43saigoutakamori


西郷 隆盛(さいごう たかもり、1828年1月23日) - 1877年9月24日)は、日本武士薩摩藩士)、軍人政治家 
http://ja.wikipedia.org/wiki/西郷隆盛 



1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/07(土) 22:17:14.77 ID:7RYx2AxF0
謎の多い西郷さん 
ラストサムライだったのか、ただのデブだったのか 


 

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 00:37:59.42 ID:dNdDUlCU0
侍だから幼少期に体は鍛えられてるだろ 
ご近所のただのデブとは違う 




146 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/29(日) 17:54:18.54 ID:NJgTjZlM0
せごどん。 
結局この人は何した人なの? 
翔ぶが如くでは全然わからなかった。 
維新後の話だしね。 
政治家でも軍人でもなく革命家だったってイメージ?  

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 05:21:02.15 ID:tDEG6zwd0
イモ喰って死んだ人だよな 

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 07:58:29.19 ID:wRJY0l1h0
以前は篤姫の婚礼調度集めに奔走していたらしいな。 


5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 11:42:16.12 ID:dNdDUlCU0
斉彬の懐刀として気に入られてたらしいからな 
斉彬急逝の訃報を聞き殉死しようとしたが、月照の説得で思いとどまった 

月照とはその後、錦江湾で自殺未遂を起こして西郷だけが生き残ってる 
強運の持ち主なのか、それとも浮力があるから死ねなかっただけなのか… 


月照

44Gesho

文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として生まれた。  
 
 安政5年(1858年)8月から始まった安政の大獄で追われる身となり、西郷と共に京都を脱出して西郷の故郷である薩摩藩に逃れたが、藩では厄介者である月照の保護を拒否し、日向国送りを命じる。これは、薩摩国と日向国の国境で月照を斬り捨てるというものであった。このため、月照も死を覚悟し、西郷と共に錦江湾に入水した。月照はこれで亡くなったが、西郷は奇跡的に一命を取り留めている。



6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 12:47:02.80 ID:3G9lFnCu0
その頃はまあ普通隊形だったようです。 
デブったのは二度目の奄美(沖永良部島)配流の時。 

奄美の一度目は入水後、身を隠す意味で奄美行きだったのですが、 
・桜田門外の変で井伊直弼暗殺死 
・島津久光の中央政策に、京都に知己のいる西郷が必要 
ってことで呼び戻されました。 

鹿児島に帰った途端、 
「斉彬公は神様のようなお方なのに比べると、 
三郎(久光)は田舎者だから、斉彬公と同じことをしようだなんて思い上がりもいいとこだね」と 

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 18:50:53.23 ID:zFgLHSp60
だが、沖永良部島から鹿児島に戻ったときはやせ細り、足も弱っていて歩けなかったらしい 
となると、西郷がメタボを気にしだしたのは、その後の京都在住時ということになる 

結局、久光とは最後まで仲が悪かったな 
久光にしたら家臣にまでバカにされて屈辱だっただろう 

  

島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本政治家幕末薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。  

 45simaduhisamitsu






9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 20:33:57.09 ID:p9Xg8rZMO
西郷隆盛を評価する時問題になるのは、過剰なまでの彼の英雄伝説と、 
信仰と表現するしかない、薩摩城下士の彼への賛同支持をどう扱うかということ。 

実際、入水の時も西郷の言動は芝居がかっており、実社会で本気で役者を演じたようなふしもある。 


126 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 18:18:27.58 ID:VaSGgNdg0
松本ちづおさんみたいなもんですかね? 

 
10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 22:42:53.70 ID:hc9lFj9O0
>>9 
定説となってる「信仰と表現するしかない・・・彼への賛同支持」自体が、 
本当にそうだったか怪しい、英雄伝説の一部かも知れないわけだよ。 

西郷さんの人望買い」という言葉が残ってることからして、当時の人たち(薩摩人含む)は 
けっこう覚めた目で西郷さんを見てたかもな。 

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 22:59:51.88 ID:W4WJ9SJI0
写真すら残ってないから謎が多い人物だけど、実績や影響度を考えると無視できない存在だし… 
確かに西郷の評価は難しいと思う 

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/08(日) 23:15:50.45 ID:3G9lFnCu0
西郷隆盛の性格を言うと、人気取りが好き、大衆受けを狙うという、 
現在の大衆政治家・テレビ政治家に近い部分が浮かんでくる。 

出生は鹿児島市加治屋町、城下士としては下から二番目の下級武士の出ということになる。 
子供の頃喧嘩の仲裁で右腕の腱を切られ、以後武芸は諦めたとのこと。 
後ろで大人物然と振舞うことに神経を使い、城下士子弟の自治組織であった郷中の長となる。 

この時期の伝説として伝わっているのは、 
親戚であった赤山靱負が斉彬の藩主就任を工作し切腹させられた際、血染めの衣服を見て斉彬公の藩主就任を決意したとされるもの、 城山団地のところにあった寺で座禅を習ったということ、福昌寺に通って漢学を習ったということ、近思録の共同勉強会を開いて の薩摩藩西郷派というべき人物集団を形成したこと(精忠組)などが挙げられる。 

城下士のリーダーであったこと、島津斉彬の藩主就任へ熱意を示していたことなどが評価され、島津斉彬の藩主就任と並行し、西郷に薩摩藩江戸屋敷勤務及び庭方役(周旋工作員)就任が申し付けられる。彼の中央政界での経歴はここから始まる。 

 

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:08:32.14 ID:mE23PXsN0
以下、テンプレ 

Q : 西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。 

A : 
西郷のことをよく知る人で、比較的手厳しいことを書いているのは 
重野安繹(しげの・やすつぐ)がいます。 
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。 
後世、「抹殺博士」の異名で有名ですが、西郷のことをよく知る人です。 

『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、 
「西郷南洲逸話」というのがあります。 
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。 
豪傑肌に見えるけど、度量は大きくないと書いています。 

重野も現地妻を娶り、二人の子供がいた。 
放免になって鹿児島にもどった後、 
当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。 

当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で 
迎えに来たためしはなかったので、 
その女は、島の若者と再婚して妊娠中だった。 
重野はしかたなく、持ってきた金を 
全額、女に与えて帰っていったという。 

この重野の誠実さに比べると 
西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。 
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。) 

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:09:09.88 ID:mE23PXsN0
Q : 西郷さんは民百姓のために戦ったんでしょ? 

A : 
確かに西郷どんは薩摩や大日本帝国の将来のために 
粉骨砕身した偶像であり鑑であるかもしれない。 
しかしながら、実は西郷は単に薩摩や士族たちの 
象徴であったにすぎないのではないのか。 
それどころか、彼はだれよりも奄美と縁が深かったのに、 
「敬天愛人」どころか義理も人情もなく奄美を 
踏みにじった薩摩士族の大親分としか映ってこないのだ。 

西郷はかつて大島・徳之島・沖永良部島に流されたが、 
薩摩へあてた手紙では道之島の人々のことを 
「毛唐人」「エビス共」「ハブ性の人」などと書き散らしている。 
そして島妻アイカナとの間にもうけた菊次郎・菊子を 
薩摩で教育する際、奄美出身者ということを他言するなと厳しく禁じた。 
島に残された母アイカナは非業の死をとげる。 
これは西郷という人間像の一コマではあるが、 
実は次に述べる彼の政策論とも表裏一体をなしているとしか思えない。 

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:09:40.34 ID:mE23PXsN0
旧藩時代、薩摩は植民地奄美の黒糖収奪によって 
財政を建て直し明治政権を樹立した。 
奄美の黒糖地獄をだれよりも目のあたりにしてきたのが西郷だが、 
彼は、禄支給廃止にあった士族の生活権にしか思いはなかったらしく、 
桂久武に命じて不法な独占「大島商社」を維新後に設立させたのである。 
これによって薩摩は再び収奪をほしいままにすることができ、 
奄美は旧藩以上の窮状にあえぐことになった。 

そこで明治十年、奄美から「大島商社解散」を要求する 
五十五人の嘆願団が上鹿したが、いきなり全員投獄。 
老人などを除いた三十五人は田原坂から敗戦中の 
西郷軍に強制出陣させられた。 
うち戦死した者六人、残りは官軍に投降。 
許されて島へ帰還する途中、二人を除いて全員遭難し、 
結局生存者はわずかに二十四人であった。 
(前田長英著『黒糖騒動記』参照) 

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 09:27:27.45 ID:9GaeYXy/0
討幕の原資になった奄美の大搾取もメディアでとりあげられることはほとんど無いね。 
田舎の一藩にすぎない薩摩がなぜ最新武装の大軍を京に駐屯できたのか、 
なぜ蒸気艦を幾艘も持てたのか、 
不思議なことだらけなのに、幕末薩摩の飛躍を斉彬や西郷、大久保のマンパワーに帰趨させる上っつらの物語ばかり。 

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 11:15:55.83 ID:K0rAt8K90
>>36 
調所改革はよく知られているよ。 

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 23:54:23.31 ID:jFrXAESRO
>>36 
ふつうに日本史で習うぞ 
中学の歴史資料集にあったくらいだから 
奄美搾取→薩摩雄藩化→倒幕は常識レベル  


20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:10:16.77 ID:mE23PXsN0
Q : 西郷さんが征韓論というのは間違いで、ほんとうは遣韓論なんですよね? 

A : 
鹿児島県が発行している『鹿児島県史西南戦争』第三巻(一九八〇年)のなかに、 
広瀬為興稿「明治十年西南ノ戦役土佐挙兵計画」という文書が載っている。 
これは高知県出身で板垣退助に近かった林有造の主張を記録したものである。 

参議の西郷隆盛、副島種臣、板垣退助に加えて、 
左院副議長伊地知正治が謀議に参加した征韓計画の謀議が載っている。 

西郷は「先ツ兵ヲ北韓ニ上陸セシメ、平壌ヨリ京城ヲ包撃スルノ謀」を主張し、副島は賛成した。 
しかし板垣は「先ツ其君主ヲ檎(とりこ)ニスルヲ主眼トスル」点では賛成しながらも、 
北方からの包囲は難事とし、三分の一の兵を釜山に上陸させて、朝鮮軍の迎撃を待ち、 
残り三分の二の兵力をもって江華湾方面に送って「突如京城ニ肉薄」し、その間に 
釜山の兵力も海路平壌に送って敵の退路を断つという戦略を主張した。 
伊地知正治は少し大規模の兵力派遣を主張したという。 

西郷は板垣、伊地知を信頼して謀議を行なったようである。 
「其進軍ノ戦略ニ就テハ板垣伊地知ノ二氏ニ委スヘシトノ事ニ門下中ノ領袖ニ漏洩シアリト云フ」 
と記されていることも興味深い。 

また当時司法省出仕だった有馬純雄(藤太)の回想『維新史の片鱗』によると、 
有馬は西郷から朝鮮占領後の民政官任命を内示され、 
当該地域の地図を探したという挿話を述べている。 

西郷が征韓論を唱えた史実は、まったく揺るがないのである。 

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:10:47.02 ID:mE23PXsN0
Q : 西南戦争は西郷さんと鹿児島士族にとって、 
  日本のために自ら滅び、武士の世に幕を引くのが目的だったいうのは本当なの? 

A : 
敗色が決定的になると西郷は桐野と口をきかなくなり、 
桐野のほうでも西郷を避けるような気配を示すようになったといわれる。 
むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった。 
この男に乗せられ、賊として最期を迎えるはめになった自分に対する嫌悪が、 
西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える。 

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:11:31.67 ID:mE23PXsN0
Q : 大河ドラマなどで描かれる西郷隆盛は虚像なの? 

A : 
虚像ってことはありませんが、 
大河で西郷が好意的に描かれている 
(逆に言えばネガティブな史実や描写がごっそり抜けている) 
のは鹿児島人が抗議してくるからだそうです。 
どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、 
西郷ネタ、薩摩ネタに対する鹿児島人の抗議が一番多いらしい。 

史実と違う、という抗議ならよいのですが、 
史実通り薩奸的な場面を入れると、「一方的で偏向的で悪意を感じる」という抗議が 
執拗にくるらしいです。 
反対に幕府方からの抗議はあまり無いらしい。 
徳川子孫の方が「我らに後ろめたきことなど何も無し、抗議すること自体がナンセンス」 
と語ったとか。 

かの司馬遼太郎も、鹿児島人の抗議を憂慮して、 
「跳ぶが如く」ではあえて筆を鈍らした、という話しを読んだことがあります。 
「跳ぶが如く」の歯切れの悪い、奥歯にものがはさまったような書き方は 
そんなところに理由があるのかもしれませんね。 


28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 15:39:02.96 ID:alKCaR4J0
>>22 
>どんな大河でもNHKに抗議は来ますが、 
>西郷ネタ、薩摩ネタに対する鹿児島人の抗議が一番多いらしい。 

維新期に鹿児島から上京し新政府入りした薩摩由来の上流家庭は今でも政・官・財に数多くいる。 
鹿児島出身ではない彼らだが、薩摩の血が流れる彼らの由緒や来歴を否定することにつながる言論は抹殺される傾向にあるのだろうな。 


29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 20:02:06.27 ID:IVwLGLD40
鹿児島人でも西郷を冷めた目で見ている人は多いと思うけどな。 
かといって郷土の英雄であることに変わりはないが。 


23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 01:13:19.52 ID:mE23PXsN0
*重野安繹が語った西郷の性格* 

西郷が明治維新において、彼ほど存在価値が際立っていた者はいないのではなかろうか。 
みんなに期待され、いつもその中心に存在していた。 

だが彼はこれらの大事件の渦中にあって、どのような方針に基づき考え、 
将来いかなる見通しを持っているのか理解するのは無理である。 

なぜなら、彼はいつも中心に存在していたが、 
みんな回りの期待はその場、その時により違った。 
いずれもその期待に答えてくれるような西郷であったが、それはすばらしい人間性なるゆえでもない。 

「すばらしい人間性なるゆえでもない」とは、 
じつは「(西郷は、)世の中小人などをば、自分の度量内に入れてやる事は乏しく、敵を作って激しく憎む風があり、 参議連中が姑息じゃとか、富貴を貪って居るとかいって政府の人をば憎む。 
政府の人を憎むところから、征韓論が起って・・・・大臣をはじめ皆富貴に慣れて、 
御一新後僅かばかりの間に我儘をするということが腹に在って、遂に西南の乱となった。 
どうも西郷は一生世の中に敵を持つ性質で、敵が居らぬとさびしいくてたまらいようであった」 

と、彼の性格と新政府を主導する人々の態度への不満を西南戦争の原因だと、 
同郷で同じ年の西郷をよく知る重野安繹のことばがある。 
重野と西郷はペリーが来たころにともに江戸藩邸にあった。 
重野が仔細なことから奄美大島にながされていたところへ、西郷が流された仲である。 

24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 03:51:26.65 ID:Pti2ZvN60
>>20は嘘の部分が多い。 
というか、根拠のないことを貼らないというのは、期待すべきではなかったのかね。 


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 10:28:56.59 ID:AhlygoWii
>>24 
どの部分が嘘なの? 
史実からソースも出てるし、嘘があるとは思えないんだけど 


31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 00:14:01.98 ID:WYHI7KDMO
>>26 
まず、引用が恣意的 
次に、別史料を隠蔽 
信用度は皆無 

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 00:37:49.42 ID:biv2khHt0
>>31 
引用が恣意的と断定するからには、引用先の全文を入手し読んだわけだよな? 
どうなんだ? 
それに、隠蔽したとされる別史料って何よ? 教えてください 



27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/15(日) 12:43:37.26 ID:w4S/nLo30
熊本城下を焼き払ったし武力を背景に偽造通貨と無理矢理交換させたし反乱参加者以外の民間人にとっては極悪人だと思うよ。 
戦後も政府は薩軍作成の偽造通貨と円を交換することはしなかったらしいし。 





34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 01:33:47.09 ID:ohXoNR+R0
伊藤博文直話での伊藤の人物評は 
大久保≧木戸>>>西郷、高杉 

「西郷南洲は天稟の大度で、泰山の群峰を抜く趣があった。 
そうして国を憂うる真情が深かった。徳望はさかんなものであったが 
政治上の見識はというと、ちと人物より劣っていたかもしれぬ。 
自分でも政府に立つことを嫌っていた。~略~ 
とにかく大人物であったが、むしろ創業の豪傑で、守成の人ではないようだった。」 

まあ、大久保と木戸にはくっ付いてた時期があったし 
明治政府を軌道に乗せる苦しみを共有したから 
当然と言えば当然なんだけどね 




38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 17:26:52.24 ID:QraxtHhQO
鹿児島では大久保はびっくりするくらい人気ないよ 

39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/16(月) 18:16:05.73 ID:guWfnaTj0
倒幕後の具体的な国家建設プランを周囲に提示できなかったってのはよく言われるよね 
だからわかりやすい征韓論に飛びついたんだろうけど 



50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 04:35:45.94 ID:i2jltHSC0
新時代を作ったトップだけど、本人は限りなく前時代的な性格 
ラストサムライと言われる由縁 

51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 07:57:02.31 ID:HDFNg69v0
>>49-50 

 倒幕ではトップだったがその後の新時代には適応できなかった落ちこぼれだろ。 

 蘭学をやっていたようには見えんしな。 


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 09:59:25.59 ID:mX5C0O7L0
>>51 
蘭学は所詮、実学。西郷さんは君子の学問をしっかりと修めた偉人。 
君子は器ならず。 

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 17:19:33.42 ID:xNXoL1ip0
西郷が実学を低く見ていたとすれば、君子どころかとんだ小人物だな 

54 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 17:38:19.82 ID:x0PLXOAP0
実学至上ならただの人 
ここまで人を惹き付けることはなかったろう 

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 18:58:32.56 ID:9+NbDbBIi
西郷に惹きつけられる人って、ようは実学が理解できないボンクラだよね 
西郷を信仰してれば、 
無能 → 実学に縛られない君子 
みたいに変換できるんで。 

あ、だけど西郷自身は実学を低く見る人じゃなかったと思う。 


59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/19(木) 22:01:24.15 ID:/dGNOLiC0
実学うんぬん以前に西郷は裃を着けて登城できる身分の侍ではない 
侍(郷士)ではあったけれど最大で4人に1人は士格のあった薩摩藩 
西郷は半農半士のような生活を送っていた。 
農業とはすなわち実学、西郷がそれに無知であったわけがない。 


62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/20(金) 02:00:41.78 ID:JopBxSpd0
そういえば西郷隆盛を主役にした大河ドラマがないのが不思議だな。 
坂本龍馬は早死にした平和主義者のイメージが刷り込まれてるし 
明治の時代設定で維新雄藩の登場する、獅子の時代、跳ぶが如く、篤姫 
ダブル以上の主役だったり、女性を持って来たり 
まあ怨念背負ってるから頭悩ませどころだな 
そのうち伊藤博文を暗殺するところが見せ場の義士が大河の主役張るって噂もあるが 
実現してもおかしくない今の日本だよ 

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/20(金) 04:21:26.18 ID:YZEkTxlQO
翔ぶが如くで十分だろ 
西郷は幕末大河で一番登場作品が多い人物 



75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/20(金) 21:08:04.93 ID:CJyug08N0
てか、西郷の実像ってほんとわからんよ。 
だいたいが司馬小説のイメージをそのまま受け継いでいるだけで。 
だから実像を知りたいんじゃないの。 

桐野にしたって司馬や池波正太郎の手にかかれば散々に書かれてるけど、 
実物がどんな人物だったかなんて殆どわからんからね。 
幕府のスパイを一人暗殺しただけで、人斬り半次郎に仕立て上げちゃうのが小説家。 

67や74は司馬小説をより所にしてる感じがするな。 
もっとも司馬を全否定はしないが、俺は半信半疑のスタンス。 




123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 14:14:54.98 ID:vJ0TtrMu0
そこまでの賛美は不要。 
本人は細心で偏執症であり、豪傑という評価は周囲に向けた演技に近い。 
ただ、小説や演劇主人公のような向こう受けする行動を好み、自らを飾るためには自分の命も厭わなかった。 

そのため、生還してくるたびに西郷吉之助は薩摩城下士の誇りと夢の象徴と化し、 
彼の言動を神の啓示のように感じる集団が形成された。 


城下士の中でも下級であった彼が、何故中央政界に進出出来たのかというと、 
薩摩藩の武士の青年団とされる郷中を掌握していたこと、島津斉彬藩主就任前から強硬な斉彬派であったことの二点が挙げられるが、 
島津斉彬の藩主就任に決定的な意味を持った調所笑左衛門による密貿易疑惑暴露について、 
証拠入手に一定の役割を果たしたという憶測もある。 

もっともこれは憶測の域を抜けるものではなく、斉彬藩主就任から程なく彼は江戸の藩邸勤務となり、 
御庭役(外交折衝実務員)としての経歴が始まった。 

最初の仕事は篤姫の将軍御台所就任であり、 
薩摩藩今和泉家(藩主の親戚というより、藩主の血統を守るために代々藩主の弟を当主として迎えるような種類の家だった)の娘を一旦近衛家の養子とし、近衛家の娘として将軍に嫁がせるという、本人にとっても周囲にとっても難事であった。 

この際西郷は、朝廷の摂家筆頭である近衛家と面識が生じ、また京都で著名人と面会する機会が増えた。 
この時思想的な影響を受けたといわれるのが藤田東湖とされる。彼の国防思想は島津斉彬の海防論とも一致し、海防という見地から、世界と日本、統一されるべき日本という視点を彼に提供したとされる。 

藤田東湖訪問時の西郷の記述 
「彼の宅へ差し越し申し候と清水に浴し候塩梅にて心中一点の雲霞なく唯情浄なる心に相成り帰路を忘れ候次第に御座候」 






127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/28(土) 19:18:16.37 ID:Rz+Ti/fp0
123の評価が実像に近いんじゃないか。 
崇拝する人たち含めて実行力はあっただろう。 
ただ、この一派の実行力の源泉は、自分たちに論理性や構想力が無いゆえに、声がデカければ勝つ、みたいなことだからな。 
西郷ファンとかも同じ。 
論理が無いから、情に訴えるという、一種の粉飾。 
こういう人たちがいてもいっこうに構わないけど、 
賛美するのは滑稽。 



139 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/29(日) 10:17:28.81 ID:v+o+R6pmO
西郷は結局後継者がいなかったけど、 
大久保は伊藤大隈山県など有能な後継者を多く残したね 


 



147 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/29(日) 18:57:50.97 ID:mVvlo3UD0
「西郷、もういい加減にせんか」 by 桂小五郎改め木戸孝允 












転載元
西郷隆盛とは何だったのか
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1333804634/  




 
西郷隆盛 (角川文庫)西郷隆盛 (角川文庫)
池波 正太郎,蓬田 やすひろ

角川書店
売り上げランキング : 13709

Amazonで詳しく見る by AZlink




ランキング参加しています!
ポチッと応援クリックお願いします(-^〇^-)