18Godaigo

 http://ja.wikipedia.org/wiki/後醍醐天皇






1 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 04:01:28
鎌倉・室町のちょっといい話・悪い話を上げていこう 

逸話に対する過度の真贋論争、揚げ足取りなどは、荒れるもとになります 
該当する話題のスレ、もしくは別個の検証スレを立ててお願いします 

戦国時代板の戦国ちょっといい・悪い話スレの鎌倉・室町版 
ゆるゆる、大体院政期から応仁の乱くらいまでの逸話を語りましょう 

しばらくはいい話も悪い話も同じスレの中で様子見ていきます 
逸話投下の際に、いい話か悪い話か明記頂けると 
後からもし別れてもわかりやすいんでお願いします 



 


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2 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 05:05:39
というわけで、最初だし派手なのがいいなと思うので太平記三大DQNこと、 三大婆娑羅の一角の有名な逸話から 
とにかく色々あって、後醍醐天皇から離反した足利尊氏が湊川の戦いで勝利し、 後醍醐天皇の代わりに光明天皇が即位、北朝が成立した 
尊氏に従い、共に後醍醐帝から離反した佐々木道誉は、その功績から幕府の中枢で重んじられ、栄耀栄華を極める身となったが、 プライドが高く、教養もあって、頭がいいこの男は、 様々な事件を起こす「ばさら」の典型でもあった 
彼のばさらを象徴する事件として語られるのがこの事件である 

暦応3年、道誉の一族の若党達が、小鷹狩の帰りに妙法院の庭紅葉の枝を気に入り、折って盗んだ 
丁度その時、妙法院の門主は、御簾の中から庭のもみじの風情を楽しんでいたのであるが 突然の闖入者とその暴挙に驚き、坊官に命じてそれを注意させた 
注意されたジャイアニズム全開のばさら共は、簡単にキレた 

「じゃあもっとデカイ枝を貰ってやるぜ、ヒャッハー!」 

そう言って、庭の大きな枝を折るばさら共 
やめてー!とオロオロする門主を放ってはおけぬと、妙法院に滞在していた 
屈強な山法師達が、この闖入者達を実力行使で追い出しにかかった 
これには闖入者達もたまらず 

「チクショー!オジ様に言いつけてやるんだからなー!これで終わると思うなよー!」 

と、退場していった。これでめでたしめでたしといきたいが、ここからが問題なのである 
自家の若党が侮辱を受けて帰った道誉は激怒した 
え、これお前のうちのやつが悪くないか?とか言っていてはいけない 
そんな理屈はこの時代通用しない。舐められたらおしまいなのである 




3 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 05:07:32
道誉は、すぐさま三百余騎を率いて妙法院を焼き討ちした 
風の強い日でもあり、火はあっという間に燃え広がり全焼してしまった 
門主は命辛辛逃げられたが、その弟子の若宮は、道誉の息子秀綱に、 板敷の下に追われ、その上を叩きつけられるという屈辱的な振る舞いを受けた 

流石にこの暴挙は、多くの人の不興を買ったが、相手は幕府の中枢の人物であり 苦情を受けた朝廷も手をこまねいて、なんら対処ができない 
ついに怒った妙法院の衆徒が、神輿を皇居に担ぎ込んで抗議しようという話になるにいたり 
ようやく朝廷も、道誉を罰すっることに踏み切ったのである 
でも、幕府が言うことを聞いてくれない 
朝廷としてはこんな危険人物は出羽とか陸奥とか、 そういう遠いところに流してしまいたかったのだが、幕府は道誉の味方だから同意しない 
結局、道誉はその一族ともども、上総の国に流されることになった 
だが、おとなしく流されたりはしなかった 

道誉が流人として都を発つその行列は、さながら狂乱のパレードのようであり 
見物人たちはその豪華さと派手派手しさに目を見張った 
見送りの若党二百余騎は、猿皮の衣装を身に纏い、手にウグイスの籠を持って付き従い 
郎党は綺羅びやかな遊女を侍らせ、行く先々で盛大な酒宴を催しながら、 ピクニック気分で東下りと洒落込む風情であったのだ 
お前流人じゃないのか、と突っ込むことが出来る人間は、もはやいない 

華々しく都を発った道誉は、わずか数年のバカンスの後、再び幕政に復帰するのであった 
そんな室町の悪(ワル)の話。 


9 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:04:30
>>1乙 
やっぱ南北朝期のバサラ大名はやることが一々派手だな 

10 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:20:24
3大って、GODAIGO、師直、道誉? 

11 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:29:04
>>10 
高師直・佐々木道誉・土岐頼遠じゃね? 
GODIEGOはもう別格みたいな 

12 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 12:39:15
流人だと思ったら風流人だったでござる 



15 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 13:51:52
>>8了解です 

それではここで正中の変の後話でも 

「日野資朝、覚悟を決めさせたのは…」1/2 

日野資朝は後醍醐天皇の側近にして初期の倒幕計画の中心人物だった。 

ところが資朝らの計画した倒幕計画は挙兵間近の所で土岐左近蔵人頼員が妻へ倒幕計画を話してしまい、幕府へことが露見してしまった。 

幕府は六波羅探題に兵を集めこの倒幕計画に参加する手筈だった武将を次々と打ち果たした。 

これが正中の変である。 

さて、これに焦ったのは後醍醐天皇とその側近達である。すぐさま倒幕計画に加担した公卿を集め会議が行われた。 

議題は誰が天皇の代わりに責任を取り、罰を受けるか。 

しかし結論はなかなかでない。誰も自分が、とは言えなかったし、お前が責任とれ、とも言えなかった。 

16 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 13:53:28
「日野資朝、覚悟を決めさせたのは…」2/2 

そんな時、この会議に参加していた後醍醐天皇の実質的な皇后である阿波廉子が動く。 

「…資朝殿はどうお考えですか?」 

この瞬間資朝は廉子の言いたいことの全てを悟った。なるほど、彼女は私に責任を取れとおっしゃっているのだろう、と。 

資朝が覚悟を決めるまでにそんなに時間はかからなかった。 

「この計画に参加した多治見四郎次郎・土岐伯耆十郎頼貞は私が仲間に引き入れたものでございます。 

全ての責任は私がとりましょう。お上はまったく与り知らぬことにして私一人が罪を被ればいいのです。 

その結果例え死罪になろうと本望でございます…」 

そのあと、この資朝を哀れに思ったのか日野俊基も責任をとる、と帝に申し上げ受理された。 

結局この二人が乱の首謀者として幕府に召し取られた。 

幕府は最初、俊基は証拠不十分のため無罪・資朝は死罪一等のところを減じて佐渡への流罪とした。 

しかしその6年後の1330年、再び後醍醐天皇が倒幕を企てるにあたり、俊基、資朝両名は幕府に死罪を命じられ、 

俊基は鎌倉で、資朝は流罪先の佐渡で切られた。 

この時、父の死に際を見ようと資朝の子供が京から佐渡まで行き、結局最期まで逢えずに終わる話もあるが、それはまた別の機会に。 

17 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 14:00:20
すいません、後醍醐天皇の元弘の変が発覚したのは1331年でしたね 
そして資朝が切られたのは1332年でした 
 ど う し て こ う な っ た… 
ちょっと樹海までいってきますorz 

18 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 14:12:21
まあ、首謀格っていえば、この二人は確かにそうなんだが、何か後味悪いよなあ 
個人的には日野家は、資朝以外は後に北朝方についてるっていうのが面白いと思う 




19 :1/2:2010/10/10(日) 14:31:07
貞和5年(1349)6月のこと。 
京は四条河原において、四条大橋建設の資金を得るための勧進田楽が行われた。 
これには足利尊氏、二条良基、梶井宮尊院法親王など、当時の今日の貴顕も多く臨席、 
また河原には100間(約180メートル)を超える長大な桟敷が作られ、大勢の群衆が集まりそこから見物した。 

さて、この日の田楽の模様を太平記の記事より見てみよう 

『両方の楽屋より中門口(田楽のオープニング曲)の鼓を鳴らし、音取(調子をあわせて)笛を吹き立てれば、匂い薫蘭を催し、粧い紅粉を尽くしたる美麗の童八人、一様に金襴の水干を着して、東の楽屋より練出たれば(中略) 

一のササラは本座の阿古、乱拍子は新座の彦夜叉、刀玉は道一、各神変の堪能なれば見物耳目を驚かす。』 

当時の一流の名人が集まっての田楽は大いに盛り上がった。そのクライマックス、、八、九歳ほどの猿の面をつけた童子がアクロバットな芸を見せた 

『御幣を差上げて、赤地の金襴の打掛に虎皮の連貫を踏み開き、小拍子に懸けて、紅縁の反り橋を斜めに 踏み出たりけるが高欄に飛び上がり、左へ回り右へ曲り、跳ね返りては上がる』 

この時である。熱狂の極みに達した観客たちは、桟敷で一斉に立ち上がり口々にわめき叫んだ 

「ああ面白い!もう耐えられない!興奮のあまり死んでしまいそうだ、誰か助けて!」 


20 :2/2:2010/10/10(日) 14:32:00
これとほぼ同時であったという 
桟敷が人々が一斉に立ち上がったため、その重圧によって将棋倒しに倒壊したのだ。 

この将棋倒しに数えきれないほどの人々が巻き込まれ、押しつぶされた。 
更にこの混乱の中、他人から刀などを奪おうとする者、それを見つけて斬りつける者、 
争いに巻き込まれ刀傷を受け血まみれになる者、茶の湯を浴びて大やけどをする者、 
それまでの田楽歓楽の情景からは一変、四条河原には、地獄絵図が現出した。 

この事故、死者だけでも100名を超える大惨事となった。 

この後間もなく、河原にこのような狂歌が立ったという 

『田楽の 将棋倒しの桟敷には 王ばかりこそ登らざりけれ』 
(桟敷の将棋(倒し)の現場には王(天皇)がおられなかった) 

また、人々は「世の中がこのように田楽に熱狂するのは、何かよからぬことが起こる前触れではないか」 
と囁きあったが、はからずもこの直後に。足利直義と高師直の対立が表面化、新たな騒乱、観応の擾乱が 起こる。 

有名な四条河原勧進田楽、桟敷倒壊事件についてのお話。 


21 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 15:07:56
>>20 
ひでえ… 
行き過ぎたロックバンドのライブかよ 





22 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/10(日) 15:27:41
平安(中期)も入ればよかったのですが。 
>大体院政期から応仁の乱くらいまでの逸話を語りましょう 
ひとまず。 

『小侍従が懺悔物語の事』 
後白河院の御所で、公卿と女房数名が侍り、雑談に興じていた時のこと。 
「各々、忘れがたい秘密の思い出というものがないか。あれば、懺悔も兼ねてこの場にて開陳するがよかろう」という、仰せがあった。 

そこで、院御自身から順に語られた後、小侍従という古女房の番となった。 
彼女は往年は色恋で鳴らした人物であり、さぞやその手の話も多かろうと周囲が注目する中、「おほく候ふよ」と言い、中でもとりわけ忘れがたい思い出があるので、未練として悪道に堕ちるよりは話しておこうと言うには、 
『ずいぶんと昔。ある所より車でお迎え頂いた時には、以前より恋焦がれて いた方からのお申し出ということで、胸は高鳴り、月かげや風の冷たさというものも、より一層感じられ、千々に心が乱れておりましたところ、落ち着かぬままでも車は近づいて参りますもので、そのまま乱れた心を抱えて乗り 
込み、あちらへ参りました。 

23 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/10(日) 15:29:29
さて先方へ行き着きまして、車寄せから入りますと、御簾の中から薫物のよき香りと共に、慕わしいあのお方が出て来られて、「なんと遅いこと」と仰って、私を抱きとめ、共に一夜を過ごしたので御座います。 

その後、鳥が鳴き、鐘が鳴ると共に家に帰らねばならなかった時の心といっ たら、とんと上の空で。 
うっかりしてあの方の衣を(事後に身につけた際に)着て帰ってしまったのですが、それをとる使いが参った際には、「また別れるのか」と、一層物悲しく 思われたことで御座いました。』 

流石は色好みの小侍従。周囲は感嘆したが、それで済まされないのが後白河院。 
「うむ。真に耐え難かったであろうな。で、その相手は誰じゃ。」 
小侍従も、はいそうですかと答えはしない。 
「いえ、どうかご勘弁下さいませ。申し上げかねます。」 
しかし、院も執拗にお訊ねになった。 
「そこまで言わぬことには、懺悔になるまいが。」 

そこで小侍従、微笑みながら言った。 
「それでは、申し上げましょう。憶えておいででは御座いませんか。院が位に就いておられました、その年のその月、あの方をお使いに、私を召されましたこと、よもやご否定はなさいますまい。誤りが御座いましたか。」 

そう言い終わると同時に、一同大爆笑。 
院は居た堪れなくなって、お一人で奥へ逃げ込んでしまわれたそうな。 


25 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 16:09:34
後白河院のバツが悪い話だなw 
覚えてなかったのか? 


31 :山内経俊の助命1/2:2010/10/10(日) 18:41:43
山内経俊の助命 
 
後白河法皇の子・以仁王は、源三位頼政とともに平家打倒の兵を挙げ、 
諸国の源氏に令旨を送り、蜂起を促した 
平治の乱以降20年余りの歳月を流人として伊豆で過ごした源頼朝も、これに応え兵を挙げた 
挙兵に際し、頼朝は東国各地の豪族の動向を伺い、大庭景義、三浦義明、千葉常胤、上総広常等の 
同心を確約したが、一度は滅亡したも同然の近江源氏の流人の青二才を侮る者も多く 
大庭景親、伊藤祐親、志田義広など、多くの者がこれに応えず、平家方に付いたのだった 
特に、頼朝の乳母兄弟でもあった山内経俊は 
「頼朝が平家を討つなど、富士と背を比べ、鼠が猫を狩るようなもの」 
と嘲笑する有様であった。 

実際アクシデントが続き、算段も取れないまま挙兵した頼朝たちは 
あまりパッとしない戦いの末に石橋山合戦で平家方に大敗する 
山内経俊も、この合戦の最中に頼朝の姿を見つけ弓を射た 
その弓は頼朝の鎧に突き刺さるが、命を奪うことは無く、頼朝は逃げおせた 
大きな犠牲を払いながらも、悪運に恵まれ房総へ逃れた頼朝は 
千葉氏、上総氏の援助を得て再挙、軍団を整えて武蔵へ進軍し、鎌倉に入った 
そして平惟盛率いる討伐軍を富士川の戦いで破ったのである 

こうなると、石橋山で頼朝に弓を引いた者たちは立つ瀬が無くなる 
降伏した大庭景親は斬られ、伊藤祐親も自害する中、山内経俊も斬られることになった 
この決定を聞いて慌てた経俊の母(頼朝の乳母)は、頼朝に助命を願いに参上した 
頼朝は乳母の訴えに対して何も言わずに、石橋山で自身が着用した鎧を見せた 
鎧の袖の、矢の巻口の上には、経俊の名がきっちり入った矢が見事に突き刺さっていた 
乳母は言葉を失い、何も言わず退散した 

ところが頼朝は、結局この経俊の命を助けてやるのである 
しかも「役立たず」と罵りながら、何だかんだと官職につけ重用してゆくのだ 
頼朝のツンデレぶりが伺える話であるが、いいか悪いかはわからなかったすまん 
50 :日本@名無史さん:2010/10/11(月) 18:46:56
>>32の山内経俊もそうだったが、 
一般的イメージからしたら驚くくらい頼朝は、周囲から舐められていた。 
平家滅亡直後の元暦二年、討伐に派遣さていた24人の御家人が、頼朝に無断で任官を受けたのは、そういう空気の現れだったと言っていい 
この24人に経俊もバッチリ名を連ねており 

「官を好み、その要用無き事か。あわれ無益の事かな」 
(意訳:官位が欲しくて欲しくてたまんないみたいですけど、 お前にそれだけの能があるかよ、官位カワイソー無駄じゃん) 
という頼朝の生々しい罵声が残されている。 
この時の頼朝はそうとうにキレていたらし、同じく勝手に任官を受けた渋谷重助には 
「度々の合戦に、心は甲にて有れば、前々の御勘当を免じ、 召し仕わるべきの処、衛府して頸を斬られぬるはいかに。 能く用意して加治に語らい、頸玉に厚く巻金をすべきなり。」 
(意訳:今まで平家についたり木曽についたりウロウロしてたのを 結構使えるから黙って許してやっていたが、もう許せねえ  精々首っ玉斬られねえように、鍛冶屋に相談して金の首巻きでも作っとくんだな) 
、まるでヤクザのような文句を送り、 律儀に24人全員に「このフワフワ面!」「臆病声!」と罵声を連ねた締めには 「この外と雖も、永く城外の思いを停止せしむべきか」 
(意訳:お前らもう都の外に出られると思うなよ?) 
と、書き残されていたりする 
実際には、少なくとも経俊は生きて都の外に出られたわけだが 金の首巻きを用意するよう言われた渋谷重助がどうなったのかは、残っていない 




33 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/10(日) 20:18:45
『鳥羽僧正、絵の描き様問答の事』 
鳥羽僧正という人は、比類なき絵の名手であったが、その下にも絵描きの好きな法師がいて、あまりに練習を重ねたものだから、最近は僧正にも劣らないほどの絵描きになっていた。 

これには僧正もねたましくなり、どうにかして失点を見つけ出してやろうと思っていたところ、法師が手元に置いていた自信作の中に、喧嘩の図があって、相手に突き刺した刀の切っ先が、拳ごと背中へ出ているのを見つけた。 

これはいい失点と思った僧正、早速法師に向けてこのことをあげつらう。 
「お前さん、もう絵を描かぬ方がよかろう。人を突いたからといって、拳まで背中に出るなんてことが、あるものか。ありもしないことだ。 こんな心ばせなら、絵を描くべきではない。」 

すると法師も反論する。 
「そのことですが、これは絵の故実というやつでして。」 
僧正、相手が言い終わる前に文句を言う。 
「自分で決めた故実か。片腹痛いわ。」 
だが、法師も動じない。 

「私一人のものでは御座いません。昔の名人の描いた性交の図などを見てみ ますと、性器の寸法は、とても実在するものの大きさでは御座いません。 
なんで、現実にあんなものが存在する筈が御座いましょう。 
ありのままを描いたら、興ざめであるからこそ、ああしたのです。 
絵そらごととは、絵だけが表現しうるもの故に言われている言葉です。 
事実と異なる描写は、貴方様の絵にも数多見受けられますが。」 

この様に臆することなく言い放ったものだから、僧正も正論だと感じ、黙っ てしまったという。 

前半だけなら悪い話、オチがついたのでいい話(多分)。 

39 :日本@名無史さん:2010/10/10(日) 23:25:42
>昔の名人の描いた性交の図 

見てみたい 


34 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/10(日) 21:31:46
『福原大相国禅門のわかがみの事』 
平清盛という人は、若い頃実に立派な評判をとった人であった。 
折悪しく、苦々しいことをしでかした者がいても、戯れであろうと思ってとがめず、お愛想でつまらないことを言われても、笑ってやった。 
どんな誤りをし、物をぶちまけ、呆れる真似をする者がいても、今更言って も詮無いことであるとして、声を荒げる様なことはなかった。 

冬の寒い頃には、傍に控えている者たちを己の衣で覆ってやり、朝早く目が覚めた時には、まだ寝ている者たちを起こさずにおき、好きなだけ寝させて おいてやった。 

召使の末端に位置している様な者であっても、身内がやって来た目の前では、欠かせない人材である様に扱われたので、そんな姿を身内に見せることが出 来た者たちは、おおいに面目をほどこし、心から喜んだ。 

こういう情け深い人であったから、多くの者達が心服したのである。 

ここでは若い頃の話とされており、晩年はそうではなかったのかという話に なりそうですが、当時の因果応報の理から言うと、善因が善果に、悪因が悪果になる筈なので、晩年まで「いい人」であったことにしてしまうと、熱病や一門滅亡の原因がつかめないので、あえて若い頃としたものでしょう。 
この話が本当なら、基本的な性格は変わらなかったのでは。 

寝ている家来を起こさずにおくという話は、伊達政宗や徳川家治にもあります。 


36 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/10(日) 21:44:15
『上達部案内を頼む事』 
天福(1233~1234)の頃、ある上達部が、嵯峨の辺りに家を建てようと思い、 出歩いた末に、大覚寺の池の辺りで破子を開いていた。 
するとそこに、杖にすがった老僧が一人で歩いて来たので、これ幸いと周囲 のことを訊ねてみると、これが驚くほど詳しい。 

喜んだ上達部は酒を勧めてみるが(当時の僧侶は慣習で飲んでおり、俗人も当然のこととしていた)、珍しく断酒していると言って飲まない。 
それならばと破子を勧めてみると、斎(午前中しか食事をしない僧の掟)と 言って受け取らない。 
全くもって、今時珍しい清僧であった。 

そこで上達部、「それでは、後で必ず参れ。馴染みになって、嵯峨の案内を頼もうではないか。」と言い、家と名を訊ねた。 
すると老僧、「この辺の人は、左府の入道と申しております。」と言う。 

それを聞いた上達部は肝をつぶし、破子も食べずに逃げ出した。 
この老僧、前左大臣藤原隆忠(当時71~72歳)の出家した姿であり、当時は大覚寺と号していた人物であった。 






41 :日本@名無史さん:2010/10/11(月) 02:05:25
スレ立て乙 

とりあえず有名どころから 

執権の母・松下禅尼 

相模守北条時頼の母、松下禅尼はあるとき時頼を自宅に招いた。 

そのおり、禅尼は自ら障子の破れを切り貼りし、修理していた。 

これを見た兄の安達義景が、 
「自分で直すことないんじゃない?器用な男がいるからそいつに任せようよ」 
と言ったところ、禅尼は 

J('ー`)し「その者だって私より上手ではないでしょう?」 

と返して張り替えを続けた。 
そこで義景は 
「替えるなら全体を取り換えてしまえば、楽だし見栄えもいいのでは?」 
と重ねて申しあげると、禅尼は 

J('ー`)し「いずれそうするつもりですが、今日はわざとこうしているのです。 
物は壊れたところを修理して使うものだと、若い人に教えようと思っています。」 

と答えた。 

この松下禅尼の教育を受けた息子が、幕政の安定と執権権力の強化に奔走した 
北条経時・時頼の兄弟である。 





 

49 :三浦の犬:2010/10/11(月) 13:34:57
1213年、鎌倉幕府にて政所別当を務めた重鎮、和田義盛が北條氏との政争の末、追い詰められて乱を起こす 
世に言う和田の乱である 
義盛は和田一族のみならず、横山党や波多野氏や、 三浦氏の筆頭格で、従兄弟で友人でもあった 
三浦義村の同心を得、挙兵するが 義村が土壇場で華麗に寝返り、北條義時に通じ、やがて敗れた 
そんな経緯があっての話なので、これはそれより後の話であろう 

ある年の正月、 
年賀の挨拶のために、多くの御家人達が将軍の御所を訪れていた 
そんな中、三浦義村は早くから詰所に入り、上座に座っていたところが後からやってきた下総の千葉胤綱が、 堂々と多くの人間を無視すると、義村より上座に座りこんだのである 
千葉胤綱はかなり若く、この出来事の時十代後半から二十代前半ほどだった 
年齢からいっても官職からいっても明らかな非礼を受け 
義村は怒って 
「下総の犬は己の居場所も知らぬか」 
と言い捨てた 
だが言われた胤綱は平然とした顔で 
「三浦の犬は友を食いますな」 
と返した 
和田の乱での義村の行為を皮肉ったのだ 

『古今著聞集』にはこの後のことは書かれていないが 
騒動になったという話が伝わっていないので 
何とかその場は収まったのであろう 



53 :日本@名無史さん:2010/10/11(月) 21:49:58
南北朝の争乱が始まる直前に花園上皇が皇太子(後の光厳天皇)に心得として書き残した書 
があるが、その中身を纏めるとこんなもの。 

・お前が天皇となってから、大規模な戦乱が起こるだろう。 
・しかし、その戦乱に対して、後醍醐のように武力で立ち向かうのではなく、 
 100年後のために色々な屈辱に耐えて、ひたすら「真の学問」に励め。 

自分の後継者に対して、「これからの将来は悲惨だが、ひたすら耐えろ」なんて書く辺り、 
本気で状況を悲観していたんだなと思いますけど、現実は花園上皇の予言どおりにことが進む訳で。 

かえすがえすも後醍醐天皇って、京都政界にとっても鎌倉にとってもトラブルメーカーだったんだな。 

54 :日本@名無史さん:2010/10/11(月) 21:53:18
>>53 
しかし天皇家は今もやってることがそうかわらんね。 



63 :日本@名無史さん:2010/10/12(火) 18:08:22
有名な話だけど、太平記より 

暦応元年(1338)の頃のことだそうだ。 
この年の5月には北畠顕家、閏7月には新田義貞が討死し、翌年8月には後醍醐帝崩御。 
南朝の勢力甚だしく衰え南北朝の戦乱の終結も遠くない、人々がそう思っていた頃である。 

ある雨の日、一人の禅僧が仁和寺の六本杉で雨宿りをしていた。 
すると、六本杉の上の方からなにやらヒソヒソとした声が聞こえる。 
何事かと見ると、木の梢に人々が集い密談をしていた。 

その中心は護良親王、彼を囲むように後醍醐帝の外戚、峰僧正春雅、南都の知教上人、 
浄土寺の忠円僧正ら、みな、南北朝の動乱の中で死んだ人々である。 
彼らが苦悶の表情で集合し、密謀を行っていたのだ 

この謀議の中で、護良親王は足利直義の子として生まれ出ること、峰僧正は夢窓疎石の同門である 
妙吉となって直義の政道の補佐をすること、知教は上杉重能・畠山直宗に乗り移り高師直・師泰兄弟を 亡き者とすること、逆に忠円は高師直・師泰兄弟の心に入れ替わって上杉・畠山を滅ぼすこと、 

「これによって尊氏・直義兄弟の仲は裂かれ天下大乱となり我等は怨念を晴らすことが出来るであろう!」 

この怪異があっておよそ10年後の貞和4年(1348)、足利直義と高師直の対立より始まり、 
南北朝の動乱をさらに長引かせ、かつ複雑化させた『観応の擾乱』が起こる。 

『観応の擾乱』を予告したとされる、太平記の記述である。 

64 :日本@名無史さん:2010/10/12(火) 20:26:06
観応の擾乱前には、様々な怪異があったとの記録が残されてるよね 
当時の世間の不安感や、オカルティックな空気がよくわかる 




71 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/12(火) 22:13:46
『知足院殿鷹狩の事』 
かつては弓矢を用い、馬に乗って大型獣を対象に狩猟をしていた公家も、10 
世紀以降は軍事貴族や非軍事貴族でありながら武を弄んだ一部の公家を除き、 
狩と言えば専ら鷹狩を行う様になっていた。 

これは久安6年(1150)8月20日、藤原忠実が語った話である。 
「最近は、小鷹狩(秋に小鳥を捕える鷹狩)が盛んであるな。  我も幼少の頃はおおいに楽しんだもので、中でも13~14歳(約50年前)の頃には、熱中しておったものだ。 

 ここから下った絵林という所で飛ばしたこともあったが、その時は鳶が二羽 飛び上がって来てな。 
 互い違いに鷹が飛んで、そのまま迷って下りて来て、我の笠の上に乗った事 があって、哀れに思ったことよ。 

 その後の事よ、『宇治大納言物語』(※)を女房が読んでいるのを聞いたのは。 
 『今は昔。鷹狩を好んでいた男がいて、ある時自身が雉となり、妻子と共に北山の小屋に宿っていたのに気づいた。 
 そのまま野辺に出て餌をついばんでいた所、人が来て鷹犬を放ち、自分たちを捕えようとする。 
 天にあっては鷹の爪を免れえず、地にあっては犬の顎から逃れられず。 
 なんとか自分と残った一羽の子が叢に逃げおおせたと思った時、鷹に襲われて、夢から覚めた。 
 男は飼っていた鷹犬を放つと、そのまま出家した、と語り伝えている。』 

 この話を聞いた翌日の朝、鷹を全て空に放ったよ。その後はやっておらん。」 

これより遡ること12日前の8月9日、忠実は「弓馬」のことを語っており、頼通 は歩射が得意であったのに、近代はそうではないと愚痴の様に述べています。 
道長が歩射・乗馬を共に好んだことは有名ですが、彼らを先蹤としていた忠実 も、若い頃は血気盛んだったのかもしれません。  

※『宇治大納言物語』……>>33の鳥羽僧正覚猷の父、源隆国編纂とされる説話集。 
 『今昔物語集』との関連が予想されているが、中世に散逸して詳細は不明。 

86 :日本@名無史さん:2010/10/13(水) 01:24:09
>>71 
仏教に傾倒した公家の心情がわかるいい話しですね。 
手塚仏陀にも似た話があったような・・・ 

98 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/13(水) 21:11:24
【後鳥羽院放猪の事】 
後鳥羽院は騎射・歩射・乗馬に堪能で、相撲や水練もお好みであり、大力を発揮された方で、刀もお好きであった。 
そんな武の面で知られる方であったが、歌人としてもまた一流。 

当時随一の歌人であった藤原定家とも、当初は良好な関係であったが、何し ろ双方ともに我が強かったものだから、やがて犬猿の仲に。 
ついには承久の乱の時に定家が「紅旗征戎吾が事に非ず」と述べ、隠岐へ流罪とされた院が定家は冷たいと愚痴をこぼされることになるのであるが、それよりずっと前、建仁2年(1202)当時から、両者の仲は冷えていた。 

この年の夏は旱続きであったが、定家は次の様に述べている。 
「雨は降らない。その上、近日は強盗が人を害している。先日も院の女房が鳥羽路に於いて被害に遭ったそうであるが、対策はとられない。 
 院がおやりになることと言ったら、ただ「遊覧」に尽きる。 

 近日はしきりに神泉苑に行幸なさり、猪狩を楽しんでおられるとか。 
 しかしこの猪、神泉苑中を掘り返しては、蛇を食べているのである。 
 今こんなことになり、神竜(神泉苑に棲み、密教僧や陰陽師の祈雨の対象 とされていた善如竜王)の心は、如何なものであろうか。 
 世間の者たちは、(竜の眷属である蛇が食べられたせいで)旱になったと 言っているのだが。」 

この猪、後鳥羽院が狩猟用に神泉苑に放たれたもの。 
神泉苑には鹿が飼われており、律令時代には地方から献じられた瑞鹿が放たれたこともありましたが、猪はまず出なかった筈です。 

定家はこれ以外にも、近年は公家が弓矢を用いて大型獣を狩猟対象としていることを苦々しく述べていますが、後鳥羽院への意識もあったのでは。 

ちなみに、この「旱の原因は後鳥羽院」と暗に書いた四日後には雨が降り、 五日後には一日中止まない大雨となっています。 





80 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2010/10/12(火) 23:54:51
十二年合戦で思い出しましたので、今宵の〆に。 

『後藤内軍物語の事』 
白河院の御代。天喜5年11月の合戦において、源頼義に付き従った六騎の中にいた藤原則明、通称後藤内は既に老齢であったが、院の御召に従い、往年の合戦を物語る大役を仰せ付かっていた。 

そこでまず言うには、 
「故頼義朝臣の鎮守府をたちて、秋田城へつき侍りし時、薄雪降り侍りしに、 軍のをのこども」 
とここまで言った時、院よりお言葉があった。 

「うむ、もう宜しい。幽玄なる情景が浮かんで参った。もう、これ以上は不要。」 
そうして、衣を下賜されたということである。 





92 :日本@名無史さん:2010/10/13(水) 13:19:59
富士川の戦いに勝利し、佐竹討伐も終え、ようやく鎌倉も一心地ついた治承5年6月19日 
頼朝が三浦半島に行き納涼することになり、三浦一族は一族を上げてこの歓待をすることになった 
この納涼には頼朝以外にも上総の豪族で、東国平定に大功のあった上総常広等も参上した 
ところが、やがて頼朝が到着すると、 その場にいた者達はみな砂の上で平伏したが 広常だけは馬からすら下りずに礼をした 
これに気付いた三浦一族の一人佐原義連は、さっそくこれを注意したが 広常は構わず 
「わしは三代源氏に仕えておるが、公私共にこのような礼を取ったとこはない」 と言った 
事実が、頼朝の武運の端を開いたのは広常の参戦であり 彼の協力が無ければ、今は無かったのは確かである そういった理由から、広常の振る舞いを誰も窘めることができなかった 

何となく暗雲が立ち込めているわけだが、 ひとまずそこは揉め事が避けられ、一行は会場となる故・三浦義明の邸宅に向かった 
義明の嫡子で、三浦の現当主三浦義澄は、贅を尽くして頼朝達を持て成し 酒も入って、中々いいムードになってきた 
そんなムードの中、三浦一族の一人で、早くから頼朝に馳せ参じた者でもある岡崎義実が、頼朝にその着用している水干を所望した 
義実は、石橋山合戦で頼朝の死地を開くため討死した真田与一の父でもあり 本人も頼朝の為に熱い忠義を傾けてきた男でもあったから 頼朝はこれを許し、自分の水干を脱いで渡した 
義実は受け取るや、喜んでこれを着用してみせた 

これが広常のカンに障った 
「そのような美しい服は、この広常こそが着用するに相応しいところ  義実のような老いぼれが賞され、頂くのは思いもよらぬ」 この言いように義実も怒り 
「広常にいくら功があると言っても、ワシの最初の忠義にいくら比べられるというのだ  比べられるとものでもあるまい」 と言い返した 
忽ち場は騒然となり、二人の口論は加熱 
「表へ出ろぉ!」「上等じゃコラァ!」と乱闘が始まりそうになったが きっかけを作ってしまった頼朝は、窘め治める術を持たず 何も言わないまま黙ってその状況を見つめていた 

と、ここに到着時に広常を窘めた佐原義連が走ってやってきた義連はまず身内の義実を叱る 
「この催しに義澄がどれだけ励んでいるか知っているでしょう 
 誰もぶち壊しになることなんか望んでいません 
 いい年して何をやってるんですか」 
それから広常に物申した 
「あなたの文句も、今話すことではない 
 申し上げたいことがあるならば、後日にして頂きたい」 

とにかく、今この場で揉めるな! 
そう言って、義連はその場をきちんと治めてみせ 
頼朝もこの顛末に満足した 

これから数年後、上総広常は頼朝の命で謀殺される 岡崎義実は幕府の片隅で忠勤を詰むが 
うまい世渡りなどは出来ず、晩年は困窮し、 息子の菩提を弔うために北條政子に援助を頼み、老齢で死んだ 
後にその子孫は和田の乱において和田方で戦い 岡崎氏は滅んでいる 

95 :日本@名無史さん:2010/10/13(水) 18:05:17
所行無常よのう・・・ 

転載元
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1286650888/l50 









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