1 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 13:46:33 0
ここで言う個人的な武勇とは、
兵を率いて戦う大将としての強さでなく
個人としての物理的強さ。一騎討ちの強さのような。

中国に比べて西洋や中東には
そういう個人的武勇に優れた英雄の話が少ないように思う。
もちろん中国のそれは誇張・脚色が多いわけであるが。

西洋・中東のそういった豪傑の話を虚実織り交ぜて語ってください。



チャックノリス両手銃 ナルキッソスの黄昏


If you re-arrange the letters in Chuck Norris, you can spell "american hero", as well as every other word in every other language.
(あなたが、チャック・ノリスという文字を綴るとき、それは、すべての言語、すべての単語において「アメリカの英雄」という意味を伝えることが出来る)






2 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 16:14:13 0
中東ならサラディンだろうな

サラーフッディーン(サラーフ・アッ=ディーン、1137年または1138年 - 1193年3月4日)は、エジプト、アイユーブ朝の始祖。
サラディン ナルキッソスの黄昏
かつてエルサレムを占領した第1回十字軍は捕虜を皆殺しにし、また第3回十字軍を指揮したリチャード1世も身代金の未払いを理由に同様の虐殺を行った。しかし、サラーフッディーンは敵の捕虜を身代金の有無に関わらず全員助けている[3]。彼は軍事の天才であるが、このような寛大な一面もあって、敵味方を問わずにその人格は愛され、現在まで英雄としてその名を残しているのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/サラーフッディーン



3 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 16:24:05 0
エドワード黒太子とかリチャード獅子心王はどうなのかね。
軍を率いて戦う強さは疑いの余地がないが、
自身も武勇を誇ったのかね。


エドワード黒太子(Edward, the Black Prince, 1330年6月15日 - 1376年6月8日)はイングランドの王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)
エドワード黒太子 ナルキッソスの黄昏
優秀な軍人であり、百年戦争前期における主要な戦闘に参加し、ほとんど勝利を収めている。中でも、1356年のポワティエの戦いではフランス王ジャン2世を捕虜とし、イングランドの勝利を決定的にした。しかしスペイン遠征の際に病にかかり父王より早く亡くなった為、王となることはなかった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード黒太子




リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、プランタジネット朝第2代のイングランド王(在位:1189年 - 1199年)。
リチャード一世獅子心王 ナルキッソスの黄昏
生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCクH藍r de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、統治能力は未知数であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/獅子心王





4 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 16:42:14 0
獅子心王は結構逸話があったはず。

馬ありならバイバルスもそこそこいいとこ行くような


バイバルス ( 生没年 1223年あるいは28年? - 1277年7月1日。)は、バフリー・マムルークの武将で、マムルーク朝の第5代スルターン(在位:1260年-1277年)。即位名によりザーヒル・バイバルス とも呼ばれる。
バイバルスの紋章 ナルキッソスの黄昏
バイバルスは国内を整備し、また国外の敵を打ち払いマムルーク朝200年の基礎を作ったほか、十字軍や常勝モンゴル軍に対する勝利を勝ち取った。軍事、政治両面おいて八面六臂の活躍をしたバイバルスは、名君として崇められアイユーブ朝のサラディンと並べ称されている。彼の墓はダマスカスにおいてサラディンと隣り合って立てられている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/バイバルス


5 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 17:51:37 0
皇帝自ら剣闘士として活躍したコンモドゥス

ルキウス・アウレリウス・コンモドゥス・アントニヌス( 161年8月31日 - 192年12月31日、在位期間180年 - 192年)は、第17代ローマ皇帝。
ローマ皇帝 コンモドゥス ナルキッソスの黄昏
身体的には頑健であったと伝えられており、父とは異なり馬術や剣術に長けている部分があったという。時に公式に競走馬大会で腕前を披露することもあり、獣狩りなどで余暇を過ごすことも多かった。また父親譲りの風貌に加えてかなりの美男子であり、彫り深い顔立ちと金髪の巻き毛で知られ、それも民衆からの人気を支える源の一つだった。実際、彼はしばしば公式の場で披露したように鍛え上げた肉体を持ち、並みの剣闘士より高い素質と剣術の腕前を持っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/コンモドゥス



6 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 19:55:34 0
一人で先に敵陣へ切り込んでしまい部下を困らせるアレクサンドロス大王かな
鐙もない時代によくやるわ
西洋版の項羽みたいな奴


アレクサンドロス3世(紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)はアルゲアデス朝のマケドニア王、コリントス同盟の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。
アレキサンダー大王 ナルキッソスの黄昏
アレクサンドロス自ら行軍中にあっても荷馬車に乗り降りして体を鍛錬したと伝えられる。彼は常に最前線で将兵と共に戦い、自らの頭部や胸部に重傷を負うことさえあった(古代ギリシアにおいて司令官は後ろの安全な場所にいるのではなく、自ら剣戟に身をさらして戦う習慣があったため、これは取り立てて特別なこととは言えない)。数々の戦場で危機を乗り切ったアレクサンドロスは神懸かった戦士であり、将兵から絶大な人気を得ていた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/アレキサンダー大王


7 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 22:03:33 0
でも、それで討ち死にしなかったのだから相当強かったということか?

8 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 22:19:14 0
ロバート・ブルース

若い頃はトーナメント荒らしとして名を馳せる。


ロバート1世(Robert I)またはロバート・(ドゥ・)ブルース( 1274年7月11日 - 1329年6月7日)は、ブルース朝(House of Bruce)を創始したスコットランド国王
ロバートブルース ナルキッソスの黄昏
ロバート1世は所領を全て奪われ、教会での殺人の咎により破門までされたが、1307年7月にエドワード1世が亡くなると、再び風向きは変わった。後を継いだエドワード2世が貴族達と争いを繰り広げている間、粘り強いゲリラ戦を展開し、イングランドの要衝を1つ1つ奪い返していった。 1309年8月には、テイ川(River Tay)以北のスコットランドを掌握し、1310年にはスコットランドの司教によりスコットランド王として認められた。
1314年、相次ぐ領土喪失に堪えきれず、イングランドは君臣一致して派兵したが、バノックバーンの戦いで1/3に満たないスコットランド軍に大敗した。勢いに乗ったロバート1世は、イングランド北部、アイルランド(弟エドワード・ブルースが国王に選ばれた)に侵攻してイングランドを苦しめた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ロバートブルース



9 :世界@名無史さん:2010/10/15(金) 23:18:10 0
ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン
シラノ・ド・ベルジュラック

この辺は有名所だな。



ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン(1480年 - 1562年7月23日)(ゴットフリード(Gottfried))は、中世ドイツの騎士。戦争で片腕を無くすが鋼鉄の義手を付けて戦い続けたことから「鉄腕ゲッツ」の異名を誇った。
鉄腕ゲッツ ナルキッソスの黄昏
史実の人物としてよりもヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが24歳の時に書いた戯曲「鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」の登場人物として有名になる。ゲーテの作品ではかなり美化されて英雄として描かれているが、史実ではフェーデを悪用して決闘と称した強盗、恐喝、追いはぎを繰り返して財産を築き盗賊騎士と揶揄されたほどで、血の気が多く戦いには首をつっこまずには居られない性分だったという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/鉄腕ゲッツ




サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラック (1619年3月6日 - 1655年7月28日)は、フランスの剣豪、作家、哲学者、理学者。
シラノ・ド・ベルジュラック ナルキッソスの黄昏
生涯の友アンリ・ル・ブレ(Henri Le Bret)と共に、カルボン・ドゥ・カステルジャルー(Carbon de Casteljaloux)隊長指揮のガスコーニュの青年隊に入隊した。しかし出世には至らず、1640年、三十年戦争のアラスの攻囲戦で重傷を負い、翌年軍隊を去ってパリに戻り、回復後さらに剣術を習った。百人を相手にして2人を殺し7人を傷つけた武勇伝が、ル・ブレの書翰をもとに伝わっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/シラノ・ド・ベルジュラック






11 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 05:54:30 O
日本、中国に比べて紹介する書物が少ないだけのような気もするが、だからこそこういったスレは有意義かもな。

12 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 08:17:38 0
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
ミハエル・ヴィットマン
シモ・ヘイヘ



ハンス=ウルリッヒ・ルーデル( 1916年7月2日 – 1982年12月18日)は、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人(航空機操縦員、幕僚将校)。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの出撃 ナルキッソスの黄昏
ヨーロッパ東部戦線において、ソ連戦車500両以上と800台以上の車両を撃破する戦果を挙げた。また、9機を撃墜し、地上砲火で30回撃墜された。これらの戦功から、ナチス・ドイツ最高位の「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授けられた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ハンス・ウルリッヒ・ルーデル




ミハエル・ヴィットマン(Michael Wittmann、1914年4月22日 - 1944年8月8日)は、第二次世界大戦中のドイツ第三帝国の親衛隊員。
ミハイル・ヴィットマン肖像 ナルキッソスの黄昏
撃破数は戦車138両、対戦車砲132門。最も多くの敵戦車を撃破した戦車兵の一人である。特にノルマンディー戦線で、彼が単騎でイギリスの戦車部隊に壊滅的打撃を与えたヴィレル・ボカージュの戦いは有名。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ミハイル・ヴィットマン






シモ・ヘイヘ(Simo HクJyhクJ・'simɔ 'hクH鎗̯hクH掃, 1905年12月17日 - 2002年4月1日)は、フィンランドの軍人。
白い死神シモ・ヘイヘ ナルキッソスの黄昏
フィンランドとソビエト連邦の間で起こった冬戦争では、ソビエト赤軍から“白い死神”と呼ばれ恐れられた。スナイパーとして史上最多の確認戦果505名射殺の記録を残している[1]。愛称は「シムナ」

http://ja.wikipedia.org/wiki/シモ・ヘイへ



13 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 08:29:15 0
何か違うが、戦う新聞記者チャーチル 


サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(1874年11月30日 - 1965年1月24日)はイギリスの政治家。
チャーチル ナルキッソスの黄昏

日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名で、女性議員を悔しがらせたと伝えられる。
なお、彼が優秀な政治家の条件として挙げたのは「将来何が起こるかを予言する能力」と「予言が当たらなかったとき、なぜそうならなかったのかを弁解する能力」である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/チャーチル




14 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 08:44:42 0
ヨーク軍曹


アルヴィン・ヨーク(1887年 - 1964年9月2日)はアメリカの軍人。

アルヴィンヨーク軍曹 ナルキッソスの黄昏

1918年10月8日にフランスのアルゴンヌにおける戦闘で、自軍の10倍以上もの勢力があるドイツ軍を相手に戦って大勝利を納めることになる。 この「アルゴンヌの戦い」と呼ばれる戦闘でアルヴィン・ヨーク率いるアメリカ軍の兵士達は、その10倍以上もの規模を誇るドイツ軍相手に勇敢に戦い、25名のドイツ兵を殺害し、132名ものドイツ兵を捕虜にするという奇跡的な大勝利をおさめた。 この功績は即座にアメリカ本土へも伝えられて彼は一躍アメリカの英雄となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ヨーク軍曹




15 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 09:11:00 0
ヨハン・シュルトベルガー


19 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 10:50:17 0
銃火器が発達するまでは武勇に優れた猛将という人種は必要だった
ナポレオンの時代でさえミュラネイといった猛将がいた



ジョアシャン・ミュラ=ジョルディ(仏: Joachim Murat-Jordy, 1767年3月25日 - 1815年10月13日)は、フランスの軍人で、フランスの元帥、ナポリ王国の国王である。

ミュラ ナルキッソスの黄昏


恐らく同時代に類を見ないほど優秀な騎兵指揮官であり、ナポレオンの戦いには欠かせない貴重な戦力だった。素晴らしい騎手にしてサーベルを扱わせれば天下無双、勇気肝力全く欠ける所が無く、どんな乱戦にも真っ先に飛び込み平然と生還する勇者でもあった。長身で威風堂々とし、甘いマスクと気の利いた弁舌を備えた大変な伊達男で、自らデザインした派手な軍服に身を包み戦場を疾駆するその姿は、敵味方問わず感嘆の的だった。
自らを中世の騎士になぞらえ、そのサーベルには座右の銘「名誉と貴婦人の為に」を刻み、女性からの賛美の視線を何よりの喜びとした稀代の伊達男の最後は銃殺刑だったが、その折に彼は銃殺隊に「頭は撃つな、まっすぐ心臓を撃て」と命じている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ミュラ






ミシェル・ネイ(Michel Ney、1769年1月10日 - 1815年12月7日)は、ナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人・元帥。

カナウスの戦い ミシェル・ネイ ナルキッソスの黄昏

大陸軍ではナポレオン自身に次いで将兵に人気のあった指揮官で、不屈の闘志と人間離れした勇気で名高い国民的英雄だった。人となりは実直で努力家、同僚の多くと違って世俗的欲求にも恬淡としており、気前もよく部下達を物心両面で援助する事を惜しまなかった。
ネイはリュクサンブール庭園で銃殺されたが、このとき目隠しを薦められると「君は私が二十年以上も前から銃弾を直視してきたことを知らないのか?」と言い返している。なお、銃殺された場所には彼の銅像が立てられており、現在も献花が絶えないという。 最期の言葉は、
「兵士諸君、これが最後の命令だ。私が号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て。私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」
であった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ミシェル・ネイ




22 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 15:35:06 0
ミュラネイって戦場では勇敢なのに、
国家の大事に際して自分で何かを決断する、というのは苦手だね。



23 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 11:15:39 0
武勇と戦略的判断力は別物ということだろ

24 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 12:53:04 0
野球の武上氏(ヤクルトの監督や巨人のコーチを務めた)は
ヤクザ相手に立ちまわったとか命知らずで肝が据わっていることを示す逸話はあるのに、
管理職についている時はゴマスリとか保身を考えた小心さを示す話が多い。
場が異なれば要求される胆力も異なるということでは。



20 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 13:52:02 0
尉遅敬徳


尉遅敬徳(うっち けいとく、585年 - 658年11月26日)、尉遅恭(うっち きょう、)は、中国の唐の軍人。

尉遅景徳 ナルキッソスの黄昏

621年、竇建徳が板渚に駐屯すると、敬徳は竇建徳の大軍を挑発して堡塁から引きずり出し、李勣らの伏兵が横撃して、竇建徳を大いに破った。また王世充の兄の子の王クk阿・,旅陳襪稜呂鬚海豸・茲・靴望茲蟆鵑靴討い燭・・鋲舛呂錣困・圧海播┸悗望茲蟾・漾・ロ粍を捕らえ、その馬を引き連れて帰った。劉黒闥との戦いで、李世民・李勣らが奇襲を受け、敵に包囲されたことがあったが、敬徳は壮士を率いて敵陣に乗り込み、混乱に乗じて李世民は脱出することができた。また徐円朗との戦いでも功績があって、秦王府左二副護軍に任ぜられた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/尉遅敬徳



21 :世界@名無史さん:2010/10/16(土) 14:50:52 O
赤い男爵


マンフレート・アルブレヒト・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン(1892年5月2日 - 1918年4月21日)は、第一次世界大戦における帝政プロイセン陸軍の騎兵将校(航空士官)。

レッドバロン リヒトホーフェン ナルキッソスの黄昏

第一次大戦参加各国で最高の撃墜機記録(80機撃墜、ほか未公認3)保持者。乗機を鮮紅色に塗装していたことから「レッドバロン」や「赤い悪魔」の異名で呼ばれた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/レッドバロン




25 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 14:47:06 0
ヌルハチは少なくとも勇敢だな

ヌルハチ((1559年2月21日) -(1626年9月30日))は、中国後金の創始者(在位:1616年2月17日 - 1626年9月30日)。

清の皇帝 ヌルハチ ナルキッソスの黄昏

1618年(天命三年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父と父が明に誤殺されたことなどが書かれている。明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフ(薩爾滸)において、10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。数の上では満州の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、大勝した(サルフの戦い)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ヌルハチ




26 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 18:58:09 O
>>16
中国の猛将伝説も半ば物語の類だよなあ
そのレベルでいいなら西洋にもアーサー王やシャルルマーニュのような例がある


27 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 20:28:59 0
今の貧弱な中国人の体型や身体能力見ると
とても項羽呂布のような猛将がいたとは信じられない
あの当時でもまだブラック・アフリカに住んでる黒人の方が強いだろww


28 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 20:30:44 0
>>27
強い弱いなんて比較の問題だろw


29 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 21:54:18 O
貧弱だからこそ
異民族の血が入った「大男」が活躍したんだろ

30 :世界@名無史さん:2010/10/17(日) 22:51:39 0
ブラックアフリカの黒人は馬の扱いになれてないから
古代から軍事奴隷としては扱われてこなかったなあ
近代スポーツでは活躍してるけどねえ




転載元

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1287117993/





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