1 :日本@名無史さん:2011/05/22(日) 22:07:15.83
武士の鏡、高橋紹運について語り合いましょう。
読みは、高橋紹運(じょううん)が正しいです。
『筑前戦国史』吉永正春 海鳥社; 増補改訂版版

一気に読んで、涙が溢れてきますた。下克上の裏切り、裏切られる戦国時代において、主家にあまりにも忠実だった武士、高橋紹運。
岩屋城決戦に持ち込んだのは、戦略の一つでもありました。単なる犬死ではありませんでした。
通常なら、宝満城か、息子のいる立花城に移り篭城戦を採るでしょう。。




高橋 紹運 / 高橋 鎮種(たかはし じょううん / たかはし しげたね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
岩屋城の戦いの最中、島津方の武将が城方に矢止めを請い「なぜ仏法を軽んじ、キリスト教に狂い人心を惑わす非道の大友氏に尽くされるのか。貴殿の武功は十分証明されました。降伏されたし」と問いかけた時、紹運は敵味方見守る中櫓の上から、「主家が隆盛しているときは忠勤に励み、功名を競う者あろうとも、主家が衰えたときには一命を掛けて尽くそうとする者は稀である。貴方自身も島津の家が衰退したとき主家を捨てて命を惜しむのか。武家に生まれた者として恩・仁義を忘れるものは鳥獣以下である」と応え、敵方の島津軍からも感嘆の声があがったと言われている。

高橋紹運



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2 :日本@名無史さん:2011/05/23(月) 19:36:26.16
一応2ゲット

2chで語るには人物の格が高すぎるな


3 :日本@名無史さん:2011/05/23(月) 21:46:00.30
え~~

4 :日本@名無史さん:2011/05/24(火) 02:21:07.46
九州の武将だっけ?



6 :日本@名無史さん:2011/05/24(火) 23:56:14.18
>>1
ナカーマ
立花宗茂にはまって歴史小説に飽き足らず、その本を1/3ぐらい読んだとこ。
九州三国時代の終わりを決定づけ、中央集権化への移行を考える場合
岩屋城の戦いは日本史の教科書に載せておかしくないレベル。


7 :日本@名無史さん:2011/05/25(水) 21:46:32.30
太平洋戦争後、GHQの命令で、この武将を持ち上げることは禁止されたらしい。
戦前に紹運は戦意高揚に利用されたことは事実らしいが、紹運が為政者側だったら
どう判断するか見ものだし、戦国期の生き方を当時の生き方にそのまま重ね合わせ
ることには無理がある。

戦国期ならば当然、紹運のような生き方は素直に称えられるべきである。

8 :日本@名無史さん:2011/06/08(水) 17:51:15.43
裏切られた

9 :日本@名無史さん:2011/06/09(木) 12:35:22.61
誰に?


11 :日本@名無史さん:2011/06/19(日) 23:10:40.77
名将

12 :日本@名無史さん:2011/06/20(月) 14:52:48.95
智将

13 :日本@名無史さん:2011/06/20(月) 18:25:48.58
勇将

14 :日本@名無史さん:2011/06/20(月) 22:39:42.40
猛将

15 :日本@名無史さん:2011/06/20(月) 23:26:16.33
良将

16 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 16:53:51.69
謀将

17 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 18:22:59.93
闘将

18 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 19:12:40.35
凡将

19 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 21:16:18.27
愚将

20 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 22:40:11.87
知将

21 :日本@名無史さん:2011/06/21(火) 22:41:43.64
池沼





26 :塩土老翁:2011/07/22(金) 19:13:28.66

高橋紹運  西津弘美著
【 立待月 】 
 天正十四年(1586)七月八日
立花銃虎からの使者「十時摂津守連貞等」が、火急の知らせと岩屋城に駆け込んできた。
内容は嶋津の侵攻して来たことにより、岩屋城を出て宝満城へ移る様にとの銃虎から
からの要請であった。
 しかし、紹運は使者にこう答える。 命運は、秀吉旗下の援軍が到着するまでに堪え凌ぐ
ことにある。 日頃の献身を思うに、どうしてわしだけが城を離れられようか。
紹運は声を出して笑った。 涙を払って決別する十時に、書状を渡す。

 「岩屋城における篭城の手当て、ことごとくあい整った。  ~略~
                    じつに再会も期し難きものと考える。」

 応援を断り続ける紹運に対し、宗茂の剣の指南役であった「萩尾大学、麟可」の
一族が駆けつける。 萩尾竜介の一途に思いつめた決意についに紹運は折れ、
立花勢三十九名が、裏門の守りにつくことになったのである。



28 :日本@名無史さん:2011/08/02(火) 17:54:27.09
  

【 獅子の子 】
若くしてキリスト教に目覚めた大友宗麟は、毛利元就が率いる大軍と多々良浜
の合戦で立花城を守り、毛利元就の撤退で平穏な全盛期を迎えた。
 筑前に守護代として赴任してきた立花道雪は、「道雪のあるところ高橋紹運あり」
と称されるほど、筑前、筑後、肥前、豊前まで目を光らせていた時代である。

 「天正七年の晩秋」
立花道雪は、突然坊主頭を下げると高橋紹運に嫡男の統虎を立花家の跡取りとして
欲しいと懇願するのであった。
断り続ける紹運に道雪は大友家の将来を熱意をもって説くのであった。
世は止む事なき戦国乱世である。 ついに紹運は受諾するのである。

 立花道雪の娘婿となる前日、紹運は統虎にこう告げた。
「もしや道雪殿と敵味方になるやもしれぬ。 その時は立花家先駆けとして
 この父を討ち取れ。 立花家から離縁されても、この城に立ち寄ってはならぬ。
 その時は、この刃で自害せよ。」と形見として備前長光を与えた。

 「天正九年十月二十五日」
ここに、立花宗茂が誕生したのであった。



31 :日本@名無史さん:2011/08/08(月) 17:10:44.86
 岩屋山西正寺には、位牌の他に紹運公が所持していたと伝えられる
念持仏(宝蔵菩薩像)と手に取ると音が出る銅の玉(群雀の玉)が
寺宝として残されている。
 これは、紹運公に諭された老境にあった藤内左衛門尉に菩提を祀らせ
様と下賜されたものと伝えられている。

 現在でも命日には、高橋紹運の生家吉弘家の末裔で世田谷区の吉弘尚正氏ら
信義の主従にゆかりの深い方々によって、厳かな法要が営まれている。


32 :日本@名無史さん:2011/08/13(土) 21:54:05.76
多分、紹運が太平洋戦戦中に生きていたなら、「天皇の為に死ね」とは言わなかったはずだし、
当時の陸軍に痛烈な批判をしていたはずだがww

軍部連中は紹運を利用して日本国民をうまく騙せたようだが、あの世では紹運にこっ酷く怒られたのは言うまでもないww


33 :日本@名無史さん:2011/08/14(日) 12:10:32.36
太平洋戦戦中なら栗林忠道中川州男のような存在だね。



36 :日本@名無史さん:2011/10/20(木) 22:32:32.94
>>33
映画「硫黄島からの手紙」みたら、紹運を栗林中将に重ねてみるのも何となく分かる気もする。
硫黄島にしろ岩屋城にしろ勝ち目ないの、ほぼ分かってたと思う。
だが、出来る限りのことをしつくしてベストを尽くし、戦った。
つきあわされた部下たちは大変だっただろうが。
あくまでも自分の感じたまでを述べたものだから、荒らしとかフルボッコとかは勘弁してよ。

37 :日本@名無史さん:2011/11/20(日) 04:50:21.90
道雪に涙ながらに幾度も請われ養子に出した宗茂、家を存続させる為、秀吉の援軍が到着する迄
反転攻勢の機を窺いながら時間を稼ぐ為に自らが犠牲になったのです。
太平洋戦争時、紹運は玉砕の鏡だとして軍部に利用されました。
そのことにより、戦後、教師達は紹運や道雪を封印して来ました。一部を除いて。とんでもない話です。
仮に、紹運が太平洋戦争時生きていたとして、一億玉砕を主張していたでしょうか?
息子や一族を存続させる為に、自ら玉砕したのです。当時の軍部は日本人の最期の一人まで英米と戦え、
と言っていたのです。未来はありません。「滅亡の美」とやらに自ら酔っていたのです、彼らは。
紹運は違います。戦略として自ら玉砕を選んだのです。



転載元
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1306069635/




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