デカメロン


1 :世界@名無史さん:2011/04/08(金) 09:40:45.25 0
服装とか食事とか文化とか
語れたらいいんじゃないかな




4 :世界@名無史さん:2011/04/08(金) 18:08:39.28 O
西洋人って近代に入るまでは基本的に手掴みで飯食ってたよね




6 :山野野衾 ◆m6VSXsNcBYte :2011/04/10(日) 16:56:38.48 0

>>4
北ドイツの田舎では、1950年代までテーブル中央の大鍋・大皿から杓子
で銘々の皿にとり、手づかみでとって食べる習俗が残っていたそうです。
テーブル中央から、たれた汁が線となるのがお決まりの光景であったとか。

基本的に、オーストリアに近いほど各自の皿に最初から取分けておくことと
フォークの使用率が高かった。
当時の民俗学会で明らかにされた際、まだまだ文化の尊卑に敏感な時代であ
ったので、地元出身の学者は「未開」扱いされて怒ったりもしたそうです。

しかし、ドイツや北欧では主食(という概念が共通するとして)といえばパ
ンよりジャガイモだそうですが、これより前はどうであったのでしょうか。

7 :世界@名無史さん:2011/04/11(月) 22:46:40.18 0
手づかみといえば、かならず、引き合いに出されるのがルイ14世。
他の例を見てみたい。



9 :世界@名無史さん:2011/04/14(木) 19:24:56.77 0
日本なんか、現代でも、お寿司やおにぎりを手づかみで食べる
わけだけど。外国人から見たら、手づかみで食べる習俗が
いつまでも残っていると思われているんだろうね。


10 :世界@名無史さん:2011/04/15(金) 13:34:16.92 0
欧米だってパンやドーナツを手づかみで食べるだろ

11 :世界@名無史さん:2011/04/21(木) 21:50:07.05 0
ヨーロッパの宮廷の貴族は、塩入れなんか拘っていたけど。
東洋はどうなんだろ。



13 :世界@名無史さん:2011/05/05(木) 09:43:34.50 0
日本の場合醤油差しとかありましたがな。



14 :世界@名無史さん:2011/05/17(火) 02:55:21.86 0
庶民の衣生活には興味津々
財産目録ってまじ面白いと思う


15 :世界@名無史さん:2011/05/18(水) 17:39:26.96 0
中世ヨーロッパって文明の後退地域だけど庶民の着ている服
ってなんだったんだろう、麻かしら?



17 :世界@名無史さん:2011/05/23(月) 00:45:12.38 0
>>15
肌着は麻だな。ちょびっと裕福なら、亜麻。
で、毛織物の上着を着る。


18 :世界@名無史さん:2011/05/23(月) 19:15:02.44 0
>>17
回答ありがとう。
麻かー、現代日本だと夏向けの素材という印象だな、後はロープ。




19 :世界@名無史さん:2011/05/25(水) 19:11:22.72 0
中世ヨーロッパの農村の料理には塩って使われてたんだろうか。
砂糖はムリと思うんだが、塩くらいなら買える金額で流通してた?


20 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 00:26:17.75 0
海沿いの国なら海塩で内陸国だと岩塩かな


21 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 05:34:55.00 0
>>20
海沿いでも岩塩じゃない? 海塩ってとんでもなく燃料必要だもの。


22 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 06:50:41.01 0
>>21
んなわきゃない
北ヨーロッパでもノルマンディーからデーンにいたるまでローマ式の塩田で塩を生産していた
ビスケー湾の塩は特に有名で広く普及していたが、微量のゴミにより色が悪く低質とみなされていた

岩塩の乏しい北ドイツなどでは、塩分濃度が海水と同じか薄いくらいの塩泉からも塩を生産していた
煮詰める前に吊り下げたいばらや麦わらの束に塩水をたらすなどして水分を揮発させている

23 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 06:54:29.83 0
ヨーロッパじゃないが、中国では各種岩塩・塩泉・塩湖などがあったにもかかわらず
1935年の時点で塩生産の8割が海塩だったという


24 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 09:24:49.71 0
ほうほう、主として海塩が生産されていたと。
その次段階、沿岸地から都市だけじゃなく農村まで流通してたのかな?
中世西欧で専売制はないと思うが、塩商人の販売網は成立していたか・・・


27 :世界@名無史さん:2011/05/29(日) 06:03:26.28 0
>>24
いやないから海水より薄い塩泉からも塩を作ってたわけで…
もっとも、それ以上に単純に製塩業が儲かる産業だったという理由のほうが大きいようにも思える



25 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 15:21:54.12 0
古代ローマ帝国の時代には兵士への給料として塩を配っていた
というのは高校の時世界史の先生から聞いたな。



26 :世界@名無史さん:2011/05/27(金) 22:23:08.74 0
イタリア・シエナにボンシニョーリ家という銀行屋がおってな。
13世紀初頭、トスカーナ・グロッセート産の塩の専売業から家業が始まっておる。




28 :世界@名無史さん:2011/05/29(日) 16:16:40.30 0
塩そのものが生命に必要ってだけでなく保存料としても
使われていたしな>塩
んで、食料保存のために塩漬け肉や魚の臭い消しと風味づけ
のために香辛料が高値で取引される時代になってってなる。



29 :世界@名無史さん:2011/05/29(日) 16:20:18.80 0
タイムスリップして中世の欧州、東欧世界に行ったとしたら
SBの赤缶カレー粉なんてのは香辛料のミックスだから高値
で買い取ってくれる貿易商人なんているかもしれん。
ダイショーとかSBやハチ食品の味塩コショウの大瓶や袋
なんかも商品価値がありそうだ。


30 :世界@名無史さん:2011/05/29(日) 16:33:07.00 0
>>29
うまくやれば、Youがロスチャイルド家になれるYo!


31 :世界@名無史さん:2011/05/30(月) 00:37:58.75 0
>>28
ニシンの塩漬けってのは、重要な食料だったみたいだね。
北海沿岸の国々にとって、食えない時代の貴重なタンパク源だったとか。
そういう意味では、塩が大事なのは調味料というより保存料としてだな。


34 :世界@名無史さん:2011/06/12(日) 16:54:03.78 0
>>31
そういう意味も何も、古代から塩は保存の為に使われていた。
食料だけでなく、遺体などにもね。
塩漬けの食料に飽きたので、多少腐ってても誤魔化せる香辛料を求める旅が始まったし、
またフランス宮廷料理でも今日見られるような腐敗を誤魔化せる多様なソースが発達した。


32 :世界@名無史さん:2011/05/31(火) 06:50:34.10 0
塩漬けニシンの主産地であったスカンジナビアではほとんど製塩がされてなかったようだ
良い鉱床がなく、海水から作るには高すぎる緯度が障害にもなったなどの理由もあるだろうが
それ以前にそのニシンを買い付けに来るハンザ商人が質の良く安い塩を供給してくれたのだから
製塩の必要がなかったのだろう


33 :世界@名無史さん:2011/06/01(水) 15:01:17.33 0
>>32
ニシンを売って出る利益が塩の価格を軽く上回るから
出来ていたんだろうな。




35 :世界@名無史さん:2011/06/20(月) 15:09:10.57 0
「中世」も「ヨーロッパ」も色々だからねぇ・・・

36 :世界@名無史さん:2011/06/20(月) 17:39:50.58 0
そいつをいっちゃあおしめえよ




43 :世界@名無史さん:2011/06/21(火) 16:49:25.42 I
「中世ヨーロッパの農村の暮らし」買った。
1300年くらいの英の農村ッでの話が中心
牛乳は1ガロンにつき2分の1ペニーだったそうな。
牛一頭からは年に120~150ガロン搾り取れたらしく
農民にとってはバカにならない資金源だった。


中世ヨーロッパの農村の生活 (講談社学術文庫)


45 :世界@名無史さん:2011/06/21(火) 19:59:09.42 0
>>43
はて、その時代では流通網と鮮度の問題で牛乳そのものを売ったり都市民が飲んだりするのは難しかったと聞いたが…
(確か16世紀ごろから都市でも牛乳が飲めるようになった)
都市近郊の話か、それとも修道院などの加工元へ売り払ったりしたのかな?



46 :世界@名無史さん:2011/06/21(火) 20:10:37.83 0
チーズにするんじゃないの?

47 :世界@名無史さん:2011/06/21(火) 20:14:16.49 0
決してケチをつけるわけではないから誤解なきよう
一種類の本だけでそれが正しいと思わない方がよろしい
偏向した知識が必要となる専門書・専門分野は特に

一応、北欧やノルマンディーではラードよりバターが好まれるようになり
食習慣の変化で14,5世紀から牛の飼育が拡大した。
豚の飼育に必要な森が少しずつ減少したのも理由の一つだろうね。
イギリスではどうだったろう?
この頃は、ブリテンの島だけで言えばスコットランドとイギリスの二つで長期安定していた時期だね。

>>45の言うように、原料としての牛乳を卸してたのかな?


48 :世界@名無史さん:2011/06/21(火) 20:21:20.14 0
>>46
牛からで英と言えばチェダーや青カビになると思うけれど
それはもっと後、17,8世紀じゃなかったかな?記憶あいまいだが。

この頃の基本チーズは山羊・羊やヤクだと思うよ。
中国チベットインドモンゴルの方が盛んだった、ろうね。たぶん。


49 :世界@名無史さん:2011/06/22(水) 07:05:15.20 0
昨日テレビ見ていて知ったのだけれどモッツアレラチーズって水牛の
乳から作ったものが正式なモッツアレラチーズだと言っていたな。
ただ、モッツアレラチーズも18世紀ごろからの物らしいんで、中世には
無いよね・・・。

英国だとチェダーチーズは12世紀ごろにはあったから生乳としてより
加工品として扱われていたんじゃないの。
後はバターとしての使い方が多かった気もする。
元々バターは貧乏人の食べ物と扱われていた時代もあったようだし。
バターは塩さえあれば作れるしね・・・・。


>>48
ロマーノチーズはローマ時代からあってそれも山羊の乳を材料にしていた
はずだから「チベットインドモンゴルの方が盛ん」というのは必ずしも
正しいとは言い切れない気がするよ。
ペコリーノ・ロマーノなんかは塩味が効いているので保存性には優れている
し元々ローマ帝国時代に広まった物でもあるから英国にも伝わっていそうなんだが
英国は辺境の1つだったしなぁ。


50 :世界@名無史さん:2011/06/22(水) 07:27:48.19 0
発生と普及はまた別だしな。

ローマを伝いガリアでは(ということは一世紀とかくらい)農耕が強化されつつある頃、
未開のゲルマン民族はまだ「集落」の概念も乏しかった、とされる。
一説では、ゲルマン人の消費カロリーの三分の二近くをチーズやバターの畜産品や肉で消費していた。

そしてフランク人がガリアに定着し始めた五世紀末~十世紀にかけて
畜産と農業が混じり合い、
中世ヨーロッパ(どこからどこまで指すんだかわからんが)の農業スタイルが確立した。

メロヴィング期(5末‐8半)のフランドルのブルビエールの発掘では
豚が39%、牛22、羊17、山羊4、馬6という割合で動物の骨が出土したらしい。
ほぼ全てが「家畜」ってとこがポイントなのかな。
豚を潰すのは一般的(それでも1家族が年に一頭とか)だが、牛の使い所について細かい史料が少ない。
ついでにイギリス自体の史料も、7王国(八世紀半ばくらいまで)以前のものは少な目。

なんにせよ、農民庶民の暮らしの史料ってのは、上流階級に比べて
圧倒的に少ないから、色んな所から掻き集めて統合して考えるしか無いんだよねぇ。


59 :世界@名無史さん:2011/06/23(木) 20:48:40.96 0
>>45 
牛乳入れた革袋をロバの背に吊るして村から都市へ 
すると、あら不思議 
牛乳だったものがバターに大変身ッ 




ロバが歩くたびに革袋に入った牛乳が揺さぶられ、脂肪と水分が分離 
浮き上がった脂肪をすくいあげたのがバターなんだよね 
それが暑い日だったら発酵してチーズになる
 




62 :世界@名無史さん:2011/06/26(日) 17:12:14.99 0
>>59
全然違う 
バターは乳を攪拌して脂肪分を固めたものだがチーズは酸や胃の酵素で固めたもの 
作る際に乳を発酵させたら発酵バターになるだけだ 




それで、確認しておきたいんだが>>43の本にも、そのような方法でバターに加工して 
売り払った結果の額として書かれていたということか? 
輸送の際に水分はかさばるしバターミルクは無駄になる、ずいぶんと不自然なやり方に思えるが…


51 :世界@名無史さん:2011/06/22(水) 07:59:25.41 0
ふと今思ったが、ケルトは口伝を好んだってことも史料が少ない要因なのかもね。
特にブリテン島のケルトは、所謂特殊ケルトだから。

神話の方から民衆の考え方や文化を探っていくやり方が
他の地域や年代よりも有効かもしれない。






53 :世界@名無史さん:2011/06/22(水) 19:54:07.73 0
推敲してない。文章下手。意訳超訳推奨よろしく。

>>43からの流れでイギリスの金銭価値。
近世メインの本だが、イギリス文化史入門から。

16世紀に都市の参政権を得る条件が年40シリング以上の税金。
事実上ジェントリが唯一の為政者階級、と言われるお値段。

1719年国王令状による陸軍将校任命書では
騎兵連隊の大佐で9kポンド、中尉でも1,2k。
歩兵隊大佐で6k、中尉で300ポンド。
買官制という、要は将校の地位は原則的に金で買う時代、のお値段。

1832年に製陶工が朝5,6時~夜6,7,8時まで働いて、週1シリング。
工業化初期の劣悪な環境でのお給料。















70 :世界@名無史さん:2011/06/27(月) 12:13:24.63 0
庶民の性生活が知りたいです




72 :世界@名無史さん:2011/06/29(水) 19:40:29.20 0
>>70
実は近親相姦が多かったとか


73 :世界@名無史さん:2011/06/30(木) 11:18:11.05 0
>>70
ベッドは「裸で雑魚寝」が多かったので間違いも多かったし
また、「秘密の営み」が難しかったので、夫婦はアオカンが普通だったとか
特に麦畑は格好のまぐわい場所だったそうな
それを念頭に置いて「麦畑」の「誰かさんと誰かさんが麦畑♪」の歌詞を見ると、また違った印象が

74 :世界@名無史さん:2011/06/30(木) 11:47:20.26 0
>>70
デカメロン読め


デカメロン(上) (講談社文芸文庫)






80 :世界@名無史さん:2011/07/01(金) 20:45:53.92 0
 中世ヨーロッパの下層民(農奴、小作農や徒弟)が出家して僧侶になる事って出来たんでしょうか?
 出来るとしたらどんな待遇だったんでしょうか?

 あと彼等のドクオ(相手が居なかったり経済的な理由で結婚出来ず子孫を残せない人間)
の割合はどのくらいだったんでしょうか?

 詳しい人教えてください。


81 :世界@名無史さん:2011/07/02(土) 11:37:57.43 0
出家って修道士になることって理解でいいのかな?
当然、熊谷直実や武田信玄みたいに剃髪することじゃないよね?

カタリ派とかワルド派って司祭を送り込んで布教してたし、自由説教だったよね
実際に修道士になるためにはどうしてたんだろ?
修道士って比叡山なんかみたいに一般に学があるような気もする

俺も知りたいので詳しい人に聞きたい


82 :世界@名無史さん:2011/07/02(土) 18:56:39.82 0
多分一生召使レベルの僧侶
四つん這いになれば役職をいただけるかもw






83 :世界@名無史さん:2011/07/03(日) 15:21:09.03 0
 ヨーロッパの都市って糞だらけだったってよく聞くけど
江戸時代の農民みたく肥料にしたりはしなかったの?

 

84 :世界@名無史さん:2011/07/03(日) 20:28:58.82 P
>>83
下肥はほどよく醗酵させないと植物が負けるので、
気温の低い欧州では普及しなかったのでは。


85 :世界@名無史さん:2011/07/03(日) 22:08:21.87 0
畑は水田ほどに肥料を必要としないでしょ確か

86 :世界@名無史さん:2011/07/04(月) 20:00:52.76 0
 水田は窒素やリンが水に溶けて流れてしまい土地が痩せやすいという欠点が
ある。その代り連作障害や塩害が無いって言う利点もある。ヨーロッパでも南欧
のスペインやイタリアでは米作が行われてたんだから下肥農法でイタリアやスペイン
の人口が史実より増加してたら世界史ももう少し変わってたかもしれんとは思う。






90 :世界@名無史さん:2011/07/05(火) 14:37:25.89 0
ゲルマン民族の大移動が、現代経済の概念を造ったって
話を聞いてけど、だれか詳しく解説してください


91 :世界@名無史さん:2011/07/05(火) 15:00:47.98 0
それはよくわからん
貨幣なんて紀元前7~5世紀のリディア王国の時代から存在してる
つーことは貨幣経済はその時から存在していたし、
貨幣なくても、物々交換や金とか塩とか貝の交換で経済成り立っていただろう


93 :世界@名無史さん:2011/07/05(火) 15:10:17.61 0
なんでも、民族が移動をして交易が云々って


96 :世界@名無史さん:2011/07/05(火) 16:03:54.12 0
>>93
異民族間の交易なら別に民族移動が伴わなくても出来てた
ゲルマン人がローマに持ち込んだ最大の特産品は傭兵だし





100 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 00:01:46.64 0
大事なのは同時期の日本はどうだったのかということ。欧州の白人より蛮族だったのかどうか
江戸時代なら日本のが町並みも綺麗で清潔で茶屋なども整備されてるしマシな気がするけど




101 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 00:07:35.15 0
>>100
>江戸時代なら日本のが町並みも綺麗で清潔で茶屋なども整備されてるしマシな気がするけど

さすがにそれは夢見すぎ
今でいう江戸時代のイメージは経済やインフラが発達した18世紀元禄期以降のこと
17世紀の初頭ならまだ戦国の名残が残ってた時代


102 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 00:25:24.84 0
でも西洋に夢見るのも如何と思うぞ

排泄物は下水に垂れ流しだし、誰でも知ってるようにニ階から目薬ならぬ、二階からウンコじゃん
ベルサイユ宮殿なんてウンコだらけの街から逃げるための宮殿だし
ぶっちゃけベルサイユ宮殿意外にトイレはなかったよ(それでもおまるは持参してたけど)

一方日本は昔から雪隠、厠があった


119 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 23:35:46.41 0
>>102
日本も大雨のたびにトイレの肥溜めから流れだした汚物が道路や街中に流れだしていたのだが。
雨があがるとまずは井戸の浄化だった。


103 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 00:50:25.30 O
しかし石造りというだけ外見は清潔に感じたりする
逆に木造の藁葺き屋根というだけで不潔に感じたりする




105 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 06:17:38.47 0
>>102
それはベルサイユの場合
ロンドンタワーや他の中世の城をみればわかるが、ちゃんとトイレが設置されてた



107 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 11:28:18.51 0
ちなみに、都市や城でも風呂はあったし
農民も水浴びや体を拭く文化はちゃんとあったからな・・・
城も石造りのものばかりじゃない。
石造りということは、かなりの金持ちだったと考えて良い。



近年のサブカル常識は間違い多いままだから
鵜呑みにしちゃ駄目だぞ。



109 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 13:00:47.02 0
まぁあくまでも割合の話で、全部が全部こうだった、って話じゃないしな。

でも、建築・宗教・農業・気候・商業・食事・道路・地形、その他もろもろ
こういうものも合わせてお勉強しないと。
ひとつの事例だけ見てそれを暗記するだけじゃ意味ないし、
お脳が間違った知識箱になっちゃうからね。


110 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 13:17:14.83 0
欧州人が風呂あまり入らんのは乾燥してるという気候も理由だからな
日本と状況が違う


111 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 20:19:42.37 0
 その排泄設備ってのが壁の穴から外のどぶ川へってヤツだったんじゃなかったっけ。

 気候に関しては不衛生になりがちだったからこそ日本では衛生への関心が高まって、
逆にそうではない欧州はおざなりだったから結果的に不衛生になるってのはおもしろい。

 欧州は人権や経済の格差が酷かったって事も理由、貴族達はそれなりに綺麗にしてても
都市部はその他の人口が多すぎたし市民、貧民のためのインフラ整備が不充分だった。
 欧州を見下すわけではないがその点で
江戸の町人まで対象にした上水道と人肥回収システムは先進的と言えると思う。


112 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:28:55.54 0
でも、日本は江戸時代中期以降になっても度々コレラや赤痢が
流行してるし衛生意識が高いといってもなぁ


115 :世界@名無史さん:2011/07/08(金) 21:58:46.61 0
 免疫のない渡来の伝染病は爆発的に流行するからな。
 それで壊滅する民族も居たんだしまだマシな方じゃないか。




121 :世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:23:50.98 0
少し時代は下るが、オーストリアなんかでは馬車をメインに使っていた関係で街中馬糞まみれで
自動車が登場したときは、街を汚さないクリーンな発明、として歓迎されたとか

また、都市計画という面ではパリ大改造のナポレオン3世も見逃せない
逆に言えばそれ以前のパリは、湿気やら日照やら衛生面で劣悪な街区が存在した訳で
衛生とか景観などの問題に上がってくるのは、19世紀後半なんだなあ



123 :世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:37:05.71 0
>>121
オランダの地方都市だと、景観は今と17世紀の黄金時代とでそんな変わってないね。
絵画が多いからわりと比較しやすい。下水はなかろうから衛生面は不十分だったろうけど。



122 :世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:35:09.74 0
大砲の威力や距離が飛躍的に伸びて都市の城壁が不要(維持するだけ無駄)になっていった時代にようやく広々とした道路や衛生面のインフラに使えるスペースが出てきたという感があるな。
古代ローマ時代でも貧民街どころか中産層の住宅でさえ窮屈で不衛生な状態に耐えるしかなかった。



124 :世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:50:15.64 0
>122

 城壁が自由市民と農民を別ける物理的にも観念的にも壁だったらしい、
城壁内の住民は町を作った子孫って事で市民の権利を代々継いでたんだそうだ。
 そこら辺はローマ時代からの都市国家の部分を継いできてたから市民とそれ以外の権利格差が大きかったとも聞く。
 そう考えると火器が欧州にもたらされたのは近世への歴史の突破点だな。



140 :世界@名無史さん:2011/07/13(水) 18:50:00.29 0
農民の待遇が変わったのは火器というよりもペストの影響だろう

141 :世界@名無史さん:2011/07/13(水) 19:07:21.49 0
地域限定せず総体で言えば、
農民の待遇が変わったわけじゃなく、農民自体が変わったからだと思うけど。
あと、富農が出てくる頃には免役や軍隊宿泊の免除も多かったわけだし、
銃と直接の関係は薄目だと思うんだけどな。


1
144 :世界@名無史さん:2011/07/14(木) 19:08:03.98 0
 正直、中世及びフランス革命以前のヨーロッパにおける軍隊の主力は傭兵
だろ。


145 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:07:30.37 0
映画で中世の農村が野盗に襲われて女性や食料奪われても村民はみんな泣き寝入りってシーンが東西問わずよくあるけど
日本見ても農民は戦に駆り出されたりしてたから半農半兵で戦う力はあるはずなんだよね
盗賊に奪われても楽々冬越せますってほど食糧事情よくもなかっただろうから農民も必死だっただろうし

ここら辺実際どうなんだろ
野盗が村を襲うことはよくあることだったのか
中世の農民は戦う力があったのか
戦う力があったのなら野盗のねぐら襲えば食料も金もガッポリだったと思うんだが

146 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 09:29:44.54 0
盗賊騎士と言われる輩が居て、重武装の、時に領地も持つ騎士が盗賊行為を働いていた。
やり過ぎて討伐される場合もあるが、そういう場合でも周囲の何人もの領主が同盟を組んで攻め込む位。
一方洋ゲーのRPGで出てくるハイウェイマンとかその類の逃亡農民なんかが徒党を組んで盗賊をやる場合は、
装備も練度も低いのでゲリラ戦。例を挙げればロビンフッド。
そして傭兵。最初の盗賊騎士と重なるが、領地経営とすっぱり切れているのが傭兵だ。
一例として鉄腕ゲッツという奴を調べてみると面白いが、こういうのは結構強いのでやりたい放題。
変形でイスラム海賊もある。地中海のヨーロッパ側の村を襲って略奪して引き上げる。

(1/2)

147 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 09:30:05.99 0
傭兵の場合は単純に領主や村の農民などより数が多い。
100人の村に500人の盗賊が襲いかかれば抵抗もできない。
100人が一冬過ごす積もりだった食料を食い尽くして次の村を襲う。
その傭兵どもは元々その国の王が雇っていたのを解雇したものだから王も手が出しにくい。
食い尽くして移動するイナゴみたいなものだから、拠点があるわけでもない。
金を払って自分の領地から出て行ってもらうなんて対応をする事もあった。

百年戦争から20年程の頃、領主が領民を守れない事から反乱が起きた。ジャックリーの乱だ。
そしてジャックリーの乱の8年後、フランス軍の総大将であるデュ・ゲクランは邪魔になった傭兵隊を国外に追い出すために
カスティリアに遠征し、現地で傭兵を解散するというはた迷惑な事をやっている。
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148 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 10:41:41.84 0
>>145
ディスカバリーだかヒストリーチャンネルだか忘れたけど、傭兵が村を襲ったとき
村人が武装して抵抗したけどまったく相手にならず、一方的に殺されて略奪された
って話があった
村人が持ってた武具は先祖伝来の旧式なのと、戦いの経験が少なく真っ先に膝が斬
られて身動きとれなくなるところ止めを刺されたらしい

日本の農民はバイトで落ち武者狩りやってたから即戦力になれたけど、そうでないと
やはり難しいだろう


149 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 10:53:44.55 0
>>147
500人の傭兵団ってのは、一般論としてはちと数が多すぎなんでないかい?
百年戦争の頃にそれだけの兵団もってたら、隊長は軍内で相当いいポジはれるぞ。
で、100人未満の傭兵団が大勢を占めたと思うが、それでも農民が武力対抗するとしたら、
住民の4人に一人が壮健男子として、最低限400人程度の人口が必要だったことになるね。
当時の村としてはそこそこ大きいほうになりそうだ。大多数の村落にとっては難しかったろう。



151 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 14:21:55.56 0
>>149
確かに一傭兵団の規模としては500人は多いが、複数の傭兵団を組み込んだ大部隊が纏めて解雇される事になる。
解雇された傭兵も、あまり小規模では地元の正規軍にやられるし、うまみの多い場所は襲えない。
その結果略奪に走るのはかなりの大集団になる。
例えば、1360年のブレティニーの和約の結果あぶれてアルザス地方を荒らしまわったイギリス人傭兵は、
その規模は資料によっても色々だが「12000の騎士を含む無数の兵」「婦女子を除いても2万人の大所帯」等と記されている。
その人数で都市さえも襲ったし、そこから分遣隊として農村も襲うわけだから、
別に100人でも500人でも、必要な数で襲えたので、例としての数字は何人でも良いと思う。
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152 :世界@名無史さん:2011/07/15(金) 14:23:26.40 0
盗賊団=複数の傭兵団の寄り合い所帯、なので、抜け駆けとかもあるし、抜け駆けの小集団も自分達だけで失敗したら
大人数で再襲撃するというような状態になる。
そうすると農村側もこいつらさえ追い返せば安全だと思えない。
そういう理由もあって農村側も命がけで守ろうと言う気持ちになれない。
そりゃあ「勝手に戦争して終わったらこんなのそのまま放置かよ!」と反乱を起こすのも当然だろうなと思う。
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158 :148:2011/07/15(金) 20:24:35.97 0
>>157
>>>148さんの練度の差で戦いにならなかったのか、臆病で戦おうとしなかったのか
錬度の差かな
発掘された遺体では100体以上は古い鎧をつけてたけど、一体だけ新しいものつけてたから
旧式鎧=村人、新しい鎧=傭兵と推測したとか
で、古い鎧つけてた村民の大半は大腿骨に武器に斬りつけられて骨折した痕跡がある
調査した学者によると、村人は戦いに慣れてないから、傭兵が剣を振り上げると
反射的に盾を持ち上げて上半身を守ろうとするが、逆に下半身がむき出しになるから
傭兵に足を狙われてやられたのではと



166 :世界@名無史さん:2011/07/17(日) 01:02:17.38 0
南ドイツのシュトラスブルクに生れた貧しい農民ヤーコプ・ロートの例
傭兵になり、解雇されてから
1522年春 南独 ネルトリンゲン
 市場で財布を盗む。中には3バッツェン(24000円)が入っていた
 商人の鞄をひったくる。中には3グルデン9バッツェン(43万2000円)が入っていた
 鞄は3バッツェンで売る。
 雑貨屋の香辛料を盗み、2グルデン(24万円)で売る
 馬1頭を盗み、3グルデン(36万円)で売る。


167 :世界@名無史さん:2011/07/17(日) 01:02:46.36 0
1522年8月 南独 イスニ
 仲間3人と肉屋を殺し3グルデンを奪う
1522年8月 オーストリー 北東地方
 20人の強盗団に入り、トレントの商人を襲い、500グルデン(6000万円)を得る
 但し、新米のため、分け前は5バッツェン(4万円)。
1524年9月 南独 ネッセンバンク
 森の中で女性を殺し7グルデン(84万円)奪う

168 :世界@名無史さん:2011/07/17(日) 01:02:57.59 0
1525年2月 パヴィア
 再び傭兵となり、武器庫の槍4本と短剣2本を盗み1.5グルデン(18万円)で売る
1526年8月 ラーフェンスブルクにて死刑


172 :世界@名無史さん:2011/07/17(日) 14:05:57.31 0
>>166-168
リスクとリターンを考えたら、香辛料窃盗で2グルデンの1択だな。
ネッセンバンクの女性は、どうして森の中で7グルデンも携えていたのだろう?


転載元
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1302223245/l50




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