379 :名無し三等兵:2012/07/02(月) 22:27:04.31 ID:???
 昭和2年生まれの祖母から聞いた話。

 女学校から勤労奉仕でロケット弾の信管のネジを旋盤で削る作業をしていたそうだ。
 削った部品は限界ゲージ(穴が2個空いていてA穴は通るがB穴は通らない部品は良品)
で検査するのだが旋盤がガタガタでどうしても削り過ぎの部品がでてしまい不良品の山と
なったとか。
 泣きそうになってると技術指導の工員の人が「そういう時はこうしてください」と言って、
部品の端をハンマーでゴツン!。
 確かにA穴、B穴共に通る不良品がB穴が通らない良品に化けるわけだが当然不良品
に変わりは無い。ネジの機能は果たさないからな。

 「不良を出すわけにいかなかったからしかないんだけど、今でも心の奥に刺さってる。
命がけで敵の近くまで行って、撃ったロケット弾が不良だったらと思うと・・・」

 と言ってた祖母の7回忌がもうすぐだな。





みんなのじいちゃん等は戦争中どこに行ってたの?3

243 :名無し三等兵:2012/06/06(水) 13:59:38.19 ID:???
元伍長で知覧で待機中に終戦


246 :名無し三等兵:2012/06/07(木) 21:53:56.54 ID:zjgwHAsK
じいさんの7人の兄弟のうち4人戦死してるんだけど、ひどいほうですか?

247 :名無し三等兵:2012/06/07(木) 23:18:05.17 ID:???
>>246気にするなよくある話しだ

248 :名無し三等兵:2012/06/08(金) 00:07:20.78 ID:???
>>246
「亭主戦死後、一人で一所懸命育てて大学まで行かした一人息子を兵隊に取られ
一人残ったおばあさん」の方がよっぽど可哀相。お宅の一族は7人のうち3人は
復員して君たちに命を繋げたけど、↑は、家系が絶えてしまったんだからね。




269 :名無し三等兵:2012/06/13(水) 00:07:14.05 ID:???
年齢的には徴兵の年齢だったけど戦争は行かずに戦艦大和を造ってたみたい
徴兵免れるだけの技術、技能持ってたのかな?


271 :名無し三等兵:2012/06/13(水) 11:56:16.97 ID:???
前スレにも書いたけど
うちのじいさんは、病気で後送されてるあいだに、所属部隊が全滅。
で、軍の方では、その部隊は全員戦死の扱いになって、家族に戦死公報が届いたんだけど
戦死公報が届く前に、公報の戦死日時より後の日付の手紙が届いていたそうな。
ばあさんは不審に思ってたんだけど、村の人達が「村で初めての戦死だ」って
盛り上がって盛大な葬式をやっちゃったらしいw




286 :名無し三等兵:2012/06/17(日) 12:40:15.04 ID:???
自分の祖父は大きな軍艦に乗ってて米軍の攻撃を受けてフィリピンの海に沈んだらしい。28歳で。
あんまり詳しく聞かなかったが戦艦武蔵だな。
当然、遺骨は戻ってない。

287 :名無し三等兵:2012/06/17(日) 19:49:17.63 ID:???
>>286
判ればですが、御祖父は武蔵で何を担当されていたと聞かされてます?

288 :名無し三等兵:2012/06/17(日) 22:03:05.62 ID:???
>>287それは聞いてなかった。
今度祖母(93歳)に聞いてみるよ。

大戦当時は岩国に住んでいて、祖父は民間人ではなくて職業軍人。
遺影の写真は軍服だが、セーラー襟ではなく、胸に勲章っぽいものが付いてた。



291 :名無し三等兵:2012/06/18(月) 11:34:09.23 ID:???
子供の頃、お祖父ちゃんに「もう日本は戦争はしないんだよ」と言ったら、
「な~に、人間が平和の重みに耐えられるものか。50年もしたら俺なんざ軍神よ。ははは。」と言っていた。


293 :名無し三等兵:2012/06/18(月) 12:52:04.71 ID:???
二十歳過ぎで徴兵年齢だったが、腎臓が弱く徴兵はされず。
代わりに勤労動員で、兵器工場で働いていた。

工場で飯が食えるので、少ない配給でも家は一人分助かったと。



296 :名無し三等兵:2012/06/18(月) 16:02:20.80 ID:???
祖父はわからない
父は予科練
片道切符を貰う前に戦争は終わった
父には3人の兄がいた
3人とも出征し、1人は満州、1人はフィリピンで戦死した

生き残った叔父や父からは武勇伝めいたものしか聞いたことがないし
山のようにいる親類縁者からも、とり立てて苦労を聞いたことはない
酔っ払って軍歌を歌うこともしばしばだった

子供はたくさん作って何人か育てばいいという時代だったのだろうし
軍人は憧れの職業の1つだっただろう

ほとんどの国民にとっては戦争とは多くて数回、「空中から爆弾が降って来る」だけのものだった筈だ
日本人の語る悲惨は、東欧あたりの人たちの体験した悲惨とは度合いが著しく違うだろうと思う
崇高でも悲惨でもない、ただの戦争だ




316 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 00:49:04.12 ID:RW2JaGFx
今は亡き曽祖父は海軍軍人で、最終階級は中佐。
生粋の大砲屋で大尉の時は南方の海で重巡の砲術長として戦っていたとか。
夜間に米艦隊に殴り込んだらしいから、多分第八艦隊。
その後は内地勤務で広島の呉鎮守府に配属。士官学校で砲術も教えていたとのこと。

無事終戦を迎えて帰宅したときは

「負けたww負けたwwあんな連中に勝てるかぃ!ww」

と大爆笑だったらしく、その後は恩給で余生を過ごしていました。

余談ですが、自衛艦のビデオを見て

「豆鉄砲が一門じゃ、どうにもならんわwww( ^∀^)」

ミサイルを見たときは

「魚雷が空を飛んでる・・・( ゚д゚)」

明治生まれの感想は中々珍しいものでしたw





318 :軍事板捏造書込み判定委員会:2012/06/21(木) 13:35:29.96 ID:???
海軍で「士官学校」って書いちゃった時点で捏造丸出し

やり直し!


320 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 15:48:22.84 ID:???
>>318
ボケで海軍兵学校と陸軍士官学校がごっちゃになっていてもおかしくは無い。
たった一点のみで捏造だと決め付けるのはどうかと思うんだがな。

321 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 16:21:06.59 ID:RW2JaGFx
>>318
兵学校と士官学校がごっちゃになってました・・・恥ずかしい限りですorz


319 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 14:07:45.43 ID:???
伯父が輸送船で南方戦線へ移動中にボカチン喰らったそうだ
漂流物に掴まって丸二日凌いだらしい
南方の暖かい海だったけどそれでも腹が冷えて下痢になって大変苦労したとの事
漂流中生き残った戦友がは次々と体力低下で沈んでしまって悲しかったそうな
後から来た駆逐艦に拾ってもらって目的地に着いたけど
アメリカのカエル飛び作戦で無視されちゃったらしい




322 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 16:31:42.05 ID:???
フィリピン、ミンダナオ島のダバオに居ました
輸送船で移動中に潜水艦に襲われた話、船室の天井が低くて窮屈だった話
サルを拳銃で撃って食べた話、米兵がテニスをしていた話
戦友が死ぬ時水をくれと言っていたがあげなかった話、などを聞きました


324 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 21:53:19.02 ID:???
オヤジの方の爺さんは上等兵だったらしいが、俺が赤ん坊の時に死んだんで話が聞け
なかった。旭川だから第七師団だったのかな。

昨年、90歳で死んだ伯父が親族の中で最期の軍役経験者だったが、樺太守備隊に居た
そうな。極寒の地でリアルアスピリンスノーだから、砲車なんか小麦粉の中に埋まる
みたいに沈んで行って、エラい苦労したとか(ちなみに曹長)。で、本土決戦、って
内地に戻って、それが戦争末期に対ソ補充で満州に行くことになったのが、舞鶴で
輸送船待ちしてる時に終戦になって命拾いした、って言ってた。
この人は剣道五段って達人で(俺は二段だが元気だったころは伯父は60歳過ぎなのにボコ
にされた)、軍刀の柄に被せる覆い皮だけは実物持ってた。で、戦後、模造刀のレプリカ
入手して被せてリビングに飾ってたな。
今ちょっと調べたら第七師団は樺太に歩兵第25連隊(札幌)を樺太混成旅団に転出してる
から、その中に居たんだろう。


325 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 22:03:59.66 ID:???
仏印でずっと警備してたそうだ。明号作戦は、フランス軍と戦うより、山あるくほうが大変だったといってた。
終戦になったら、今までフランス人が入ってた収容所に、今度は自分たちが入ることになってなんだか
戦争そのものがバカバカしくなったといってた。

326 :名無し三等兵:2012/06/21(木) 23:24:02.63 ID:X3Fq/7Yy
俺はどっちの爺ちゃんも軍人だった
一方は予科練行ってもう一方は陸軍士官学校行ったらしい

予科練行った爺ちゃんは戦争末期にはまだ在学中だったらしく、その頃には燃料も飛行機も無いから空は全然飛ばなかったと言ってた
その後は特攻志願するかと言われて丸をしたらしい(友人の中には二重丸をする人も居たとか)
んで、その後は震洋の乗組員訓練をしたらしい
幸いに本土上陸が無くて生き延びたが、生き恥さらして実家に帰っても10日ほど家に帰れなかったと言ってたな

もう一方の爺ちゃんは100式新司偵のパイロットだったとか
南方でメザシに追われて何発か被弾したけど逃げ切った後には「やはり日本軍の飛行機は最高だな!」と思ったとか何とか
確か日本人で最初にB-29撮影したのが爺ちゃんだったかな・・・


因に、爺ちゃんの親友が描いた愛機の絵があったんだが、爺ちゃんが生きてる頃はまだ小さくて双発=爆撃機だと言う先入観から爆撃機のパイロットかと思ってたのは内緒の話


328 :名無し三等兵:2012/06/22(金) 02:09:10.93 ID:???
みんなすげぇなぁ
俺の爺ちゃんなんて大戦中市役所勤務で戦争なんて行かなかったぞ

そのおかげか、もともと役人で金あったか知らんが近所で一番最初にテレビ買ったって親父が言ってた

329 :名無し三等兵:2012/06/22(金) 05:54:37.56 ID:???
中支で日本軍の工作員。
日本軍と支那軍との中間地帯に出かけて行ってそこにいる自警団というか匪賊の皆さんと
「いま日本軍に帰順するとこんなにお得です」なんて匪賊の帰順工作をやっていたそうな。
表の顔は薬屋。
で、終戦後引き上げ戦を待っている時に同じ日本人に金塊を隠し持ってるとかチクられて国府軍の司令部に呼び出しくらってえらいことになったけど、
爺さんを知る支那人の皆さんが「彼はそんなことをする人ではない」と司令部に掛け合ってくれて無事帰国できたという。


335 :329:2012/06/22(金) 21:39:53.40 ID:???
活動費にするためだったのだろうか、爺さんは岩塩鉱山の利権をもらっていてそっちの方で結構な蓄財をしていたという。
ただ終戦になって持って帰るわけにもいかんしそもそも生きて再び日本の土を踏めるかどうかもわからんということで、 支那人の部下に全部分配してからっけつになってしまったそうだ。
それもあってチクられたんだろうし、また助けてももらえたんだろう。
×引き上げ戦○引き揚げ船でした。


340 :名無し三等兵:2012/06/23(土) 07:54:07.51 ID:???
纏めると、軍に取り入って利権を貰い横領して蓄財するも
敗戦で殆どを失ったが生きて帰って来たって事か。



353 :名無し三等兵:2012/06/28(木) 17:22:54.14 ID:???
1944年(昭和19年)12月に報道班員として徴用された。
今フィリピンへ赴けば、日本軍の追撃戦が見られるとのふれこみだった。

だがマニラに着いて8日目にアメリカ軍が上陸、市街戦で取材どころでなく、
ルソン島北部ジャングルへの逃避行。約5ヶ月の潜伏ののち、
顔見知り搭乗員の厚意で被弾を修理したオンボロ新司偵に乗って、
制空権のないバシー海峡を越え、台湾へ脱出した。

さらに台北からDC-3で、戦闘末期の沖縄上空を飛び、
なんとか福岡の雁ノ巣飛行場まで帰着した。
が、着の身着のままの飢餓状態。電話代の5銭もない。

なんとか昔馴染みの博多の料亭まで辿り着き、
女将に電話を借りて新聞社の知己に連絡。
絶望と思われていたが生存が確認され、大歓待だったと。

直木賞作家、初代文化庁長官を務めた今日出海爺の参戦伝。
昭和20年5月、連絡途絶のフィリピンから帰還した希少な一人である。




355 :名無し三等兵:2012/06/28(木) 20:36:11.42 ID:???
ウチのマンションの上階に住んでる爺様のことを近所の床屋で聞いた。
痩せぎすで長身(180㎝近い)、いつも好々爺と言う感じで、会えばちょっと
挨拶するくらいなんだが、背筋がピンと伸びて矍鑠としてる。

どう見ても70歳台にしか見えないんだが、なんと今年90歳だそうな。
で、戦時中は満州で憲兵だった。ペイペイだったんで、よく捕まった間諜を
「そこらで殺して来い」ってやらされた(度胸づけ、ってことだったらしい)
が、どうしても出来ずに「二度と捕まるなよ」って逃がしたことがあったらしい。
(そいつは、こちらのスパイだったんだが御用済み、って奴、2-3人)

で、ボロ負けして逃げ遅れて隊の半分くらい逆に捕まって、エラいのはみんな
殺されたが、その爺様ダケは、逃がしたスパイが居たおかげで引き揚げ難民の
列車まで案内してくれて、生きて帰って来れたらしい。

その床屋、関東大震災の前から地元でやってる、ってトコで、今の亭主(これも
60歳台)で3代目。先代が親しくしてて聞いたそうな。

356 :名無し三等兵:2012/06/28(木) 22:02:38.72 ID:???
爺さんは特務機関の一員で、中国人に化けて潜入工作してたそうだ。であるとき、顔をあらうのに
手を動かして洗って日本人だとばれたそうだ。その後捕まってなんとか生きて帰ってきたけど
どうやって生きて帰ってこれたかは結局最後まで言わなかった。



361 :名無し三等兵:2012/06/29(金) 11:41:54.40 ID:???
オレの爺さんは、親戚達に、戦争でいい思いしたんだろ(性的な意味で)?とニヤニヤ聞かれるたびに悲しい顔して
そんな事は無かったんだけどなぁ…
と呟いてたのが印象に残ってる


363 :名無し三等兵:2012/06/29(金) 16:07:19.03 ID:???
俺の爺さんも勝ち戦のころはペーペーでダメ、そこそこ偉くなったら負け戦でそういう施設は
みんななくなってだめと言ってたな



377 :名無し三等兵:2012/07/02(月) 18:58:30.25 ID:???
マジでおばあちゃんは竹やりで訓練していたらしいけどw

378 :名無し三等兵:2012/07/02(月) 21:47:57.81 ID:???
俺のおばさんはナギナタの名人。



380 :名無し三等兵:2012/07/02(月) 22:34:55.75 ID:???
体が弱かったから大陸で衛生兵やってたらしい
家に赤十字の入った小さめのハンドバッグみたいなのが残ってる
軟膏とか注射器とか包帯もぼろぼろだけどある




391 :名無しさん:2012/07/09(月) 15:04:56.93 ID:???
俺のじいちゃんは終戦で引き上げるまで満鉄で駅長してたって話は聞いた。
軍服(?)で軍刀(?)を持った写真があったけど、鉄道職員も軍属だったのかな?
俺が物心つく前に無くなったから、あまりじいちゃんの記憶はないけどね。

392 :名無し三等兵:2012/07/10(火) 12:38:55.26 ID:96sXi/Dw
曽祖父が少佐で日露戦争に行ってる。
祖父(長男)に対し曽祖父が「行くのか?」と聞いたそうなのだが「行く」といったので戦争に行ったらしい。
配属は輜重兵で南方にいたらしい。バナナがうまかったそうな。
輜重兵になったのも曽祖父がなんか手を回したのではないかと。



395 :名無し三等兵:2012/07/11(水) 00:57:09.72 ID:???
なんていうか祖父には失礼だが
父方の祖父は戦時中適齢にも関わらず、市役所職員をやっていた。
だからここにある武勇伝がない




397 :名無し三等兵:2012/07/11(水) 15:30:33.89 ID:???
じいちゃんは、赤線の頭領をやっていた。
「なんで従軍しないんだ」って、役人が調べに来ると
「お~い」と手を叩いて、当時金持ちしか抱けないという
xxxヤッコとかいうNo1クラスの女を呼び出し
役人にタダで抱かせてやって、おとがめなしだったそうだ。

398 :名無し三等兵:2012/07/11(水) 20:25:20.16 ID:7oCCOUH1
デイサービスに来てるお年寄りの経歴が凄い人結構いる。
山口県小月飛行場で整備士をしていたという方、よく五式戦闘機や疾風を手入れしていたそうだ。

そんな頃に板付に応援のために出張、新型機「震電」の試験の準備の支援をしたという(陸軍所属なのに海軍のお手伝い)。
初見の感想、「飛ぶのか?これ、」「足長いなー、プロペラ叩くぞこれ」だったそうなw




403 :名無し三等兵:2012/07/12(木) 15:42:51.16 ID:???
うちの爺ちゃんは呑龍?の通信士。
特幹だけど、養成中に終戦したみたい。




422 :名無し三等兵:2012/07/14(土) 19:47:13.93 ID:0Erw/57B
漁師で戦争から逃げれたみたいだ
その間ばあちゃんとセクロス三昧

423 :名無し三等兵:2012/07/14(土) 22:15:24.23 ID:???
祖父ではなくて親戚のおじさんの話だが
当時は中学生
街中を演習で陸軍の部隊が来て、自分の街で一泊したとか
ただ当時は旅館がなかったので、民家を借りて宿泊したらしい
実家にあった市史の本を見たら、確かに街中を八九式中戦車と乗用車(くろがね四起?)が
走っている写真があった
さらに戦局が悪くなると、報国挺身隊として近くの飛行場で勤務
練習機(一式戦と九七式戦)が配備されていて、それに乗せてもらったそうだ
ある日の事、艦上機が3メートルくらいの超低空で突っ込んできた
そのまま付近に機銃弾をばらまいて飛び去って行ったが幸い怪我はなかった
あとで気づいたが、その日は町の駅が空襲を受けたそうで、飛行場からもうっすらと煙が見えたらしい

以上、現在はサッカーチームと日本最古の木造洋風校舎で有名な東海地方の某地方都市の話
県内の特産品はうなぎパイとメロンとお茶…と言ったら流石に分かるかw

424 :名無し三等兵:2012/07/14(土) 23:01:01.64 ID:???
訂正
陸軍の部隊が民家に泊まったのは、旅館が「足りなかった」から
自分の街は江戸時代には宿場町だったのに旅館がないはずがないや…
それと、練習機に乗せてもらった話は、地上に駐機中に操縦席に乗せてもらったのだと思う
一式戦や九七式戦は単座だし、中学生が操縦するなんてありえないからね

425 :名無し三等兵:2012/07/15(日) 01:35:51.34 ID:???
「練習機に乗る」で思い出した。
俺の大叔父?にあたる人の話なんだが、終戦当時住んでた家が航空隊の基地の近くにあって、武装解除されて大量に並べられた機体の操縦席に座ったりして遊んだらしい、零戦や呑龍があったと言っていた
ちゃっかり部品を外して貰って帰った奴もいたとか

羨ましい…

426 :名無し三等兵:2012/07/15(日) 08:40:52.37 ID:???
祖父は変態かゴミ売のマスゴミで満州に行ってた。
一緒に満州に行った祖母の話によると満州の生活が嫌で、
祖父が上司にゴマすりまくって一年で日本に戻ってきたが空襲にあって脂肪。

427 :名無し三等兵:2012/07/15(日) 22:04:26.82 ID:???
祖父は終戦間際に予科練にいて、毎日土木作業ばかりしてて、予科練じゃなくてドカレンだったそうだ。
8月6日に、トラックで広島が大変なことになったので乗れとなったんだけど、たまたま祖父の前で
満員になっていかなくてすんだ。いったのは後に原爆症で苦しみ続けたから運がよかったんだろう

428 :名無し三等兵:2012/07/16(月) 12:41:54.55 ID:???
祖父ではなく親戚のおばさんだが、戦時中中学生。
中島飛行場に勤めていたが、宇都宮大空襲で
中島飛行場は全滅。おばさんも死んだと思われたが、
2日後生きて帰ってきたそうだ。
母の話によると、髪は焦げてススだらけで
本当にドリフのコントみたいだったという。

429 :名無し三等兵:2012/07/16(月) 13:04:13.95 ID:???
終戦後、武装解除が始まると、家に機関銃を乗せたジープが来て
機関銃を構え、家にあった武器の引換の書類を作り持って行ったそうだ。
刀は取られなかったな。
祖父が癌で死ぬ間際、「俺は生涯、威風堂々を心掛けていたが
そんなものは何の価値もないな。今度生まれてきた時は平常心を
大切にしたいもんだな」と言っていた。

430 :名無し三等兵:2012/07/16(月) 22:42:17.09 ID:???
じっちゃんがドイツに行ったとき、ドイツ人に馬鹿にされて、
リーダーが、「今度馬鹿にされたら構わねえ抜刀して2、3人ぶった切れ」
と言って、じっちゃんがそんなことしていいのか?と聞いたら
「な~に、俺が腹切って見せりゃ済むことだ」と言ったそうです。

今の日本にはいない豪傑だな。



432 :名無し三等兵:2012/07/17(火) 02:22:07.84 ID:???
じっちゃんは始め自動車で軍隊まで行ってて、それがサイドカーに変わり
最後は自転車になったそうです。
母が言うには、サイドカーは激しく酔うそうです。

433 :名無し三等兵:2012/07/17(火) 02:44:44.44 ID:???
自転車といえば、「日本のいちばん長い日」の畑中少佐(中佐?)の都内の移動がちゃりんこで、
防暑衣の背中が汗びっしょりだったのを思い出す。昨今の嘘話にもせめてあの程度の「りありちー」
があれば・・・。いまどきなら天下の大本営参謀様ともなれば移動は常に運転手付の黒塗りになってそうで。



437 :名無し三等兵:2012/07/17(火) 13:50:28.51 ID:???
父方の祖父も母方も「伍長」って言っていたから、終戦時には上等兵だったのだろう。
職業軍人じゃなかったのでそのくらいなのだろうね。

438 :名無し三等兵:2012/07/17(火) 15:05:44.07 ID:???
じっちゃんは(現代で言えばハーレーとかかな)馬が好きで
馬に乗れる職業を探して軍隊に入ったそうです。
豪農の養子だったが、嫌になって陸軍士官学校に入り
朝鮮で軍旗もって一番駆けして金を稼いで、仕送りしてたそうです。
しかし軍旗持ってる手を撃ち抜かれて本国に戻って通訳をしていました。
幸い利き手じゃなかったので、不自由はしなかったらしいです。


440 :名無し三等兵:2012/07/18(水) 00:18:02.57 ID:???
じい様が言ってた
自決するとき
殆どが『母』と『嫁』であった
天皇陛下万歳は極々少数であったと


443 :名無し三等兵:2012/07/19(木) 03:58:58.77 ID:???
じっちゃんは、朝鮮の貴族(名前忘れた)の付き人やってたそうです。
自分で「軍歴は長いが、戦歴は短い」と言ってた。

444 :名無し三等兵:2012/07/19(木) 04:18:25.85 ID:???
じっちゃんでなく親戚のおじさんなのだが、海軍で色々な船に乗ってたそうでえす。
対空射撃が終ると、食べようと思ってたおにぎりが、火薬で真っ黒になってたりするそうです。
射撃してて弾がなくなると、隣で死んでる奴の血まみれになった機銃を撃ったりしてたそうです。
7回ロープ一本で船から降りたそうです。
本職は漁師でした。戦後しばらくは、海軍の船で漁をしてたそうです。

445 :名無し三等兵:2012/07/19(木) 09:53:23.02 ID:???
オレの爺ちゃんは海軍中尉で駆逐艦に乗ってた。
爺ちゃんの死後、航海中に書いていた日記をみせてもらった。
内容は
昭和〇〇年〇月〇日XXXX出港
昭和〇〇年〇月〇日XXXX入港
昭和〇〇年〇月〇日XXXX出港
昭和〇〇年〇月〇日XXXX入港



しか書いてなかった。



447 :名無し三等兵:2012/07/19(木) 14:24:23.36 ID:???
こどもの時にじいさんが戦争に行った時の写真をたくさん見た。
当時の家は裕福だったらしくカメラは自前だったらしい。
どう見ても観光写真で,足の指の数が多い現地のこどもだとか露天商だとか
九重の塔?みたいな珍しい建物の写真ばっかりだった。
必ず友人と一緒に両手で軍刀を杖のように構えたポーズを取ってたのが
子供心にも面白かった。
もっと戦争中の祖父の話を聞いておけば良かったと後悔してる。

448 :名無し三等兵:2012/07/19(木) 14:50:57.25 ID:Fvl2zY+A
俺の爺さんは、20年前に亡くなったけど海軍の機関士。
子供の頃乗っていた船は、と聞くと
赤城、利根、と駆逐艦の艦名を言っていたけど、
赤城と利根のインパクト強くて駆逐艦の艦名は失念。
年齢的に真珠湾とかインド洋とかの太平洋の初戦には参加していると思うけど
戦闘シーンは一切、話してくれなかったけど、航海中の出来事は話してくれた。
後半は胸の病気に掛かり海軍病院に入院。医者から長くは無いと言われ帰郷。
入院して代わりに出撃した戦友は、皆亡くなったと言っていたから、
もし病気に掛からなければ、俺はこの世に居なかったな。




450 :名無し三等兵:2012/07/20(金) 02:15:30.79 ID:???
もう20年以上も前のことだし、俺も小さかったからあまり鮮明な思い出じゃないが・・・
元陸軍大尉だった祖父が部隊長だったのと、うちが田舎の庄屋で屋敷がでかかったせいか、
お盆前にうちで戦友会的な宴会をするのが恒例だった。

数少ない覚えてる光景の一つ。
いかにも農家の作業服のオッサンが
「おい○○一等兵!貴様??少尉殿に命を救われたのに、酌もせんとは何事だッッ!」
と怒鳴りつけると、いかにも中小企業の重役か社長っぽいスーツの紳士が
「はッ!申し訳ありませんッ!」
と弾かれたように直立不動になってた光景が忘れられない。
戦後40年たっても階級は骨の髄まで染みこんでたんだろうな。

その一等兵もとい某地方企業の会長が先日亡くなったので思い出した。
祖父もとっくに亡くなり、戦友会のメンツも殆ど鬼籍だろうし、何があったかは闇の中。

451 :名無し三等兵:2012/07/20(金) 12:42:37.36 ID:???
オレの爺様の事ではないのだが
随分と前にオレの会社に「軍曹殿」と呼ばれていた人が居た
最初は単なるニックネームだと思っていたんだが
実はその人は社長の元上官だったそうだ
何でも社長は戦時中その軍曹殿にえらく世話になったらしく
戦後の軍曹殿の生活が厳しいのを知ってワザワザ自分の会社に呼んだらしい
その話を聞いてから言葉など殆ど交わさない社長の事が好きになった
軍曹殿も腰の低い温厚な人だった


452 :S44産まれ:2012/07/21(土) 00:24:29.72 ID:???
本筋ではありませんが幼少のころ上野に行くと、手や足が無い方が楽器を演奏
していたのを思い出しました。

453 :名無し三等兵:2012/07/21(土) 20:31:31.21 ID:???
うちのじいさんは、どもりがひどくて召集されなかったそうな。
どもりがひどいと駄目なんだ…。

というか、召集されないのは本人にとっては喜ばしい事だけど
世間体としては駄目だったろうな・・・。




463 :名無し三等兵:2012/07/24(火) 17:34:10.57 ID:6O1hZ70r
大鳳の機銃担当。マリアナの時は風邪で寝てたと。

寝てたら騒がしくて目が覚めたので頭が何かぼーとして頭痛がしたらしい。

で、ちょっと一服しようとしたらドカンと。

何でも艦載機が着艦したら爆発したと友達に聞いたらしい。

後は駆逐艦まで必死に泳いだら風邪が治ったと言ってた。


465 :名無し三等兵:2012/07/24(火) 18:48:39.78 ID:???
九州のタチアライっていう飛行場へ行っていたらしい。
長崎に原爆が落ちた時、きのこ雲がそこから西の空に見えたらしい(ホントか?w)。

466 :名無し三等兵:2012/07/24(火) 18:54:59.41 ID:???
ピカッと光った時は中国大陸からも見えたらしいからな

467 :名無し三等兵:2012/07/24(火) 18:58:17.28 ID:yKg+Be6Y
横須賀?だか近くの工廠で飛行機作ってたらしい
あくる日に二階の窓から空眺めてたら艦載機襲来
低空飛行して来た艦載機のパイロットの顔が見えたってさ。
で爺のいる建物に機銃掃射してきて屋根をスパスパ弾が抜けてったんだと
その後何とか防空壕に逃げ込もうとするも既に満員で木の陰に隠れてやり過ごしたらしい。

戦後は進駐軍が来る前に謎の新型機とやらを破壊、土に埋めたとの事
流線型?で発動機が後ろについてる双発機であれだけは一生忘れられないとかなんとか
他には資料を燃やしたりとか色々処分したとの事。

米軍に引き渡した後は兵舎の布団を盗み汽車で田舎に帰ったんだとさ。
オマケで拳銃も盗んだらしいがオニギリと交換したって言ってた。

で何かゴタゴタがあった後国鉄に就職、バスの運転手となりそのまま定年退職
ちなみにまだ生きてる、最近急軍雑嚢貰った。


265 :名無し三等兵:2012/06/12(火) 17:03:48.75 ID:???
先の大戦は良くも悪くも日本の存在を歴史に記したな




転載元
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/army/1336389680/






チャックノリスその2

In World War II, The US could choose between an Atomic Bomb and Chuck Norris to punish Japan. The US choose the lighter punishment.
(第二次世界大戦で、合衆国は日本への制裁として原子爆弾かチャック・ノリスかを選択することができた。より軽い方の手段が選ばれた)




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