1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 16:07:18 ID:1NkqNcjR0
無かったので 



 


ランキング参加しています!
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2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/29(水) 23:22:34 ID:fIXV7AWyO
お静かに! 

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/04(月) 09:03:29 ID:EJdMUpW+0
小栗 忠順 → 石田  三成 
勝  海舟 → 小早川 秀秋 

こうですか?わかりません 



5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 14:33:35 ID:iajKwzFd0
この人には榎本武揚のように維新後も活躍してほしかった。 


7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 10:40:21 ID:KerxDN0p0
小栗 忠順 → 石田  三成(無二の忠臣) 
勝  海舟 → 小早川 秀秋(身の保身のために平気で人を裏切る奸臣) 
徳川 慶喜 → 豊臣  秀頼(マザコンの優柔不断男) 

の提供でお送りいたします 

8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 12:39:55 ID:lz+ttp4T0
勝は、明治維新後に徳川慶喜と明治天皇の会談を実現させ、実質的に朝敵の汚名を晴らしました。 
慶喜は、自ら権力者を降りる事で、見苦しく権力にしがみつく事をせず、結果的に徳川宗家を現代まで残すに至っています。 

小栗は…不必要に戦争を煽って薩摩藩邸を焼き討ちし、大坂城に主戦派と軍隊を送りつけて鳥羽伏見の戦いを起こした元凶。 
    徳川家に賊軍の汚名を被せて存亡の危機に立たせた不忠者です。勝と慶喜の活躍で汚名を晴らせましたが、 小栗は首にされたというだけで、権田村に引っ込み殺されました。当然の報いでしょう。 

偉人?ホラ吹き?勝海舟


90 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 09:36:58.07 ID:LFURWm7M0
勝海舟は、同じ幕臣と言うが、勝のメクラの親父が、高利貸しで、儲けた金で、 
士分を、買ったもので、今の東大出の役人と、大差ないのでは、 
先祖代々なら、そのプライドにかけても、努力するだろうが、成り上がりなら、 
良くも悪くも、何でも出来るだろう、その結果が、現在、はっきりと見えているのでは? 

幕臣に、優れた人物が、居たのは、世襲制が有り、また、実力により、出世が出来る環境有っての、 
幕藩体制だったからだろう。 

庶民による選挙が無かった、江戸300年は、「太平の300年」だったのだ。 
現在の状態を考えると、もし、江戸時代に、庶民による選挙が、有ったら、どうなっていただろう。 

薩長の田舎侍がクーデターに依る政権獲得は、単なる、関ヶ原の恨みと、権力欲だけで、 
あったことは、幕臣の有望な人材を、多く、殺してしまった事にも、現れている。 
まさしく、現代に、被ってくる。 

坂本竜馬の武器商人グラバーとの武器商売で、暴利を貪り、まさに「竜エモン」だった、 
「船中八策」「カンパニー(亀山社中)」は、全てが、「パクリ」であった事は、調べれば、すぐ分かるはずだ。 

「維新」だの「船中八策」だの言う事は、どれだけ歴史を、知らないかを、表明している。 

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 22:50:43 ID:0HrRewgxO
違いますよ。薩摩藩屋敷を焼き打ちにしたのは、稲葉美濃、稲葉兵部大輔、松平甲斐ら閣僚と、前橋、西尾、上山、荘内の藩兵だ 

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 23:06:49 ID:DHeF3y4P0
それが、薩摩藩邸焼き討ちに際しては、 
江戸の幕府内の事務手続きとは別に、当時の幕府閣僚(町奉行 朝比奈昌弘)の証言が残っていて、 
それによると小栗ら幕府内強硬派が焼き討ちを強く求めたことになっているのです。 

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/24(日) 08:07:51 ID:5t6Z9P3X0
まぁ幕権主義者だったしな。 

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/05(金) 22:37:21 ID:wCMJU2XO0
TVで小栗の3位に驚いたが 
逆に小松帯刀がランク外に 
ワロタ。 


13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 14:35:53 ID:dYCgHVjO0
仏の飼い犬 


22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/20(木) 02:47:46 ID:PgUparxk0
小栗家は三河以来の旗本ですな。 

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 14:01:54 ID:pfNZCEx/0
別に珍しくもないけどな 


25 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 14:07:34.38 ID:P+i1r2WS0

富国強兵のマスタープランの作成者 

日本の経済官僚の第一号 

官軍が殺してしまったのは、惜しい。 

26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/31(木) 07:59:22.01 ID:wtJBio/D0
万博んときのフランスからの借金は失敗したんだよね 
そんなに幕府の台所厳しかったんだろうか 

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 01:48:35.01 ID:PUWRXQZw0
兵庫開港で関税収入が確保されて、幕府の資金繰りはだいぶ良くなる。 

確か年に100万両の収入になっている。 

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 02:05:15.33 ID:/SSbOdeO0
兵庫開港は鳥羽伏見の戦いの直前(1ヶ月前)だったから 
旧幕府の財政には寄与しなかったと思う。 


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 07:59:45.31 ID:D+YNLlmN0
小栗のやろうとしていたことは、幕末の幕政改革“慶応の改革”に凝縮されている。 

35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 16:28:41.02 ID:ydTi0hk80
慶応の改革(けいおうのかいかく) 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9 

1866年以後に江戸幕府15代将軍徳川慶喜によって行われた最後の幕政改革。 
事実上、徳川宗家主導の“富国強兵”であり近代化政策であった。 


①江戸幕府に事実上の内閣制度の要素を導入(老中を専任の長官とする「五局体制」) 
②諸藩や朝廷の権力を削減して、日本を徳川宗家を頂点とする中央集権国家体制する(郡県制) 
③新税(関税)導入も含めた財政改革 
④旗本軍役を廃止(銭納をもって代替)、フランス軍事顧問団の指導の下での新制陸軍の整備(銃兵化) 
⑤甲鉄艦導入による幕府海軍増強策 (買付け手続は幕臣小野友五郎による) 
⑥兵器の国産化を目的としたフランスの支援による横須賀製鉄所と造船所の建設 

(計画のみ) 
①産物会所・日仏会社(江戸幕府・フランスの共同経営の商社兼運送会社)による国内流通・国際貿易の独占支配 
②アームストロング砲の大量購入 
③本格的な蝦夷地開拓 
④新橋-横須賀間の鉄道を敷設 
⑤築地ホテル建設 
⑥ガス灯の設置 
⑦電信制度や郵便制度の構築 



31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 10:02:30.12 ID:r6VNpuKS0
もっと評価されるべき 


33 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/17(日) 01:39:27.20 ID:0DdK9Va70
 小栗の凄さは、蘭学を学ばずに合理主義思考ができたこと。 



36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/20(水) 20:00:05.94 ID:ydTi0hk80
これら慶応の改革をやられてしまうと、困る勢力が二つある。 
薩長とイギリスだ。 

まずは薩長だが、慶応の改革が実現してしまうと、 
完全に軍事的にも経済的にも徳川宗家が圧倒し近代化されてしまう。 
そうなると薩長らは、とてもじゃないが徳川宗家には手が出せなくなり、討幕が実現不可能になる。 

特に長州藩の桂小五郎は 
「関東の政令は一新されている(慶応の改革の事)、一橋慶喜の胆略はあなどれない。家康の再来をみるようだ」 
と警戒しているぐらいで、 
薩長としては幕府の慶応の改革が完成しないうちに討幕を実行したがった。 

また、イギリスは対日貿易でジャーディン・マセソンなどの商社が利益をあげており 

⑥兵器の国産化を目的としたフランスの支援による横須賀製鉄所と造船所の建設 
①産物会所・日仏会社(江戸幕府・フランスの共同経営の商社兼運送会社)による国内流通・国際貿易の独占支配 

などを幕府の政策として実行されてしまうと、英国系の商社の取り扱いが減り利益にならない 
特に日本側が商社を作り生糸などの輸出まで日本側が行うとなると英国系の商社の利益が 
棄損してしまい、何の為に貿易をしているか判らなくなってしまう。 

また武器の国産化も外国系商社の利益にならない、日本が大量に武器を購入してくれているので 
外国系商社が儲かっている事実があり、日本が武器を国産化してしまえば、武器を輸入する事も 
なくなり外国系商社の利益にならない。 

この様に慶応の改革には外国にとって利益にならない政策が含まれており、 
この事がイギリスなどが討幕派支援に回った背景となっている。 

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 17:18:04.23 ID:GCTYYlnP0
夢のような計画だとは思うが、実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか? 
例の国債募集のとき、ロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」 
とか言っている。 
まぁ廃藩置県と税制の改革を幕府の手で行えれば良かったのだろうが、小栗が幕権と幕威の強化に拘ったのは それも要因としてあるのだろうか。 

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/22(金) 19:00:46.69 ID:R5pEgONx0
>>37 
今の価値で6千億円ですか……。 

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/28(木) 01:30:46.85 ID:SHcjRUAp0
>実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか? 

有ったから慶応の改革を開始しているんだが。 

>ロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」 とか言っている。 

小栗はかなり凹んだらしいね、 特に薩摩藩の妨害工作でダメになった事が動揺の元なのでは? 

>まぁ廃藩置県と税制の改革を幕府の手で行えれば良かったのだろうが 

諸藩を潰して郡県制を引くのは、徳川宗家では規定路線だ、 
それに1867年11月から神戸港からの関税としての現金収入が入ってきている。 
これが結構幕府の収入としてかなりデカイ。 

それと慶応の改革メニュー④旗本軍役を廃止(銭納をもって代替)もかなり幕府の歳入増加に寄与しているらしい。 
この④の政策はフランスからの600万ドル借款がダメになったので、無理やり旗本から絞り上げて資金を捻出する為に考え出された緊急避難的な方法らしい。1867年9月26日に急遽導入されたモノだ。 

この旗本軍役を銭納をもって代替だが、松浦玲著「徳川慶喜」を見るとかなり幕府は旗本に対して強引かつ大幅な銭納を求めている事が記されている。おおよそ旗本領からの年間年貢収入の半分を幕府が徴収する事でフランスからの 600万ドル借款の代わりの資金を作ったらしい。しかしこの政策は旗本達には不評で、皆かなり怒っていたと勝海舟は評している。 

この旗本年貢収入の半分を徴収する政策は、旗本領300万石の半分150万石分の収入を幕府のものとしてしまう政策となり、 事実上幕府の天領は、従来の400万石+新規徴収分150万石=550万石となり幕府の財政基盤は強化されている。 

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/28(木) 13:39:21.96 ID:UzrVz27d0
>この旗本年貢収入の半分を徴収する政策は、 
>旗本領300万石の半分150万石分の収入を幕府のものとしてしまう政策となり 

いずれ幕府は、旗本領300万石全てを収公するつもりだった。 
そうなると天領は、700万石になり、徳川宗家は空前の巨大大名になってしまう。 

旗本は、幕府から給料をもらうだけのサラリーマンになってしまうが… 


42 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/02(月) 02:50:32.42 ID:OutBiSDD0
>>37 
>夢のような計画だとは思うが、実際にそれを行い得る体力が幕府にあったのだろうか? 
>>40 
そもそも「慶応の改革」は、徳川宗家を西洋的に軍事化し、薩長に対抗して中央集権的な「郡県制」施行を目的としたのも。 
そしてこの為の軍資金を捻出する為に日本を経済的に富ませようとした。 

つまり「慶応の改革」は、富国強兵の第一歩、と言えるものだ。 

当然、徳川宗家天領の増加も「慶応の改革」の目的の一つになる。 

徳川宗家が旗本領を収公して七百万石の巨大大名になるのは、薩長に対する対抗策として当然ありえる事。 
徳川家が七百万石になれば、薩長も怖くて手が出せなくなるw 


44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 21:09:10.22 ID:oL3RMMY50
小栗の最後は悲惨だったね。 

逃亡先で、今まで幕府にさんざんイジメられてきた農民が小栗をかくまわずに 
財産を奪い、即刻新政府に首を突き出された。 

そんなに、嫌われてたんだろうか? 

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 22:10:38.47 ID:yC6H8jYG0
上野の知行地に来たのは初めてだっけ? 

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 14:20:19.18 ID:vG+JBwdY0
初めてかどうかは知らんが、まぁ余り行く暇はなかったんじゃね? 
政務忙しかったろうし 




47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/23(月) 23:39:48.34 ID:OqLDPPyFO
幕府=徳川本家の家政 
諸藩政府=諸大名の家政 

両者は全く同じ原理の裏表なのだ 
幕府とは日本政府ではない 

原理が同じな一方を廃止し自分は残るという廃藩置県を幕府ができるはずがないのだが 
小栗は分からなかった 
勝は誰より早く正確に見抜いていた 
今でも2chでもこのスレでもこれが分かって無い人は多い 
だから小栗が分からなかったのも無理はない 


48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 00:32:12.02 ID:nSty2Jfa0
>原理が同じな一方を廃止し自分は残るという廃藩置県を幕府ができるはずがないのだが 

イヤだから、1867年の10月14日の大政奉還で、幕府(徳川宗家)=中央政府 
と言う構図はなくなっているのだが…15日以降は、朝廷から暫定政府として 
幕府が日常の行政事務は処理するだけ委任されている体制。 

正式な事や重要な事は、朝廷主催下の諸侯会議で決めますから、それまで待っててね、って言う事。 

10月24日に慶喜は、大政奉還に続き、正式に征夷大将軍職の退任届けを朝廷に提出したが、 
これも26日に却下され、この件も朝廷主催下の諸侯会議で決める、とされた。 

だから慶喜は、前政権トップ兼暫定政府のトップの立場と言うだけ。 

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/26(木) 04:43:51.56 ID:bB8yMgoE0
小栗は大政奉還絶対反対かつ大政の幕府への再委任を強く進言していました。 

幕府の未来を語るところでは、徳川慶喜の大政奉還を持ち出し、 
その他の部分では小栗の幕政強化論を持ち出すのでは、筋が通りません。 

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 02:08:25.82 ID:VEmeQatj0
>小栗は大政奉還絶対反対かつ大政の幕府への再委任を強く進言していました。 

最初はね。 
でも67年11月に小栗が上京して慶喜の説明と説得で大政奉還を認める様になります。 
戊辰戦争の最中には小栗は主戦を説いたと言われているが、倒幕を容認する発言もしている。 

「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない…」 
「私は幕府の臣であるから幕府のためにつくす身分ではあるけれども、 
 結局日本の為であって、幕府のしたことが長く日本のためとなって 
 徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば、徳川家の名誉ではないか。 
 国の利益ではないか。同じ売り据え(売家:大政奉還の事)にしても土蔵付売据の方がよい。 
 あとは野となれ山となれと言って退散するのはよろしくない」と語った。 

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 02:13:16.77 ID:VEmeQatj0
土蔵付売据=横須賀製鉄所の事 

52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/27(金) 09:48:01.02 ID:g64L/5TX0
主戦論を主張した上で知行地に帰らなければなぁ。 
他の幕臣みたく適当な処置で済んだ上に仕官も出来ただろうに、勿体無い。 
まぁ泥舟のように隠棲した可能性のが高いけど。 

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 17:39:32.07 ID:hCqyEMTC0
もしかしたら、勘定奉行の経歴を買われて明治政府で蔵相や日銀総裁をやったかも。 

はっきり言って、富国強兵は小栗にやらせた方が、もっと早く出来たかも知れない。 
もともとのプランニングは彼だし。 

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/30(月) 18:57:52.23 ID:YuI3DJ4P0
まぁプランニングっつーか、工程表みたいなのは残ってないので、 
明治政府は明治政府で独自の富国強兵だと思う。 
急進派も居れば、漸進派も居たからね。どっちも正しい部分はある。 

しかし見てみたかったな、明治の小栗。 

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 02:36:38.33 ID:EvZJRen/0
明治政府は、富国強兵の工程表なんか作っていたっけ? 

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/31(火) 08:29:16.60 ID:GxekY3WN0
いやそうでなく、小栗がプランニングしてたとしても、それは残ってなかったのではってことで。 
造船所なんかの物は残ってたけど。 

あと明治政府は、何をやらなきゃいけないってのはまー大体共通なんだが、 
実施希望時期が人によってバッラバラなんだよなw 



58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 20:06:53.12 ID:q6xYxD2T0
小栗はフランス公使・レオンロッシュに裏切られた可愛そうな奴。 

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 11:03:05.59 ID:UtwUgNPc0
皆さん小栗のことをボロクソに色々言うけど、明治維新政府は、混乱に混乱を重ねて、 
結局最後には小栗ら旗本幕臣が作った最後の幕政改革“慶応の改革”を丸呑みして富国強兵に乗り出したんだよ。 


小栗や栗本あたりは、本当にスゴイ人だったと思う。 

“慶応の改革”の途中で戊辰戦争が始まっちゃった。 
しかしこれも桂小五郎が言うように、“慶応の改革”が成功すると 
徳川宗家が強くなりすぎて討幕が 出来なくなるので、慌てて王政復古のクーデターを起した面がある。 

慶喜も在京の幕臣も幕藩体制には、それほど固執していない。 
実質的に徳川宗家の政治力が残れば、どんな体制でも良いや! っていう割り切りがある。 
大政奉還後の小栗もそんな感じ、小栗だったら政府が近代化しても大蔵官僚出来るしね。 




62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 08:48:50.22 ID:W2CVH1BQ0
新政府は天皇以外はフリーハンドで改革できたけど 
小栗たち幕臣の改革では洋務運動程度で頓挫したと思うけどな 
慶応の改革の軍事部門をみると。この期に及んで要職につくのに 
まだ家格が必要なんだから。 


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 12:07:11.46 ID:uLKoHjfp0
新政府の改革がかなり大胆で抜本的なモノになったのも、旧幕府軍が朝敵になって抵抗して、 
東日本全域を舞台にして戦争を行ったからこそってのもある。 

あそこであれだけ薩長がその武力を見せつけていなければ、朝廷側に集まった諸藩も 
ちゃんとおとなしく改革に従っていたかどうか。 

既得権(家格や門閥制)を守ろうという動きは幕府側にも諸藩側にも朝廷側にもあったけど 
それを有無を言わさぬ力でもってねじ伏せることが出来たのは、実際に戦火を交えて敵と戦う 
という経験をした下級士族達の発言力がこの戦乱を通じて上昇したからって側面が大きい。 

小栗がどんなに悪戦苦闘しても、徳川家というご本尊を後生大事に抱えている限りは、 
こうした旧来の人事慣行からは抜け出せなかったんじゃないかな。 

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/16(金) 08:25:52.17 ID:ISIKw1u80
薩長は旧主君を結構ないがしろにしてますよね。小栗は高禄だから無理か。 


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/17(月) 16:38:16.71 ID:nXsPOdIaO
小栗の軍制改革だが、 
もし、軍制改革が完成していれば、 

幕府の陸海軍は、どのくらいの規模になってたんかな? 

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/01(木) 19:59:40.82 ID:7v6TBxZK0
計画とか分からんからなぁ。とりあえず陸軍は史実通りの規模じゃない? 
時間さえあれば、海軍は史実より強化されただろう。 

>>65 
幕府の人事の硬直化は、小栗の能力以前の問題だなー。 
門閥やらに捕われず抜擢できていれば、鳥羽伏見はあんな様にはならなかっただろうし。 
慶応の改革当時の幕府という組織の限界だな。 

>>66 
何が言いたいのかよく分からんが、露骨に蔑にできないからみんな久光公の扱いに困った訳で。 
島津忠義や毛利元徳なんかは割と充実した余生を送ってるんじゃね。 

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 20:02:32.08 ID:m8RUMRw+0
>>68 
慶応の改革での新陸軍建設計画だが、小栗ではなく、陸軍総裁の松平乗謨が担当で立案している。 

幕府陸軍は、5万人規模の陸軍を建設。さらに諸大名の封土の三分の二を削って5万の陸軍を建設。 

その両者の統一司令官に将軍が就くと言う構想で、どうも大政奉還の構想に併せて立案した形跡がある。 


海軍は幕府海軍をそのまま拡大する計画だが、 
小栗は、西洋式軍艦(蒸気機関付き軍艦や甲鉄艦)の国産化を計画していた。 

その計画を勝は「500年かかっても実現するわけ無い!」と評価し全く否定的だった。 

幕府の関口製造所では、清朝に先駆けてアジアで始めて炸裂弾の開発に成功している。 
大砲の製造や小銃の修理改造も行っており、先込式エミニー銃を元込式に改造する事なども行っている。 
既に幕末には一部の大砲や銃の国産化も実現している事から、兵器の国産化は幕府の方針だったように思える。 


70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/04(日) 14:28:03.49 ID:YKoNZWLK0
小栗は人望が無さ過ぎた。 
その証拠に、最後に逃げ込んだ農民にすら裏切られて斬首だ。 

いかにコイツが幕府内で居丈高だったか知れるね。 

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/08(木) 06:19:10.25 ID:JQ6VT4nt0
勝みたいな二枚舌野郎がいなかったら 
幕府側が勝って小栗の改革が成功していただろうな 
そんな世界が見たかった。 


72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/08(木) 11:15:29.01 ID:q3FEvf/Y0
無理だろ。 
フランス商人に簡単に騙されるような男じゃあ 

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/09(金) 00:43:12.21 ID:51L8orzl0
つか、下手すりゃ北海道を失ってたかもな。 

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/14(水) 13:17:51.36 ID:eoDpWNeH0
小栗の北海道担保だか売却は何かの誤解か間違いが流布したんじゃなかったっけ。 
会津とかの方は資料も出てきてガチらしいが。 

75 : 忍法帖【Lv=2,xxxP】 :2011/12/22(木) 19:23:23.61 ID:DjVPk6Cf0
小栗上野介は明治元年閏四月六日斬首されたが、 
それに前後して斬られた上野介関係者は明田鉄男「全殉難録」よれば以下の通り。 


明治元年閏四月五日高崎で斬。 
荒川雄蔵 上野介家来。 
大井磯十郎上野介家来。 
渡辺多三郎 上野介家来。 

四月六日高崎で斬。 
多田金之助 上野介家来。 
橋本真彦 上野介家来。 

四月七日高崎で斬。 
小栗又一 忠高  上野介忠順の養子。 

四月高崎で斬。 
沓掛藤五郎 上野介家来。 


79 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/13(金) 03:13:45.62 ID:ohOfm+af0
敢えて小栗だけは殺さなきゃいけないって理由がないんだよなぁ。 
慶応の改革を小栗と共に推進した栗本鋤雲や梅沢孫太郎、板倉、稲葉、小笠原など 
五局体制を担った人材も、死罪になってない所か新政府に勧誘されたのまでいるし。 
これらの人との違いと言えば、あのタイミングで上野の所領に帰っちゃったこと。 
小笠原長行みたく、函館まで行ってれば逆に助かったかもしれない。 
最大の責任者である榎本すら助命されてる以上、処刑する大義名分もないし。 
本当に惜しい才能を亡くしてしまった。 

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 10:57:38.29 ID:oDIkZPOH0
西郷と大久保が最も恐れ最も憎んだのが小栗。幕臣で処刑されたのは近藤勇 
と小栗でしょう。近藤が率いたのは新撰組だったけど小栗は仏式陸軍を 
築いたからね。確かに小栗は惜しかった。フランスに数年亡命してれば 
よかったのに。司馬遼太郎は小栗を評価しつつもほとんど黙殺したのは 
維新を正義とする立場からすれば小栗の存在は目障りだったのだろう。 

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 11:07:35.88 ID:60TDMFIg0
フランスの支援を得て一時は極東有数の軍事力をもった幕府、長州攻撃 
を直前になって中止したのは薩長の背後の英国の存在に慶喜が気づいたから。 
仮に慶喜が攻撃を敢行したとしてもナポレオン3世の政権はクーデター 
で倒れる。フランスの後援をうしなった徳川氏の政権はやはり終焉した 
だろう。もし、小栗に助言できるなら旗本御家人を率いてロシア沿海州 
あるいはモンゴル満州へと亡命政権を築くことを提唱したい。ロシアの 
後ろ盾を得れば徳川氏の政権はさらに数十年持ったろう。 

92 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/21(木) 12:47:57.96 ID:cEe47VVk0
>>90 
>薩長の田舎侍がクーデターに依る政権獲得は、単なる、関ヶ原の恨みと、権力欲だけで、 
>あったことは、 

これは違うと思うなぁ 
例えば吉田松陰なんて権力欲とかなくて 
友達との約束を守るために脱藩するような変な人w 
居ても立ってもいられなくなるような激しいモチベーションは 
「このままだと日本国が西洋列強の植民地にされてしまう・・・」 
「万世一系続いてきた大和民族をいかに守るか」っていう 
出世欲や藩利を越えた枠組みでの、純粋な思考 
純粋だけに狂気を帯びると止まらない 

権利欲とかがあからさまに見えるのは 
どちらかというと明治維新以後だよ 

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/04(金) 21:24:43.29 ID:RFmcX3vWO
江戸に居れば命は 
失わなかったかも。 



93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/03(火) 10:05:23.91 ID:shYmEykc0
明治以降には徳川幕臣の少なからずは没落して 
中には、大身旗本のお姫様でさえ吉原花魁に身を落とした 
という噂が流れたと 
司馬遼太郎の本に書いてあったね。 


転載元
【上野介】小栗忠順【幕臣】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1285744038/l50 







小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣勘定奉行江戸町奉行外国奉行 
江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。 
小栗は1867年のパリ万博に際して「日本の工業製品をアピールし、フランス政府の後ろ盾で日本国債を発行、六百万両を工面する」計画を立てた。しかし薩摩藩も琉球と連名で万博に出展し、「幕府も薩摩と同格の地方組織であり、国債発行の資格は無い」と主張したため、計画は頓挫してしまう。その際の小栗についてロッシュは「小栗氏ともあろう者が六百万両程度で取り乱すとは意外だった」と語っている













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