗ったんだろな。 

280 :日本@名無史さん:2010/12/23(木) 03:45:15
弓月「これあげます。養ってください」 

天皇「この絹ってぬの、やわらかくってあたたかくってまるで肌(はだ)みたいなさわりここちやん」 

弓月「・・・」 

天皇「おまえの名前はだにしてやんよ」 

弓月「はだってよんでね」 

281 :日本@名無史さん:2010/12/23(木) 04:06:55
本当にそんな理由かも知れんね。 












316 :日本@名無史さん:2010/12/25(土) 14:42:14
ところで 
義平の弟範頼もたしか母親が三河出身で後に頼朝から三河守に推挙されてるね。 
熱田大宮司家(尾張氏)とも縁があったのだろうか? 

317 :日本@名無史さん:2010/12/25(土) 14:59:13
>母親が三河出身 

遠州だった 

318 :日本@名無史さん:2010/12/25(土) 15:29:44
まぁ源義平の異母弟範頼の養父は藤原範李だから藤原李範とまったく無関係ってわけでもないね。 





345 :日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:13:37
義平は斬首の後、遺体はどうなったんだろね? 


346 :日本@名無史さん:2010/12/28(火) 21:20:32
>>345 
奥方(新田義重の娘)が上京して密かに葬ったって伝承があるね。 

347 :日本@名無史さん:2010/12/28(火) 22:20:50
>>346 
首の方ですね 
太田市に(旧新田郡)墓ありますね 
遺体の方はどう扱われたんですかね? 
当時の罪人は野ざらしかな?それとも一応、集団墓地みたいなとこに収められたんですかね? 




376 :日本@名無史さん:2011/02/22(火) 10:30:37.42
しかし何で義平は、京に戻るかな~? 

飛騨でちゃんと保護してもらえていたんなら、そこでしばらく待機するとか 
関東に来て頼朝のところに顔出すとか、親父さんの元部下の処を点々とする 
とか色々やることアンだろ? 

っておもた。 

377 :日本@名無史さん:2011/02/23(水) 08:17:44.43
>>376 
後出本の「平治物語」では義平は北陸方面に向かったことになっているが古い時代にできた「平治物語」では東山道に向かっていきそこで都にいく一団の武士に合流したがその武士達が途中で解散して在地に戻った為 義平は止む無く都に戻ったとある。 

だから実際にはどうだったかわからないが、 東に行ってもどうにもならない状況があったのではないだろうか? 

379 :日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:55:59.95
>>376-377 
最初は源氏に心を寄せる武士達が彼の元へ集まってたけど、棟梁の義朝が殺されたという噂を耳にするとあっけなく四散してしまったとも言われている。 
さすがにこの状況を目の当たりにしたら「源氏再興」って感じではないだろう、もう。 
頼朝が平家に捕われた事で逆に命拾いしたなんて事、まさかこの人は知る由も無いだろうし。 
(京に潜伏していた時期にそれを何らかのツテで知ったとしたら面白いんだがな) 





378 :日本@名無史さん:2011/02/24(木) 20:35:59.78
義平の子孫っていないのかな。 
『姓氏家系大辞典』では中村氏というのがそうだと書いてあったような記憶があるが。 






382 :日本@名無史さん:2011/03/01(火) 00:01:15.77
頼朝挙兵のあと甲斐と信濃でも源氏が台頭し、関東の頼朝と東海道の武田、北陸の義仲が割拠したわけだけど 
源氏の棟梁という旗頭があれば、清盛生存時でも源氏は地方から中央へと攻め上る求心力たりえたのだろうか? 

383 :日本@名無史さん:2011/03/01(火) 07:31:00.19
たりえないよ。 
「源氏神話」なんてあと(頼朝時、足利時)から創作した嘘だもの。 


385 :日本@名無史さん:2011/03/01(火) 15:28:59.17
前スレ読んできて下さいな。 

>関東では主に源氏の名家と主従関係を結んでいく傾向があった 

という「通説」は、今日の学界では殆んど否定され、 
それは頼朝が天下を取って以降、自身を正当化するための後付けとして付加されたものであるかということが散々議論されてきたはず。 



 

401 :日本@名無史さん:2011/03/02(水) 21:34:31.36
頼朝挙兵時から平家都落ちまでは 
平家イコール朝廷と言っても過言ではない。 
高倉院政ー安徳帝を擁した平家は朝廷を動かして 
国府を通して各国から武士を動員することができた。(従わないものも多かったが) 
一方頼朝らの各蜂起勢力は最初は反乱者扱い。 
寿永三年十月宣旨以降、頼朝は後白河ー後鳥羽体制において朝廷に認められた。 
その後は後白河ー後鳥羽体制のもとにある頼朝vs安徳体制の平家との間の戦いの側面もある。 









465 :日本@名無史さん:2011/08/06(土) 20:26:27.21
義平と頼朝の関係で、頼朝は熱田神宮の娘の子だから優遇されたってのは事実だろうけれど、藤原信頼の頼の字をもらってるから後継にきまってたってのはあとから説っぽい。任官とかも軍記物の後付けじゃあなかろうか。本人たちは平治の乱以前は面識もほとんどなかったのでは? 

466 :日本@名無史さん:2011/08/09(火) 10:31:57.87
この時代の嫡子というのも父親の気分とか事情でコロコロ代わるからね。 
なかには父親が食べようと思っていた瓜を盗み食いしたからという理由で、 
義絶されて家を追い出された話があるぐらいだから。 

大体、源義朝も為義の嫡子から外されちゃったぐらいだしね。 

平重盛の嫡子も資盛→維盛だし、 

北条時政の嫡子 政範→義時 
北条義時の嫡子 朝時→泰時 



467 :日本@名無史さん:2011/08/09(火) 13:27:40.12
瓜は処女の隠語 



468 :日本@名無史さん:2011/08/09(火) 16:23:51.67
義朝と為義の関係もよくわからんね。保元の乱で敵味方に分かれたり。 
坂東で義朝勢力が強いなら、為義はわざわざ敵方に参戦しなくてもいいだろうに。 
前の年に義賢が討たれてるから敵対したのかな? 


477 :日本@名無史さん:2011/11/11(金) 23:00:15.67
>>468 
為義が摂関家の忠実路線を選び、義朝が忠実と対立する美福門院路線を選んだ 
という説があるね。 

>>469 
為義が受領になれなかった間、為義の養父義忠の実子たちは為義よりいい地位についていたし 
為義が本当に嫡流を継いだのかわからないという説があるね。 
義朝も無位無官だったころ弟の義賢が官位を先に得ていたから義朝が為義の嫡子ではなかったという説もあるし。 

頼朝が挙兵したときだって、義仲、武田氏、新田氏などは自立していたから 頼朝が嫡流だと認められていたわけではないともいうし。 

源氏一族の中で治承寿永の乱~奥州合戦までを勝ち抜いた最終勝者の頼朝が その時点で自分を嫡流に仕立て上げたという見方もあるみたいだし。 

ただし、官位の関係から頼朝は右兵衛佐になった時点では頼朝が嫡子であるという見方が強いみたいだ。 





499 :日本@名無史さん:2012/05/08(火) 22:05:08.04
ええい義平無双はいつ見られるんだ??? 



482 :日本@名無史さん:2012/01/05(木) 23:29:27.54
平治の乱で義平が率いた坂東武者17騎は全員後世で言えば大名クラスの殿様なんだよな。 
平家の600騎は家人とその郎党含めての数だよね。 

489 :日本@名無史さん:2012/04/11(水) 01:30:50.44
>>482 
大名クラスも小名クラスも含まれるが 
兵は大名の郎等を含まない少数精鋭で 
兵力は重盛軍の5%以下(平治) 

491 :日本@名無史さん:2012/04/11(水) 15:44:43.22
>>482 
その17騎の殿様は、殿様ならば 
なぜ、それぞれの郎党を引き連れて上洛しなかったんでしょうか? 
仮に平均30騎も引き連れていれば、 
17+17*30=527騎 
むざむざ平家の600騎に負けることはなかっただろうに。 

492 :日本@名無史さん:2012/04/13(金) 12:20:00.43
>>491 
本領が遠かったからかね? 
都の近くの武士を家人にしてる平家のほうが強かったのもそういうことがあるのかも 
結局 頼朝はそうした武士を動員できる体制を築いたので内乱に勝利したといえるのかも 

493 :日本@名無史さん:2012/04/15(日) 15:14:42.82
>>491 
戦争に参加する予定ならば、必ず郎党を連れて上洛するはずだよね。 
ということは逆に、殿様ズは物見遊山気分の上洛だったのかも? 

乱を主導した信頼、義朝の戦略の誤りだろうね。 
最大勢力の清盛が熊野参りに出てる隙をついて蜂起したんだけど、彼が戻ってくれば敵に回る可能性大なんだから、 平家勢力を上回る戦力を準備することは必須だった。 

494 :日本@名無史さん:2012/04/23(月) 11:39:29.89
平治の乱の直前、というか、蜂起の直後かな? 
義平が上洛して参戦するんだけど、 
このとき、義平は郎党を引き連れてきていないようだ。 
ということは、どういうことかと考えると、 
a)義朝は東国に大軍の動員をかけたけど、それに従ったのは義平だけだった 
b)東国武士は動員に応えようとしたが、間に合わなかった 
aかbのいずれか。 

495 :日本@名無史さん:2012/04/25(水) 16:21:53.32
>>493>>494 
河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書) [新書] 元木 泰雄 (著) によれば、 

保元の乱には国府を通した公的動員がかけられていたが、平治の乱には公的動員がかけられていなかったという事情が影響したみたいね。 
源義朝も保元の乱以後、今まで言われていた以上の勢力拡大に成功したみたいだけど、やっぱり私的な動員には、限界があったんだろう。 





496 :日本@名無史さん:2012/05/08(火) 03:35:48.19
義平の「平」の字なんだが、中村荘司の中村一族の通字の「平」に関係あるんだろうか? 
※中村宗平、重平、土肥実平。 
三浦氏の娘の所生で、養育は中村一族がしていたとか? 

497 :日本@名無史さん:2012/05/08(火) 12:06:05.48
>>496 
養育というか、元服のときの名付け親役が中村かも? 

500 :日本@名無史さん:2012/05/11(金) 13:41:04.16
>>497 
名前の一字を与えたりするのは、名付け親役じゃなくて、烏帽子親 

501 :日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:00:04.08
>>496 
義平未亡人となった新田義重女は、その後誰と再婚したの? 

502 :日本@名無史さん:2012/05/17(木) 07:17:39.90
師六郎 












503 :日本@名無史さん:2012/05/20(日) 11:50:19.42
平治の乱で、平家を攻撃に行く途中で、 日和見してる頼政を攻撃するとか、 戦争指揮官としては、大きな疑問符が付くよね 

504 :日本@名無史さん:2012/05/24(木) 21:02:51.19
>>503 
将の器ではない。 
戦闘指揮官ではない。 

突撃隊長、しかも一人でも徹底して突撃する。 
そこに惹かれる。 

505 :日本@名無史さん:2012/06/01(金) 15:53:47.83
河内源氏って代々ヤクザだよね 
摂津源氏と違って教養が無いというか 

506 :日本@名無史さん:2012/06/01(金) 16:23:33.88
何せ武門の棟梁だからなw 





513 :日本@名無史さん:2012/07/02(月) 15:49:10.68
大河ドラマの次回予告で義平が、走りながら刀を振り回してましたな 

左近の桜、右近の橘の追いかけっこは馬ではなく徒歩でやるみたい。 



516 :日本@名無史さん:2012/07/09(月) 21:06:39.45
平治物語では手形の発案者として描かれている義平が徒歩で戦うとか馬鹿げてるよ 
おまけに一騎打ちの相手は京育ちのひ弱なボンボン重盛 
まともにかちあったら秒殺ですがな 

517 :日本@名無史さん:2012/07/09(月) 22:08:10.31
残念だったね。 
低視聴率の理由が分かりすぎるほど分かった。 






518 :日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:29:10.30
「すぐに阿倍野へ出陣して、清盛を討ち取りましょう」 
実際には遠征するだけの兵力が無い、平氏と対立する意思が信頼にない等の理由で 
この言葉が後世の逸話だというのは分かっていますが・・。その上で疑問です。 

どうして阿倍野に遠征して清盛を待つなんでしょうか? 
わざわざ遠方に兵を分散させるリスクを犯さなくても 
清盛が帰ってくる前に六波羅に夜襲を行い火をかけて燃やしてしまった方が 
確実に手早く勝負がつくような気がするのですが・・・。 

そういう発想は無かったのでしょうか? 

519 :日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:50:35.67
清盛が帰京するかどうかはあの時点では断定できない 
瀬戸内や九州、あるいは伊勢に下向して大軍を集めると厄介だろ 


520 :日本@名無史さん:2012/07/10(火) 22:53:37.45
あと六波羅には平家の軍勢が駐屯しているし、防備を固めている 
そんな簡単に撃破できない 

521 :日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:34:43.03
>>520 
六波羅に駐屯する平家軍勢は大して多くない 
なにしろ保元の乱の時に動員した兵力が清盛300騎、義朝200騎 
常時洛中にいる兵はこの程度だろう 
しかも清盛は重盛も伴っての熊野詣なので六波羅の兵力は更に少なかったと思われる 

しかし、このときの六波羅邸には変わった人が滞在している 
源義朝と組んだ藤原信頼の嫡男、信親だ 
信親は清盛の娘を正室に迎え、六波羅邸に入り婿していたのだ 
信頼は自分の嫡男がいる六波羅邸を攻めるはずもなく安心しきっていた 

522 :日本@名無史さん:2012/07/10(火) 23:44:41.95
>>521 
実際は重盛は同道していない 

523 :日本@名無史さん:2012/07/12(木) 21:35:04.88
>>518 
多分地形だと思うけど。 
上町台地の端が天王寺や阿倍野辺りではなかったかと。 




524 :日本@名無史さん:2012/07/31(火) 09:04:35.41
「飛んでゆく雲」は少女漫画の大傑作 
525 :日本@名無史さん:2012/08/23(木) 18:22:01.64
↑なかなか見つからない。 













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