1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 13:12:09 ID:0vq06EOI0
その正体についていろいろと不明な点も多い倭寇について語りましょう。


倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)とも呼ばれる。

倭寇・海羅鬼

中国の明や韓国の高麗・朝鮮王朝、また日本の室町幕府に対し、倭寇は結果として重要な政治的外交的な影響力を与えた。明は足利幕府に対し倭寇討伐を要請する見返りとして勘合貿易に便宜を与えざるを得ず、また高麗王朝は倭寇討伐で名声を得た李成桂によって滅ぼされ、李成桂によって建国された朝鮮王朝は文禄の役の頃まで倭寇対策(懐柔と鎮圧)に追われた。朝鮮王朝による対馬侵攻(応永の外寇)も、倭寇根拠地の征伐が大義名分とされていた。

ウィキペディア 倭寇








3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 23:44:31 ID:B+R3jKUe0
前期に高麗を荒らし回っていた連中と、
後期に明の沿岸で活動していた連中は、
成分がかなり違っているだろう。



4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/27(水) 23:58:47 ID:LfDeucm30
王直の直は正直の直

王直(おうちょく、生年不詳 - 嘉靖38年(1559年)12月25日)は中国、明代の貿易商人(海商)で、後期倭寇の頭目。五峰、老船主と称した。汪直(汪五峰)。「直」と言う名は本名ではなく、海で生きる人々が彼が正直だというイメージから(「直=正直、まっとう」)付けた異名ではないか、という説もある

ウィキペディア 王直



5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 11:40:44 ID:KSFIgU820
明朝、特に嘉靖年間の倭寇はかなり有名だけど、
もっと前の前期、元朝の頃の倭寇ってのは実際どんな感じだったんだろう?

6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 18:40:43 ID:5Ltc1Xuy0
元朝の頃と言うと南北朝時代か。
多分、九州の悪党と商人が結託してただろう。

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/28(木) 23:55:52 ID:yUsqo25Z0
朝鮮半島の方へは、どうも西国大名がちょっと関与して、
兵を出してたっぽいしね。

いろんな連中がごっちゃになっていたと思うよ、倭寇って。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/29(金) 11:22:10 ID:P3VNapWT0
高麗内部の勢力が引き入れたんだと思うよ。
元朝末期頃の高麗ってぐだぐだだったみたいだし。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/07(土) 23:24:02 ID:WbfxHZ9m0
西日本の大名の中には、倭寇の元締め的な立場にあった者もいたかもね

10 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/08(日) 23:35:23 ID:WhgwOPvY0
大内、少弐、宗、松浦、島津



12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/15(日) 23:32:56 ID:HMpGfbo00
↓明側からしたら、倭寇の巨大バージョンって感じだったのかな

文禄・慶長の役


13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/16(月) 01:54:47 ID:DEr/WGH70
秀吉自体が大倭寇になった感じじゃない?

14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/14(火) 12:52:01 ID:baelLwuu0
豊臣秀吉は実は中国人だという伝説が明にあったよね。

15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 00:51:33 ID:GtRVHSHrO
ネラーが、何でもひっくるめて在日判定してるみたいに
何でもかんでも和冦って判定してたんだろな。


16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/15(水) 10:49:30 ID:3p1HrUPL0
倭寇をやる側だって、「アイアムザパニーズ」ってやっていたんだろう。
凶暴な倭人と名乗れば、それなりに威嚇効果もあっただろうし


17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/17(金) 01:38:38 ID:e0/CaQ/p0
実際、ちょんまげを真似ていたそうだからね。
明の官の側だって、日本人ということにしておけば、
いろいろと処理しやすかっただろうし。


18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 23:58:43 ID:ZKzpjcnG0
少林寺の坊さんが倭寇退治をしたって伝説があるよね。

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/19(日) 10:24:59 ID:5YZjLQHH0
8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2006/10/24(火) 09:52:12 ID:x/hU9IuZ0

少林寺守護神・緊那羅王
 『少林寺志』によると、緊那羅は元末明初の少林寺に実在した僧で、俗名を許那羅という。
 普段は寺の炊事僧として働いており、誰の話題に上る事もないような目立たぬ存在だった。しかし元朝末期に起こった農民蜂起軍である紅巾軍が、大挙して少林寺に攻め入り寺の財物を略奪しようとした時に、寺の衆僧で誰も敵う者がいないのを聞くと棍を手にして飛び出し、見事これを撃退した。
 後世、観音菩薩の化身・緊那羅王として神化され、現在でも当地の武術家によって「少林武術の守護神」もしくは「山門顕武第一人」として奉られている。

月空和尚、倭寇を撃退す
 西暦1551年(明嘉靖30年)、月空和尚を首領とする少林僧兵100余人は、中国南方沿岸部に出没しては猛威を振るっていた倭寇を撃退するために出撃し、数度の戦闘で倭寇に壊滅的な打撃を与えた。しかし度重なる激戦で、月空をはじめとする僧兵らも最後には全員戦死、寺に帰ることはなかった。少林寺の西にある搭林(歴代高僧の墓碑)には、月空和尚のための搭が今でも残っている。






11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/09(月) 07:42:50 ID:9Euc/kpT0
嘉靖年間の倭寇騒動に、日本人は何人参加していたか?

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/21(火) 15:31:47 ID:4E5/jtYq0
嘉靖年間の倭寇騒動って、住民が城の外へ避難して、空き城を倭寇が荒らし回ったって感じだったのかな?



22 :名無的発言者:2007/08/27(月) 20:42:53 ID:NlSZcsmL0

16世紀の倭寇の大部分は中国人だった。ではなぜそうなったのかと言うと
当時の中国を支配していた明王朝が【海禁】つまり海外貿易禁止令を出した

からだ。これにより貿易業者は自動的に犯罪者にされてしまった。これは福
建省や広東省のような農業生産額が低く貿易しなければ食べていけない省に

とっては死活問題だった。彼らはやむなく官憲の目を逃れて密貿易をするか
武装して官憲に抵抗した。これが後期倭寇の正体である。ちなみに中国の歴

史家の中には『倭寇は全て日本人だ。中国人はいない』と主張するものもい
るが彼らの中で【海禁】のあと中国の貿易業者がどうしたのか説明出来るも

のはいない。


23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/27(月) 22:29:02 ID:m6oL+4+k0
沿岸部の官憲は結構倭寇とも馴れ合っていたと思うな。





24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/28(火) 10:58:39 ID:8T3PfqpW0

“海禁”与“倭寇”(1)
http://book.sina.com.cn/nzt/his/guoshishiliujiang/39.shtml

“海禁”与“倭寇”(2)
http://book.sina.com.cn/nzt/his/guoshishiliujiang/40.shtml


25 :名無的発言者:2007/08/30(木) 19:33:39 ID:YmOEU8dX0
>>24

・・・・全部中国語・・・・要点だけでも和訳してくんない


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 21:23:13 ID:3SaLxjLP0

(1)
経済のグローバル化とともに、海禁政策は時代に合わなくなってきた。
もともと朝貢貿易やってたんだけど、寧波事件で日本との貿易が制限された。
日本との貿易は儲かるので、沿海の人は勝手に商売をはじめた。
官が取り締まろうとすると、武装して対抗した。で、倭患と呼ばれた。

(2)
そもそも倭寇というのは、辞書では日本の海賊って書かれてるけど、日本人は少なかった。
ほとんど中国の商人とかだった。じゃあなんで倭寇と言われてるかというと、
確かに少数ながら日本人がいたし、倭寇側も嘘の情報流して取締りを混乱させようとしていたし、
取り締まる側でも日本人だとしたほうが功績になるから、そう報告していた。
王直は海禁解除を要求してたんだけど、首斬られちった。王直死後、倭寇はますますひどくなった。
それから、倭寇はみんな中国沿海の人だとか、海禁の弊害とかが言われるようになった。
政策が転換されてから、倭寇はいなくなり、海上貿易は新たな段階に入った。




よくわからん。あとは中国語わかる人よろしく。

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/30(木) 23:30:51 ID:QAxxoqJG0
そもそも東シナ海の海上を生活の場として、
日本と中国沿岸、東南アジアなんかを往来していた人たちの中には、
日本人とも中国人とも呼べないような人たちだっていただろうしなあ。


28 :名無的発言者:2007/09/01(土) 22:11:20 ID:22yOEMiG0
>>26
ありがとうございます。反日でもなければ親日でもない客観的な記述だと言うことは分かりました。

>>27

そうですね。むかしは国籍なんてなかったしそもそも一般庶民は自分の国の名前も
民族の名前も知りませんでした。18世紀、日本からシベリアに漂流した日本人が

『お前はどこの国から来た』と聞かれ『オレは江戸から来た』と答えたそうです。
彼は自分の住んでいる国が日本と言う名前なのを知らなかったんですね。


29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 22:46:43 ID:nRxV66/60
九州あたりの倭寇活動に参加している人たちにとっては、
上方の京都人なんかよりは、江南沿岸の中国人の方が親近感があったかも知れないね。


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/01(土) 22:47:37 ID:nRxV66/60
つまりは無国籍地帯だったとも言えるわけか。

31 :名無的発言者:2007/09/02(日) 11:24:58 ID:q2JtQBQg0

それから当時は海賊と商船と軍船のあいだに区別はほとんど無かった。
海上には警察も裁判所もないから海は無法地帯でありそこに出る船は自衛のため

武装していた。そうした武装商船は商売が上手くいかなければ即海賊になった。
そして領主の要請があればいくさにも出た。この点当時の武士と似ていた。

当時の武士は平和な時は農場経営をし、いくさの時は戦い、さらにいくさでは
略奪暴行は当たり前だった。そしてこの略奪品が大事な収入源だった。当時の

屏風絵には逃亡する敵方の女性を捕らえる為わざわざ川べりに小船を待機させ
ておく大名が描かれている。


32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 15:59:07 ID:ToOeICBS0
日本国内の海賊、例えば村上水軍ような連中だって、
通行料を払った船には、航路の案内や護衛をつけるようなサービスをしたけど、
通行料を払わない船は、容赦なく襲っていたようだしね。



村上水軍(むらかみすいぐん)は、日本中世の瀬戸内海で活動した水軍(海賊衆)である。
南北朝時代には、因島、弓削島などを中心に瀬戸内海の制海権を握っており、海上に関を設定して通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていた。

ウィキペディア 村上水軍




33 :名無的発言者:2007/09/03(月) 21:08:19 ID:ol84ofhR0
イギリスの海軍も元をたどれば海賊だそうだ。

関連記事
【自由か】世界史に残るカリブの海賊【死か】


34 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/03(月) 21:47:53 ID:Pwy1vvHN0
日本には琵琶湖に湖賊なんてのもいたけど、中国の長江とか太湖あたりで活動していた連中は、どれぐらいの勢力があったんだろうか?

35 :名無的発言者:2007/09/04(火) 20:23:51 ID:D2ABrZhA0

正確な規模は解からないがかなり大きかったようだ。分かっているのは彼らは必ずしも民衆から嫌われていなかったと言うことだ。なぜ民衆から嫌われないのかと言うと中国の税制を見ていかなければならない。そもそも中国と言うのは基本的に大陸国家であり広大な領土の割には海岸線が少ない。よって塩が取れるところは限られてくる。この限られた製塩地を押さえ塩を官営にし高値で売れば莫大な利益が上がる。そして人間は塩が無ければ生きていけないからどんな高値でも買う。それでも原価の2,3倍程度なら民衆も我慢して買うだろう。しかし役人腐敗では世界的に有名な中国官僚の経営、値段は5倍10倍にも跳ね上がりさらに塩に砂や泥を混ぜて水増しするのも日常茶判事そこで官に抵抗する湖賊、官の呼称では塩賊が登場する。彼らは官の半額程度の値段で良質な塩を売った。

官の半額でも原価の4,5倍だから利益は莫大だ。こうして湖賊ないしは塩賊は大勢力を誇った。


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 23:31:36 ID:mys9i4cT0
中国の社会は昔から、幇会組織が重要な位置を占めていたからね。
官がほとんど悪に近い存在なので、庶民の視点から見れば、
ヤクザ的な幇会組織も必ずしも悪とは限らない。


37 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/06(木) 10:51:54 ID:Nx5zhgSz0
>>35
腐敗の経営で5倍に跳ね上がったとは少々言いすぎ。
そりゃ塩の専売で私腹を満たした官僚いくらでも居るだろうが、
やはり塩専売は暦朝歴代の貴重な財源で、多くは政府に吸い取られた。
例えば今日本の煙草税を見てみろ、7割以上が税だといわれている。
ああいうものから税をたくさんとるものだ、政府は。



38 :名無的発言者:2007/09/07(金) 21:12:59 ID:s7ajO2eF0

まあ塩税そのものは当時としては良税だった。『どこが良税だ。金持ちも貧乏人も同じだけ税を取るなんて』と言われるかもしれないが、そもそも近代以前は身分の高い者は税金を払わなかった。それも税金をごまかして払わなかったのでは なく合法的に税金を払わなくてもいい特権を持っていた。ところが塩税は王侯貴族だろうと百姓町人だろうと関係なく塩を買う度に払うことになる。あくまでも当時としてはだが良い税制だったんだ。




39 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 23:43:15 ID:q9Sdwdtw0
高句麗の広開土王碑に、倭が新羅とかに攻めて来たって記述があるけど、
古代にも倭寇に類するような勢力の活動があったのかな?



40 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/21(金) 20:54:11 ID:aXxA91cY0
半島南部に、日本の勢力が、統治まで至らなくても、
それなりの強い影響力を持っていたことは、多分確実。


41 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 12:52:59 ID:hlfAe/gw0
鉄の産地があったらしいね。



44 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/31(月) 23:06:42 ID:JzjeDMCe0
清の初めなんか、鄭成功に対する戦略もあって、
沿岸部の住民を全員強制移住させてしまう、極端なことしたしな。




鄭 成功(てい せいこう、(1624年8月27日) - (1662年6月23日))は、中国明代の軍人、政治家。

鄭成功 国姓爺

日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。
1661年に台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には、1663年に鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある。

ウィキペディア 鄭成功







48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 15:41:25 ID:UFXMFAME0
高麗末期から朝鮮前期にかけて、朝鮮や山東を荒らしていた連中は、
済州島に拠点を構えていたらしいな。

騎馬隊とかあったようだし、
明らかに日本人と違う。


49 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/08(火) 22:59:41 ID:whPW3KYK0
高麗末期の済州島は、モンゴルに没収されて、直轄の牧場が置かれていたらしい。
済州島から出撃した騎馬軍団の倭寇って、多分モンゴル人だよ。


50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/10(木) 13:53:19 ID:RiU72uz70
阿只抜都なる者率いる倭寇の騎馬軍団を撃ち破った英雄となり、
後に朝鮮を建国したのが李成桂。


阿只抜都はどう考えても日本人の名前ではない。




阿只抜都(アキバツ)は、14世紀の倭寇の首領。
「高麗史」、「高麗史節要」によれば1380年、倭寇が500艘の軍勢で攻め寄せた。鎮浦に停泊した船団は軍勢を上陸させ、密集して城壁のように防御態勢をとった。これが逆に仇となり、羅世、崔茂宣率いる水軍の(朝鮮半島国家で初の)火砲攻撃により撃沈された。その結果、帰還手段を失った倭寇軍は各地を暴れまわることとなる。8月には咸陽が陥落し高麗兵500人と将軍2人が戦死、9月には南原が包囲された。その討伐に李成桂が将として軍を率いた。成桂も左足に矢を受けるほどの激戦で、倭寇も勇猛な首領に率いられ恐れを知らなかった。その首領の名が阿只抜都で、15、6歳の美貌の少年であり、白馬にまたがって剛勇無比であったという。

ウィキペディア 阿只抜都(アキバツ)




74 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/09(日) 23:30:26 ID:rbs0EzzM0
アキバツってどこ出身だったんだろうな。
個人的にはツングース系もしくはモンゴル系なきがするんだけど。
韃靼疾風録の前半みたいな感じで。


75 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/24(月) 23:40:05 ID:+SuueAy+0
騎馬軍団を率いていたというから、
高麗に何か利権を持っていたモンゴル貴族の系統だろうな


少なくとも日本人ではないだろう


77 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/04(日) 23:42:27 ID:GCksFA9jO
海音寺潮五郎だったかな
アキバツをアキハチロウ(安芸八郎?)の音写じゃないかって書いてたな




51 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/14(月) 23:55:37 ID:1hshPL3p0
済州島のモンゴル人の親分と騎馬軍団に、
対馬や松浦の日本人も加担、

ってことはないか。




52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/28(月) 23:23:48 ID:GFbGF8y10
北九州の海賊とモンゴル人って敵対しているんじゃなかったっけ?

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/07(木) 23:13:06 ID:tkkbL20w0
利害が一致さえすれば、手を組むもんさ。


55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 20:36:17 ID:Nr3LtDFb0
日本って海に囲まれているわりに、
安宅船みたいな、外洋では役立たずの船が中心だったのな

56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/09(土) 22:31:35 ID:7zEdy8o/0
日本の水軍の場合、沿岸部での活動が中心だから、
浅瀬や岩礁が多く、竜骨のある外洋対応船は逆に使いにくく、
平底の安宅船、関船が中心になった。

倭寇が使っていたのは八幡船などと呼ばれるジャンク船だけど、
沿岸部での活動には不向きだったから、
瀬戸内の村上水軍なんかは用いることがなかったんだと思う。


57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/11(月) 22:39:23 ID:DpjUUazc0
日本が統一された後に海洋国家を目指す場合、
村上水軍なんかは水軍力としてはほとんど役立たずになるだろうな

むしろ松浦党とか、島津の水軍あたりがいいか



松浦党(まつらとう)は、平安時代から戦国時代に肥前松浦地方で組織された武士団の連合。水軍として有名。
13世紀の元寇の時には佐志氏や山代氏をはじめ活躍したことで知られ、肥前国松浦郡で蒙古軍と戦った佐志房と三人の息子の直・留・勇は揃って戦死し、松浦党数百人が討たれ、あるいは生け捕りにされ、松浦は壱岐や対馬同様に蒙古軍に蹂躙されたという。

ウィキペディア 松浦党




58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/13(水) 13:15:09 ID:rNeDd5cb0
村上水軍は瀬戸内海に特化しすぎていたんだよ。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/18(月) 19:25:40 ID:w5zWr1g+0
日本は意外と外洋航海も発達していたと思うよ。
江戸時代に鎖国したから伝わらなかっただけで。

東日本の日本海側や、奥州には中世に栄えた港町が結構あって、
普通に上方と船を往来させているし。


60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 00:17:27 ID:nT5BLVZz0
昔は渤海使にわざわざ船を造って送ってやった程だしな


渤海使(ぼっかいし)は、渤海より日本を訪問した使節である。728年から922年までの間に34回(このほか遼による派遣が1度)の使節が記録に残っている。

ウィキペディア 渤海使(ぼっかいし)




61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/20(水) 23:51:51 ID:wgKnyAlw0
江戸時代は外洋向けの船や安宅船は建造禁止令まで出されているしね。

62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 01:08:04 ID:06Mk2bvg0
西日本、南日本の海賊が名高いけど、
東日本、北日本はどうだったんだろう?

あまり掠奪するほどの物産はなかったかも知れないけど、
それなりに水運は発達していたはず。


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/22(金) 02:28:19 ID:PXwfDmTu0
日本海側はつるっとしてるからあんまり海賊勢力できなさそうだな


66 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 22:06:17 ID:5MzlSs9n0
>>62 「伊豆水軍物語」でも読んでくれ。面白いよ。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/26(火) 23:57:24 ID:y95WSoeE0
近衛前久なんか、海路で薩摩に行ったりしているな。
いろいろ航路が成立していたんだろう。


68 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/03(月) 23:42:51 ID:HGktECxK0
種子島の鉄砲も、いち早く堺に伝わっているからね。
堺から坊津あたりの港に航路が通っていたんだと思う。


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/05(水) 22:17:38 ID:m0XK3bbQ0
種子島は元々鉄の産地だったからね。
だから、刀の生産が盛んな堺の商人が行き来していた。


70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 12:05:23 ID:emVa8bCF0
堺から太平洋に出て九州に出る場合、どこにも寄航せずに直接行けたのかな?
四国のどっかに立ち寄りそうなものだけど。


71 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/06(木) 13:05:05 ID:AVlMERq+0
>>70
だいたい阿波の湊に立ち寄ったあと、一気に土佐沖を通って日向大隈まで行くらしい。


72 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/03/07(金) 23:17:12 ID:j+0KaXRd0
土佐の浦戸も中世は港町として栄えたって聞くけど、
堺から南九州へ向かう船の中継港にはならなかったんだろうか。


73 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/25(金) 21:01:28 ID:/MnXHccu0
>>72
中継する必要がなければ、スルーじゃない。
土佐の港は、上方へ木材を積み出すのに使われていただろう。



78 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/09(月) 17:56:24 ID:hLbrALbU0
東日本は基地がないぞ。それに房総沖は荒れたら死ねるし






87 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/07(月) 08:28:15.68 ID:ZYk1Qljx0
明代後期だと、倭寇には南蛮人も結構居たと記録に残ってるね


転載元
【海賊?】 倭寇 【貿易商?】
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1182917529/



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ソースネクスト
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