1 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 12:29:48.77 ID:GFisB66uP
自由民権運動の主導者として名高い板垣退助氏について語りましょう。

Itagaki_Taisuke_5.jpg


板垣退助
板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 1919年(大正8年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。
自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も民主政治の草分けとして人気が高く、第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

エピソード

家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じた退助は、晩年金銭的に困窮していたと伝えられている。1911年(明治44年)頃、人を介して秘かに杉山茂丸に刀を売ろうとした。茂丸が鑑定すると、備前大宮の初代「盛重」という名刀であり、茂丸は「これは何処で手に入れたか?」と、刀を持ち込んだ人に問うと、最初は躊躇ったものの、「実は板垣伯から君(茂丸)を名指しで、『買い取って貰うように』と頼まれて持参した」と打ち明けられた。

1896年以前のルイ・ヴィトンのトランクを所持していた。立憲政治視察のため後藤象二郎と渡欧した1882年から1883年の間に購入したとされる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/板垣退助







2 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 12:36:22.08 ID:V05/WX3a0
イマイチ信頼できなそうな人

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 13:46:04.44 ID:BHiAcmC10
そんなことない。いい人だよ。

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 14:10:51.87 ID:3Ua4k9470
板垣は元祖ネトウヨ





5 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 16:16:32.60 ID:O54hKzdr0
自由っていったいなんだい
どうすりゃ自由になるかい


18 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 22:35:34.87 ID:GJKfmcB0O
>>5
政治に意見しても
首が飛ばないのが自由


19 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/23(水) 23:19:57.57 ID:7oZtfO6X0
>>18
もしかして幸徳秋水以下12名が処刑された日は、日本で自由が死んだ日?
そういえば幸徳秋水も土佐藩出身だった。
板垣退助は幸徳秋水よりも長生きしているけど、何を思ったかな。


20 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 02:10:15.94 ID:A2swkRX70
幸徳の大逆事件は第一次大戦前夜の欧米の爆弾テロブームを過剰に
警戒してた当局による過剰防衛やね。

国際テロをめざしたアナキストによる爆弾投げは当時のブームだった。


22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 21:29:50.12 ID:pIDH0ZRv0
>>20
でも実際に爆弾準備してたんでしょ?


24 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 16:07:58.74 ID:EltBVUmm0
>>22
宮下太吉、管野スガ、森近運平、新村忠雄、古河力作の5名を除いては
幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽にしたい政府の暗黒裁判とも言われている。

幸徳 秋水
 少年時代より自由民権運動に関心を持ち、15歳の時「自由新聞」の読者となる。
 その後、中江兆民の書生となり、終生恩師として仰ぎ、思想的にも人格的にも大きな影響を受けた。
 新聞記者としての秋水は文筆家としての名声を高めるとともに、種々の社会問題に接して次第に社会主義思想に傾いていった。
 明治34年社会民主党を組織し、直ちに解散させられたが、社会主義協会に結集し活動を続けた。
 「二十世紀の怪物帝国主義」の論文はこの年出版、レーニンの帝国主義論に先んずること15年、先駆的理論家としての驚異に値する。
 日露戦争中、非戦論を唱え活発な反戦活動を唱え活発な反戦活動を続けた。
 明治38年平民新聞筆禍事件の編集者として入獄中、エンゲルスやクロポトキンの論文を読んで無政府主義に関心を抱くようになった。
 出獄後、アメリカに渡り、オークランド、ロシア革命記念集会で演説を行う等、大いに活躍。ロシア革命に共鳴して、サンディカリズムの傾向を強くしていった。
 この間に書かれた論文で日米戦争を予言し、戦争回避を絶叫したのは名高く、洞察力は英才の一面を表したものである。
 帰国後、第2回社会党大会で直接行動論を唱え、議会政策論者とのはげしい論争がはじまり、ついに2派に分裂した。
こうして見ると面白い人物だな。


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 23:41:29.61 ID:NZuD9Zi4O
>>19
権力に逆らっては叩き潰されるのが
土佐人の一種の定番なのかも





6 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 16:28:34.25 ID:3Ua4k9470
板垣は元祖中二病






8 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 18:58:13.31 ID:iILUasHI0
自由民権運動全般を語る方がよかったんじゃないか?

若い頃は血の気が多くて喧嘩に明け暮れ兵学書ばかり読んでいたが、
吉田東洋の感化で真面目に勉強に打ち込み、
維新後はプロテスタントに改宗し清貧な暮らしぶりの人物だったそうな。


吉田東洋
4.jpg

吉田 東洋(よしだ とうよう、文化13年(1816年) - 文久2年4月8日(1862年5月6日))は日本の武士・土佐藩士。
法律書「海南政典」を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易など、富国強兵を目的とした改革を遂行する。しかし、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、文久2年(1862年)4月、帰邸途次の帯屋町にて土佐勤王党の那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助によって暗殺された。享年47。

http://ja.wikipedia.org/wiki/吉田東洋



プロテスタント

プロテスタント(英語: Protestantism、Protestant)は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教諸派の総称である。日本ではローマ・カトリック(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。
聖公会(英国国教会)は、カトリック教会から分かれてプロテスタントの教義から影響を受ける一方で、カトリック教会の信条・職制・典礼等を引き継いでいるという経緯がある。そのため、聖公会をプロテスタントに分類する見解もあるが、聖公会は自身をカトリックとプロテスタントの中間として位置づけている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/プロテスタント








11 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/08(火) 13:42:51.29 ID:Um7UwIHv0
板垣退助と後藤象二郎が手の付けられんガキ大将だったらしいな。

後藤象二郎
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後藤 象二郎 / 象次郎(ごとう しょうじろう、天保9年3月19日(1838年4月13日) - 明治30年(1897年)8月4日)は、幕末の武士(土佐藩士)、明治時代の政治家。

エピソード

日本人で初めてルイ・ヴィトンの製品を愛用した事でも知られている。彼はパリの本店で鞄を購入した。
板垣退助とは幼馴染であり、共に吉田東洋の家塾(少林塾)に学んでいる。互いに「いのす」(猪之助=板垣)「やす」(保弥太=後藤)と呼び合う仲で、幼少期の二人が喧嘩をした際、後藤が蛇を苦手とすることを知っていた板垣は、決まって蛇を持ち出して後藤を退散させていたと伝えられる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/後藤象二郎



12 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/11(金) 00:11:16.91 ID:ynF3BCOpO
戊辰戦争で領民に見捨てられる会津藩士を見て
身分の差で国民同士が乖離してる状態に危機感を抱いたのが
後の自由民権運動へと繋がるんだっけ。


13 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/14(月) 05:06:55.07 ID:vsN6tmbM0
だったらそれ以上に上士と郷士の反目が激しかった高知藩から繋がるだろう
どこソースの話?


14 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/16(水) 21:22:01.99 ID:L1kGgneg0
>>13
板垣が依頼されて書いた「会津戊辰戦争」の序文じゃなかったか。
ちなみに板垣はこの時期すでに勤王派下士達と和解して協力体制。


23 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/26(土) 21:31:42.72 ID:pIDH0ZRv0
>>13
普通だったら、領民は侵略者に対して協力をあまりしないモノなのに、
会津の場合は、領民が積極的に道案内をしたからな。

だから、板垣は思うとこがあったみたい。







15 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 08:32:39.42 ID:ag0yuMAp0
大山や野津のように軍人であることに
徹していたら、日清戦争と日露戦争の
ヒーローだったのに...


16 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 17:58:57.25 ID:kbnkPcH2O
軍人としてなら天才的だと言われていたのになんで政治家に転向したのやら。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/18(金) 22:38:51.96 ID:Ud85SKyN0
征韓論に破れて下野したんじゃなかったか?
軍事的天才が在野のまま才能を発揮しようとしたら、不平士族の頭目になるしかない。
内乱に与せず自由民権運動に活路を見いだしたというのだって、軍事的な才覚の一種かも知れない。


21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 22:40:44.97 ID:l4sJSd0k0
>>17
そういえば土佐は不平士族の反乱起きなかったな。
自由民権運動と関係あるのか?








27 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 23:17:02.80 ID:LV67Brko0
藩閥政府の非主流派かも。
中江兆民による「一身多頭の怪物」という表現には、インサイダー臭が感じられる。

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/09(土) 00:35:37.09 ID:6D/vacLp0
板垣や幸徳の民権思想は土佐藩の中では主流派だったのだろうか、異端だったのだろうか。


32 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/03(金) 16:04:36.81 ID:8jACYaJx0
>>28
板垣は新おこぜ組。
新おこぜ組の先生が吉田東洋で、
上士、下士の身分を撤廃しようとした人。
家督制の芸家も廃止しようとした。

吉田東洋は開明派だったので、
身分制度撤廃に反対していた藩重役の守旧派を味方に付けた
尊皇攘夷派の土佐勤皇党に暗殺された。
つまり土佐勤皇党にとっては尊皇攘夷>身分差別撤廃だった。

だから板垣は一時期は土佐勤皇党たち下士を憎んだが、
下士に暗殺された東洋の考えを汲んで和解した。

だから土佐の民権運動は東洋に遡ると言えないこともない。
武士ですらないジョン万次郎も藩校の教授だったし。

もちろん征韓論敗北による下野がきっかけだったとは思うが、
下野した人の中で全てが自由民権運動に移行したわけではなく、
板垣と後藤は民権意識が高かったのではないだろうか。



29 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 06:49:44.93 ID:WRb4nhfE0
天才軍人、政治も天才的。
ユリウス=カエサル
ナポレオン=ボナパルト
武田信玄
織田信長
天才軍人、政治の才能まるで無し
源義経
グラント大統領
板垣退助


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/21(木) 19:34:32.88 ID:umLICzW40
政治も天才?
晩年は民権運動に私財を費やし
拝領物の刀まで手放すほど経済的に困窮していたのに。

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/27(水) 08:48:24.34 ID:tCeXe+4z0
>>30
一行目以降も読んでから書き込む事。






35 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 12:51:13.26 ID:GQ4zCIeE0
土佐勤王党が壊滅せずに勢力を盛り返したら
長州の正義派が俗論党を弾圧したように板垣、
後藤らも弾圧されて維新史から排除されただろうか?


36 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 15:18:07.85 ID:MdrJ+tvD0
いや、長州も土佐勤皇党に相当する人たちは、
久坂を筆頭にほぼ同時期に死んでるし。


38 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/22(月) 17:50:13.26 ID:nUr23J7/0
>>35
板垣退助は最初から尊皇攘夷派。
武市の存命時から協力しようという動きはあったよ。

ところで自由民権運動ってあんまり評価してない政治学者もいるみたいね。



45 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/18(日) 23:11:08.69 ID:xoFLGjLx0
大日本帝国憲法発布の恩赦でシャバに戻った相原尚?は真っ先に板垣に謝罪しに来たんだが、
その際板垣は「君の行動が私怨によってではなく天下国家の為を思ってやった事だと分かっている。
もし私が国の為にならない事をやったとしたらもう一度刺せ」と言って許してあげたそうだ。

愛国烈士の板垣伯最高




7 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/07(月) 16:29:34.48 ID:3Ua4k9470
まともな精神してたら「板垣死すとも自由は死せず」なんてそら恥ずかしいこと言えるわけが無い

47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/19(月) 17:35:56.67 ID:VK+LfujoO
>>7
いや、現実にはそんなカッコいいことは言わなかったらしいよ。
本当は「いて~ぇ、医者を呼んでくれ」という、極普通の反応だったそうだ。

板垣死すとも自由は死せず、ってのは、誰かが板垣暗殺未遂事件のことを書いて、「板垣が死んでも自由は死なない」ってことを書いたのが、後に板垣が刺された時に言った言葉とされたものらしい。

48 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/26(月) 15:48:12.72 ID:u9ZUGZ9r0
でも当時の警察文書でも板垣がそういう風を言ったという記録がある


50 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/29(木) 23:11:15.98 ID:k8nNE+Z30
>>47
48氏も言っているが、板垣を監視していた政府の密偵が報告書に
書いてるんだから、100パーセント事実だと思うよ。


60 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 19:30:42.36 ID:p903A26m0
>>59
戦後になって公開された、事件当日の警察の調書にもはっきり書かれていたらしいね。





55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/23(月) 09:19:01.39 ID:TX3+qJ9MO
板垣の葬儀委員長って、原敬だったんだね。
時の総理大臣で自由党の流れをくむ政友会の総裁だから
わからんでもないんだが、両者に深い関わりがあるとは
思ってなかったので、意外だった。
他に任せるような親しい側近が残っていなかったんだと
したら、なんかちょっと寂しいね。


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/24(火) 20:52:50.94 ID:bTRmaHIW0
原敬は岩手県出身か。

薩長土肥のどれでもなかったから、日本最初の政党政治家と言われるわけだな。

NHKの番組で御厨某が喋った話を聞いていると、
西園寺が政党政治家とかもうデタラメもいいとこだった。

岩手出身の政治家で他に有名なのを調べてみると、東條英機、後藤新平とかがいた。
板垣征四郎は軍人だけど、藩閥支配からの脱却を象徴する人かもしれない。


61 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/06/06(水) 19:41:52.09 ID:p903A26m0
戊辰戦争で板垣退助のために武器調達を担ったのがTOTOの創業家の森村市左衛門(六代目)。
維新後に帝国陸軍との軋轢を起こして陶業に転身するまでは、祖父の代から土佐藩御用達の武器商人をしていた。



57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/27(月) 09:58:12.23 ID:bwmJEKN60
髭を伸ばす自由



        転載元 自由は死せず! 板垣退助氏のスレッド
     http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1299468588/