404 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/02(月) 22:30:40.29 ID:K/z0oXMh0
東京出身の祖母は幼い頃には使用人に囲まれて不自由なく暮らしてたそうだが
戦争終了時には身寄りも使用人もいなくなってしまった。
農家に着物を持って、食料と交換しに行っても、足元を見られてまともに食料を分けてもらえなかったらしい。
なので、祖母は今でも田舎者や農家が大嫌いw
相手が田舎出身だったり農家出身だったりするとあからさまに嫌そうな顔をしてた。失礼極まりない。

高級な着物を献上しても僅かな野菜としか交換してくれない農家が、熱を出した子供のおでこに
きゅうりの薄切りを乗せて熱を覚まさせているのを見て、惨めな思いをしたと言ってた。

405 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/02(月) 23:26:17.50 ID:DKa2GikD0
戦中は身内に戦死者が出ても悲しんだ素振りを見せてはいけない、
というのが常識みたいになっているが、
我が家に伝わる話だと、祖父の弟が戦死した時、人が大勢いる前
でその報を聞いた曽祖父は人目も憚らず号泣したと言っていた。


406 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/03(火) 01:46:36.57 ID:z2yNKTRb0
親が子を泣き、子が親を泣くのは儒教的倫理観だからね。
そういうのは許容されていたと思われ。妻が夫を泣くのに厳しかった。



408 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/04(水) 08:32:43.50 ID:WBQduwPZO
うちのお婆ちゃんは大正初期の九州生まれ。今では認知症ですっかりボケてしまったが、子供の頃いろいろ話してくれた。
明治六年生まれの父親は士族への俸禄カットで辛酸をなめつつ苦学して師範学校へ行った事。
文政元年生まれの祖父(明治初期に撮った写真も残ってる)は命懸けで倒幕運動に参加したとか、江戸に上る西郷さんを家に泊めたとか些末な事だけど今思えば貴重な証言かなと思う。
ありがたや~ありがたや~






412 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 01:19:18.81 ID:HY9I0uHBO
>>409
408だけど婆ちゃんは十人兄弟の7女。曾祖父もそれなりの兄弟がいたみたいだか細部不明。彼は長生きして敗戦後1950年代まで生きてた。
敗戦間際、村の皆が「米兵、支那兵が来て男は殺され、女は皆襲われる」と言って山に逃げる中「僕は逃げない!この家で討ち死する」といって曾祖母と2人だけで残ったらしい。
考え方がお侍なんだね。







423 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/14(土) 14:36:43.68 ID:wa+9VgnP0
私が幼い頃に住んでいた祖父母の家には
天井に焼夷弾が落ちた跡があった
義理の伯父の父母の墓には鉄の門扉が付いていたのだが
それも戦時中に没収された
父は終戦時に国民学校の生徒で玉音放送を聴いた記憶もはっきりしてるのだが
「ああ終わったんだな」と思っただけで
悔しいとかそういう感情は不思議と起こらなかったと言っている







428 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/27(金) 11:29:37.94 ID:gKAMAI1p0
2・26事件の時にまだ幼かった父親が風邪をこじらせて肺炎で入院してた
祖母によればその日は停電になって病院も大変だったらしい




430 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 14:52:49.94 ID:kZwAzTKj0
俺のひいばあちゃんの話だ。
今も御存命していて104歳、何個か聞いた話が有るので最近の話からしていく。

先祖は北條家に仕えていたらしいけど、詳しくは忘れた。
ひいばあちゃんは二十代目。

女性に参政権?選挙権が与えられた話はしっているよな?
ひいばあちゃんは初めての選挙の日、家紋の入った装束的な服を着てったらしい。



431 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:00:45.85 ID:kZwAzTKj0
戦時中の話。
俺のばあちゃんの弟の話。
弟さんは負傷者とか載せてる大型機のパイロットだったんだって。
そうゆう機体には目印が有って、攻撃してはいけないんだけど、米軍機に撃墜されて戦死。
正月にばあちゃんが泣きながら話してくれた。


432 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:07:31.20 ID:kZwAzTKj0
同じく戦時中、書き忘れてたけど第二次世界大戦ね
ひいばあちゃんは金持ちで、でかい寺に住んでた
寺って大きいから、空襲に来た米軍機が故障で投弾できなかった爆弾を捨てていく時、標的にされるんだって。
だから防空壕作ったらしいんだけど、近所の人たちも作ってたのは知ってたから、いざ空襲の時作った本人たちが入れなかったそうな。
それでもひぃばあちゃんが、自分たちは良いからせめて子供は入れてくださいってお願いしていれさせて貰ったらしい。
ひいばあちゃんとひいじいちゃんは寺でラジオ聞いてたって。


433 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:18:02.89 ID:kZwAzTKj0
空襲が酷くなって、ばあちゃんが疎開した時の話
場所は忘れたけど、海の直ぐ近くに疎開した
海が近くなので当然海に地元民と泳ぎに行く、当然ばあちゃんは水着を着るけど地元民は男女かまわず全裸
ぼんぼんで育ったばあちゃんからしたら衝撃だった、地元民に「おめえ何服きて海に入ってるんだ」と言われて水着を脱がされたと笑いながら話してくれたよ
最初は恥ずかしかったらしいけど直ぐに慣れて遊んだって。
予断だけど疎開してた場所に戻って、直ぐ又をおばさんに洗ってもらったらしい。(砂が入って痛かった)


ってか昔で小中高大を通うって凄い事なんだな。しかも女で。


434 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 15:19:35.39 ID:kZwAzTKj0
>>432
寺に住んでたって書いてあるけど、今も住んでます。
他にも色々話有るけど、要望が有れば書く

質問も受け付けます





437 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:17:52.16 ID:MvNYLOgFO
坂の上の雲で思い出したんだけど
「♪すずめ~メジロ~ロシア~野蛮国~クロパトキン~金ダルマ~負けた~タカジャッポ~ポンヤーリ~陸軍の~乃木さんが~凱旋す~」
って歌歌ってたけど、タカジャッポとポンヤーリって何だろう?


446 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 11:06:40.65 ID:gUCO0fTT0
>>437
タカジャッポは山高帽子の事じゃないかな?
昔の人は帽子をシャッポと言ったりしてたからね
洒落男という戦前の流行歌があるが
その歌詞に「山高シャッポにロイド眼鏡」とある
山高シャッポが縮まってタカジャッポになったのでは?
>>440
食糧難と言えば戦時中は場所さえあれば芋畑にされてたそうだね
父が当時通ってた国民学校の校庭も芋畑だったらしい



438 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:31:17.71 ID:epFTmjOl0
いいや、書くww

ばーちゃんから聞いた話。


まず先祖が代々武士だったらしい。
家系図もあるようで(後で触れます)。
というのも、先祖が奥州の伊達家につかえてたそうです(家紋が前田慶次と同じなのでああ、マジなのかな、とも思う)。

幕府が終わって何代か変わるうち、
いつしか白虎隊(?)とかいうやつの隊員になった先祖がいた。
それがひいじいちゃん。
白虎隊だかは政府に潰されたかなんかして解散、
山形で団子屋を営んでたそうな。

で、ある時、突然北海道に来て「よだべんぞう」(?)らと土地を開拓。
子宝に恵まれ父となり、祖父となり、俺が産まれる前に亡くなったそうな。
俺は道産子4代目。
今日も楽しくやっております、
御先祖様。


上で述べた家系図ですが、
山形の家にあるそうで。

同じ血をわけた顔も知らない人が持ってんだろなぁ..。

この先祖がなんとかって話、
代々引き継がれて来た話だそうです。

親から子へ、親から子へ...
なんか不思議な気分ですね。


一応友人の爺さん2人の戦時中ショートエピソードも知ってますが、
需要ありますか?



459 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 15:45:18.70 ID:gVRp/7UO0
>>438
依田勉三は、超メジャーな開拓者じゃないですか!
すごいね!
私、内地出身ですが、8年間北海道に住みました。
近くのおばさんが樺太からの引揚者で、ロシア人に子供の靴を盗まれて取りもどした!という話を聞きましたw



440 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:37:47.62 ID:AN8qurCY0
>>434
戦中戦後の食糧難の話
玉音放送の日のこと
女学校時代の話

ここらへんあったら頼む。


441 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 22:48:07.11 ID:QPkcJyuv0
夜這いの話
銃剣装着の話
牟田口の話が聞きたい


443 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:14:32.55 ID:kZwAzTKj0
要望が有ったので戦時中の食糧難の話し。
現在と比べると天と地の差だが、当時我が家は裕福で有る程度は食べていけてた。(当時の水準で見た場合の話)
満足に食事を食べれない中、せめて正月くらいはおいしい食べ物を食べさせてあげたいと言う、ひいばあちゃんの親心
無理して餅や食材を集めたは良いけど、お雑煮に使う調味料が無い
悩んだひいばあちゃんはスルメのダシを使って味をごまかしたんだ
その味実は凄く美味しくて、それ以来我が家定番のレシピになったと言う話し
食糧難って言えるのかなこれ?とりあえずこんな感じです。


444 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:29:25.59 ID:kZwAzTKj0
玉音放送の日の話を…
当時ラジオは高価で、金持ちが周りの人達に放送を聞かせてあげてたらしい。
玉音放送の日、ひいばあちゃんの家(寺)に人々が集まってくる
放送が進むにつれて、すすり泣くと言うか、鼻をすする音と共に声が聞こえてくる
その内容が、「負けるはずが無い」だとか「ふざけるな」だとかそんなのじゃなくて実際は
「やっぱりな」だとか「惨めだ」とか「悔しい」といった諦めとかそう言った感じのだったらしい。
中には竹やり五本くらい背負い、有志を集ってロシアに行こうとする人もいたらしい(漁師の方々)
そこでひぃじいちゃんが演説してまとめ戦後の混乱とかを収めていったと聞いた。
今でもその事に恩を感じてる人がたくさんいて毎年年賀状きます。




442 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:13:56.44 ID:3/+JdbhOO
俺の大正生まれの婆ちゃんから聞いた話なんだが、実家が大塚のあたりで菓子屋をやってたらしい。
それも下男とか女中さんが居る位大きいお店で皇室御用達で政治家にも贔屓にされてた店だったそうな。
ある時婆ちゃんが手伝っていてお菓子の鍋ひっくり返した時、頭からかぶっちゃって大やけどを負っちゃったらしい。
女の子なのに頭に醜い火傷の跡が残るのはかわいそうだってんで医者を探しまわったら、
20円くれたら綺麗サッパリ直してやるって医者がいたらしい。
当時なら家が立つくらいの大金だったから、非常に親も悩んだそうだが
常連の政治家が「それなら僕が立て替えましょう。」って立て替えてくれたそうだ。
それで綺麗サッパリ火傷も治ったそうだが、憲兵さんが よく治り具合を確認しにきたらしい。
その政治家はかの鳩山一郎氏だったとのこと。
もし跡が残ってたらなら詐欺で捕まえるつもりだったのかねぇとは婆ちゃんの談。









445 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/02(木) 23:41:49.31 ID:3/+JdbhOO
それとこっちは大正生まれの祖父の話。祖父は惚けるのがうまい人で戦争中の話しはしてくれなかったので、祖母からの又聞きになってしまうから真偽のほどは定かじゃないんだが。

祖父が学生の頃戦争が始まったが、どうしても戦争に行きたくなかった祖父は必死に勉強して帝国大学の工学部に入ったらしい。
それで戦争が長期化して学徒動員が始まった頃に、なにやら委託学生なる形で陸軍に徴兵されたらしく戦車の設計などを行っていたらしい。
この委託学生、身分が将校扱いだったらしく秘書みたいな女子学生が一人つけられて、食事も三食米が食え、さらには羊羹がおまけでついてきたらしい。
この羊羹を女子学生にわけてたからモテモテだったと祖母に自慢してたらしいが。
それで戦争が終わったあと食料を手にいれるために化学メーカーに就職したんだと。化学肥料の生産をしてた関係で米の特別配当があったらしく、余った米と交換することで色んなものが手に入ったらしい。





447 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 12:23:56.10 ID:5UUdLHr80
昨日書きこんだものだ
戦後直ぐの話を書く
終戦後、アメリカ軍は国道五号線が有る海の方向から上陸して
千歳の基地にむかって行ったらしい、そこで意地の悪い軍人は空のキャラメルとかを投げて集まってくる子供を見てバカにしたりしてた
けれど投げてたのはそういった物だけじゃない
当時、日本人はしらみだらけで汚かった、髪には黒いしらみ、体にはしろいしらみ
そこでアメリカ軍は空中からDDTと言う薬を札幌全域に投下したり、ホースを使って直接人にかけたりしていた


448 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 12:57:22.39 ID:1VnKS0qH0
死ぬ前に祖父から聞いた後悔と懺悔の話しを
私の祖父は医療士官として、終戦間際に広島に着任していた
理由を聞いてみたが、祖父は原爆が落ちるのを知っていた上官と夜逃げしてしまっていたらしい
副官、司令官、司令官と懇意の士官を連れて異動と称して逃げ出してしまった
後にやはり広島に原爆が広島に投下された。
あの時、置いてきた人間の事がわすれられないらしく、毎年歩けなくなるまで平和公園に祈りに行っていたのを思い出す


449 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:09:10.52 ID:z/Jqc+Rb0
ウソみたいなウソの話しがまぎれこんでないか?ww

450 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:19:48.77 ID:1VnKS0qH0
まあそう言われても仕方ないかもね
傍目から見たらそう思うかも


451 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:33:27.43 ID:golDCuK30
死んだ爺さんから聞いた話だが
爺さんが5歳くらいの時に爺さんの爺さん(俺から言わせると曾祖父の親父か?)
が狐に騙されたらしい


酒を飲んだ帰りに綺麗な着物着た姐さんに話しかけられて(今で言う逆ナンパ)
意気投合し恐らくセクロス的な流れになったんだと思う

風呂を沸かしてあるので入れと言われwktkしながら入ったんだろうな
んでオチから言わせると肥溜めだったんだけど当然綺麗な姐さんはいないし
婆さんも近所の目もあるのでカンカンにキレていたらしい
爺さんも現場見たって言ってたわ
因みに湯加減最高ですげぇ気持ち良かったと言ってたそうだ


452 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 15:53:07.09 ID:5UUdLHr80
身内ネタならもう何個か有るけど需要ある?
お手伝いさんの話とかなんだけど…
後兵隊さん二十人くらいと同居してた話




454 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 16:03:17.82 ID:z/Jqc+Rb0
「なんかイヤな予感がする」というのと「原爆投下を知っていた」というのは
ぜんぜん違うことだ。常識的に考えて、海軍の主要都市である広島と長崎が
それまでまったく空襲の対象になっていなかったことを常識的に考えられる
立場にいるひとなら、なにか恐ろしく悪い予感はしていたはず、とこれくらい
なら言える。


456 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/03(金) 20:22:08.09 ID:S22RwJwU0
淡路島の洲本城には昭和の初めまでちょん髷姿のおっさんが城の門番をしていたらしい。


457 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 01:22:08.56 ID:0f4i0nE30
本からの知識で申し訳ない。
俺が面白いなぁと思った話。

・戦中の銭湯
資材不足で週に1、2回しか銭湯が開かない。もちろん各家庭にお風呂はない頃。
人々は銭湯の煙突をチェック。煙出てたら、みんなで殺到。
洗い場も順番待ちなら、湯船も行列。
前のひとの頭を目の前にするほどの、すし詰めの湯に入る。
足なんて伸ばせないから、肩まで浸かれなかったとのこと。

・切符の販売制限
ひと駅あたりの長距離切符の販売枚数は決まってるので、徹夜で並ぶ。
真冬とかは、学帽や外套に霜おりても並んでる。
買えなかったら、その列はそのまま翌日の行列に移行。
チッキでもそうだった。


458 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 06:01:05.11 ID:i5d+i6b3O
終戦間近か後かは、この時代について知識ないからわからないけど、祖父はグアムで戦ってどんな流れかで、最後沖縄で米軍の捕虜になったのか、なりそうだったのかわからないけど、
長崎の戦争時をまとめた写真集?みたいなのに沖縄で米軍に銃を突きつけられて手を上げている祖父が載っている。


もし、それっぽい本を持っている方いたら、ちらっと見てみてください。

ちなみに戦後、沖縄からやっとこさ自宅に帰ったら、自分の遺影があったみたい。



460 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/04(土) 16:21:02.06 ID:GfTFlxvy0
祖父が大正時代に甲府連隊にいた
新兵訓練の一環だったんだと思うが
横浜から甲府まで行進した事があったそうだ

祖父は私が生まれるずっと前に亡くなってるが
その当時の写真が残ってる


461 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/06(月) 05:07:58.43 ID:XVQq8hIM0
昔勤めてた会社の会長さんが、零戦パイロットでした。大正生まれ。
大学在学中に学徒動員された組らしい。
腕は良かったんだけど、ちょっと反抗的だったから戦地に送るんじゃなくて
零戦パイロットの教官をやらされて、国内を転々としたらしい。
若い奴を教育してちょっと飛べる様になったら戦地に送られて帰ってこなかったのが
一番辛かったって、言ってた。ちょっと涙ぐみながら。


462 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/07(火) 23:05:44.03 ID:Cr9VtRB5O
戦前は田舎だと混浴が当たり前だったから
海水浴も当然みんな全裸だったんだろうな。
昔は本当におおらかだったんだな。
俺の婆さんも子供の頃昼間から縁側で裁縫なんかしてる主婦を夜這い?に行く若い男をよく見かけたって言ってたな。
お使いに行ったら、丁度縁側でエッチしてるところだったとかw







465 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 02:27:36.50 ID:MAlY+9H0O
自分の祖父もずっと褌だった。
褌がシャキッとして一番気持ちいいと言ってたから、若い頃にパンツをはいたことはあるらしい。

明治42年生まれ。99まで生きた。
30だか40代だかで徴兵されて、中国へ。
自分が子供時代に、おじいちゃんは人を殺したんだ、と懺悔されて、わからないくせに、戦争だったんだからと慰めたこともあった。
中国では、敵地で、ぬかるみの湿原を順番に渡る時、隠れてる敵に機関銃で狙われ、
兵隊の中では若くもなかった祖父が遅れて撃たれそうになると
先に安全地帯に辿り着いた上官だか同僚だかが、○○(名字)!右だ!左だ!と誘導してくれたのが有り難かったと。
復員した後は画家として大成した戦友が、中国ではボール紙に祖父の似顔絵を描いてくれて写真代わりに家に送ったこと、
その人は上官の似顔絵も描いて、お礼に上官から貰ったタバコを、タバコ好きだった祖父に分けてくれ
中国では本物のタバコを補給できず、乾燥させた雑草を辞書の紙で巻いて紙巻きタバコ代わりにしていたから、大変有り難かったことなどを聞いた。

祖父の息子である父は昭和8年生まれ。
父にはすぐ下に弟がいたが、就学前にチフスで幼くして亡くなっている。
父や父の妹への感染を防ぐため、隔離病棟に祖父が泊まり込みで世話したらしい。
当時はろくな治療もしてやれず可哀想だったと、60年以上経っても忘れらなかったようだ。

優しい祖父で、幼い頃はよく遊んでくれたし、自分の両親が早く亡くなってからは
最後まで自分を気にかけてくれた(母が亡くなる間際、祖父に頼んだらしい)。

しかし、明治男だけに一本筋が通っており、だらしないことや曲がったことが大嫌いでもあった。
脳梗塞で倒れる前日まで規律正しい生活を崩さず、毎日散歩をし、携帯なんかにも興味津々だったな。
トーストにコーヒー、野菜に漬け物と桃が好物で
おじいちゃんは農家の出だから野菜をバリバリ馬のように食うのが好きなんだ、が口癖だった。
農家の出ではあったが、昭和のアマチャンの自分などからしたら、武士みたいにストイックだった。
商売は下手くそで、何度か事業を始めては失敗し、家族は苦労したらしいが
何故か周りに人が集まって、○○長と頼られることが多かった。


466 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/13(月) 05:32:55.55 ID:yZstDpbPO
うちの爺さんから聞いた話しだが、戦時中は防諜活動みたいなのが厳しくて、単なる一般人ですらその対象になっていたらしい。
それこそ憲兵やら警察やらが目を光らせ、高圧的に職質したりしてたとか。
かなり息苦しかったらしく、うちの爺さんはぶちギレてわざと憲兵の前で、友人に、
貴方スパイですか?
スパイだな。スパイさん、お腹空きましたwww
とかふざけてたら憲兵に見込まれて、憲兵の事務所に連れていかれたんだって。
それ以来、今でも俺は元憲兵だと豪語してる。
あげくの果てには、外人見る度に後をつけるし、
「あいつは怪しい奴だ」とか言いながら孫の後を追うし、しまいには晩飯作ってる婆さんに「国家反逆の嫌疑がある!」って…。
カーネルおじさんに天誅と書いた貼紙を貼った時は泣きたくなったよ…。


467 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 00:37:29.50 ID:jGTgkXgBO
>465続き

前述の祖父以外から聞いた断片的な話。

父は昭和8年生まれ。幼い頃は祖父の商売も上手く行っており、家には使用人も多く、苦労知らずでボン(関西の言葉でぼんぼんは、甘やかされた金持ち息子の意)と呼ばれていたらしい。
生前、父が50代の頃も、法事で会った年上の従姉妹にボンと呼ばれて苦笑いしていた。
昔の写真は確かに、写真館でめかして撮影したものばかりで
おかっぱで着飾って女の子のようだった。

家業が洋菓子屋だったので、戦前はよく家に友達を連れてきて、商売で作ったカステラの切れ端が食べ放題だったのを振る舞って喜ばれたらしい。
戦争が始まり、原料が手に入らなくなり、祖父も兵隊に取られ、ええとこのお嬢さんだった残された祖母は
数ある嫁入り道具や着物を売ったり、交換したりして二男一女を食わしたそうだ。
父は長男だったため、次男長女とは別格の待遇で、祖母すら、まだ子供の父を何かにつけ優先したらしい。
例えば、食事時に飯をよそう順番ひとつでも、一番が家長である祖父、次が長男である父
次男長女祖母はまとめて一緒くたのような扱いだったらしく
父の妹弟なども、長男の父に刃向かったり対等に喧嘩したりは一切なく、同じ兄弟ではないような扱いだったらしい。

父は父で子供時代から帝王学とまでは行かずとも、母親である祖母よりも上に立たされて、正直しんどかったようだ。
祖父不在中はもちろん、まだ小学生の父が家長。
子供ながらに家族の生活に責任を感じて、電車に乗って遠く離れた闇市に米を買い出しに行ったり、随分幼い頃から家長としての自覚があったらしい。
12歳で終戦を迎え、優等生の軍国少年だった父は、教師が一夜にして、昨日までの授業で教えた価値観を否定したことに
教師という人種は信用ならんとショックを受けたと言ってた。
戦後はアメリカ人の家庭で洗車のバイトをして家計を助けたが、勉強が好きで大学進学を希望し
受験して受かったのに、祖父に経済力がなかったため、ここでも家長として働き手にならねばならず、これは随分こたえたようだった。
軍国少年が抜けきらなかったのか、自衛隊に入営。
北海道の基地に駐屯しながら家族に仕送りを続けたが、体を壊して除隊。
しばらく家で療養した後、採用された大手アパレル企業で母と出会い結婚した。




468 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 01:08:27.72 ID:jGTgkXgBO
母は、子供時代から家が貧しく、口減らしに10歳の時に遠縁の尼寺へ養女に出された。
貰われていく時は、他の兄弟姉妹は同情したらしいが、いざ養女になってみれば
貧しい家に残った子供達より大切にされ、食事も豊かにあり、母の妹などはちょっと羨ましく思ったそうだ。
この妹、自分の叔母の下に弟が一人、上に、体が弱く神経質な姉がおり
父方の家庭と同じく、当時は全て男の子が大切で、体の弱い姉と一粒種の男の子に両親の愛情を奪われて
彼女は子供時代、随分寂しい思いをしたらしい。

この叔母は現在70代で存命だが、以下は最近になって初めて聞いた話。

姉と弟に両親がかかりきりで、彼女は朝晩も満足にご飯を与えられず、子供時代はガリガリで常に空腹だったらしい。
昼休みは弁当なんかもちろんないので、普段は水を飲んで我慢していたが
ある時に、何か提出する書類を忘れて昼休みに家に取りに帰ると
縁側に弟が腰掛けて、店屋物の天ぷらうどんを取って食べさせてもらっていたらしい。

自分は毎日水を飲んで時間を潰して我慢してたのに、と思うとあまりに悲しくて家に入れず
木戸で引き返し、泣きながら学校に戻ったそうだ。

彼女は中学一年生くらい、弟は小学生だったらしいが、あんまり傷ついたので、これまで誰にも話せなかったらしい。
自分も、幼かった飢えたひとりぼっちの叔母があまりに可哀想で、聞いて涙が出た。

尼寺に養女に行ったうちの母は、跡継ぎになる期待を裏切って就職して父と結婚してしまい、自分が子供の頃
当時はまだ珍しかった癌で、若くして亡くなった。

前述の気の毒な叔母は、すぐ上の母を慕い、母が結婚してもよく我が家に泊まり込んで子守をしてくれ
母が病を得てからは献身的看病をし、亡くなって後は母代わりになって、よくうちを助けてくれた。

自分が小さい時は『愉快な叔母さん』という印象で明るい面白い人だった。

まさか、その彼女がそんな悲しい子供時代を送ったとは、つい最近まで知らなかった。
もっとも、当時は戦後の貧しい時代で、叔母のような子供は珍しくなかったようだが。

彼女が、うちの家族の一人と子供が思うほど我が家に入り浸って、母を慕って
よくしてくれたのは何故なのか、若かった頃は今ひとつわからなかったんだが
そんな事情で、生家だというのに、叔父に嫁ぐまでは身の置き所がなかったためだったそうだ。

469 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/14(火) 17:06:57.23 ID:0XdK/EsG0
本書いて小銭稼いで綺麗な墓建ててやれ



471 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/16(木) 00:52:11.23 ID:QmEOuB4t0
こんなスレあったんだね。

婆ちゃんの弟が五・一五事件で犬養毅のとこに乗り込んでった内の一人。
今ためしに検索してみたらwikiにも名前思いっきり出てる。びびった。
父は出所後の婆ちゃんの弟(父からしたら叔父か)に会ったことがあると言ってた。
どんな人だったのか今のうちに聞いておこう。
事件の是非はともかく暗殺なんてしちゃってるわけだから周囲にも言えないし
やっと吐き出せたわ。

婆ちゃんや爺ちゃんも獄中当選やら大学作ったりやら相当アグレッシブだったらしい。
自分が生まれる前に亡くなってるから直接話を聞けないのがすごい残念。
誰だったか忘れたけど教科書に出てくるような当時の有名人と知り合いだったとかで
「○○のおじちゃん」とか言ってたらしい。
父は話し始めるとクドいし長いしで面倒だけどもうちょい聞いておこう。


472 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/17(金) 10:11:44.52 ID:/2EvRlwT0
五一五の人たちって、結構その後も政治活動をしてたりするよね。
凄く興味があるなあ~。どなただろう。

473 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 20:43:30.99 ID:sH9p4lhs0
中学の時、爺ちゃんに「何で日本は戦争に走ったの?」と聞いたら
「軍人がとんでもなく力持っていたからなあ。あいつら武力を持ってるから
軍人が暴走したら誰も止められない」と言ってた。

でも今の日本の公務員の暴走ぶりを見ていると、武力は関係ないように見える。
日本では、昔も今も強い立場にいる集団が、自分たちの既得権益を保持する為に、
日本が崩壊するまで暴走を止めないんだろうな。


474 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 22:56:52.61 ID:gM9szrhu0
>>472
父に改めて聞いてみたけど、政治活動は殆どしてなかったんじゃないかと言ってた
名前は出せなくてすまんが、姉である婆ちゃんは戦後に平和運動してたらしいよ
婆ちゃんと結婚した爺ちゃんは典型的な左派活動家だけどそれで姉弟仲が悪くなることもなかったみたいだ
(五・一五が右派的な事件でなかったらすまん)



475 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/21(火) 22:21:25.19 ID:NeQtqsq80
>>474
興味本位のレスにわざわざありがとう。

戦前に政治活動に関わった人の家族から
憲兵に追われて大変だったみたいな話を聞いてたから
興味があったんだ。


476 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 07:22:42.51 ID:WvR/P8KL0
 今生きていれば百歳以上になる曾祖母が娘時代、山梨県の甲府近郊に
住んでいて、関東大震災に遭遇した。
 祖母の村の被害は大きくなく、その日の夕方、
村人総出で、壊れた家屋の片づけや怪我人の手当などで大わらわだった時、
東の空を見たら赤く染まっている。
「甲府が火事だ、避難しろ」となったが、
一向に火の手がこっちに来ない。
 みんなで見つめていると、空が暗くなるにつれてものすごい紅蓮の炎が
天高く上がるのが見えてきた、と。
「甲府の火事ではなさそうだ」「八王子だろうか」と言いあううち、
「あれは東京のど真ん中の火事だそうだ」という報がどこからともなく伝わって
きて、一同、びっくり仰天したそうだ。
 甲府の郊外の村から、浅草や本所の炎が見えるとは思わなかったと曾祖母の弁。
突風にあおられて炎が非常に高くなったせいだろう。


477 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 07:28:54.93 ID:WvR/P8KL0
476訂正 ×祖母の村の ○曾祖母の村の

当時は高層ビルなどはなかったけど、県境に山があるので、
話を聞いた時には本当かなあと思ったが、要は山越しに見えるほど
炎が高かったということかと。関東大震災の時の火災旋風は
ものすごかったというのを、後に知って納得した。


478 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/23(木) 23:15:02.97 ID:CrV/uLX/0
>>476
小笠原諸島から、東京大空襲の火災は見えたそうだからな。
甲府だったら、見えたんじゃないか?
本所被服廠跡の火災旋風は、史上最大級だったろうし。




480 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 00:19:28.19 ID:2UD+3yca0
祖父は昭和19年に大学を卒業して入隊、終戦時は関東軍の少尉。ソ連軍参戦の混乱の中で
師団本部へ物資受取に行った時に敗戦。原隊とはぐれたためにその後とても苦労した。
武装解除されると貨車に乗せられてシベリアの収容所に送られた。
チタは満州よりもさらに寒く、恐ろしいくらいの寒さだった。
大木を切る作業や整地作業、路線建設、坑夫などの重労働をやった。
食事は朝が黒パン一切れ、昼は臭いジャガイモ、夜はコーリャン飯で、
全員が栄養失調になり顔が黒ずんだ。冬は寒さと栄養不足で次々に仲間が死んでいった。
ロシア兵の食料庫に盗みに行ったり、死を賭して食料調達しないと死んだ。
夕食後、共産主義の勉強があるが聞いているフリをした。
自分だけいい思いをしたくてロシア人の犬になる奴もいた。
犬にチクられると北極近くの収容所に飛ばされて、まず帰って来れない。
3年で帰ってこれたが、あの状況で病気にならず生き残るためには強力な精神力と要領と
注意深さが必要。心が折れた者、真面目だけの者、注意散漫な者は戻れなかった。

481 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/03(土) 00:49:25.47 ID:yEnGB8sT0
親父は戦後、海軍兵学校から引き上げ、広島に戻り大久野島(毒ガス島)の
処理に駆り出されたそうだ

ガス弾や薬剤など海にバンバン捨てたそうです。
中には液漏れしているのもあったそうです。
近年何本か見つかり騒ぎになったが、当時捨てたのはあんな数ではないらしい。




483 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/06(火) 13:03:30.44 ID:6ytGU2Dp0
うちの一族総出で西南戦争に参加したらしいんだが
熊本城攻略にかなり手こずったあげく負けてしまったそうだ
それで鹿児島に逃げ帰ってきたんだと
うちは地元の地主だったんだが没落してしまった
うちの先祖は死の間際にも西郷さんに謝ってたらしい




485 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/07(水) 14:29:31.38 ID:8Psry2ml0
福江島の爺さんが島の高浜の横をバルチック艦隊が通って行ったと。すごくない?

486 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/08(木) 00:56:08.95 ID:VM2x81u20
すごいけど、もうチト詳しく聞いとけよ!



488 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/08(木) 04:34:12.56 ID:G4MfqPxcO
うちの爺さんはマクドナルド一号店に発狂して喜んだ第一号らしい。
ピクルスは国民の血の一滴とかぬかしながらピクルス残してた。
気違いだよなwwwwwwwwwwwwwww
辞世の句は、
ハンバーガー 新し来き世ぞ 突撃ー!!!




490 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/18(日) 14:04:46.95 ID:ACBF1r7KO
婆さんに聞いた話
昭和18~20年頃
川から緑の液体が流れてきたらしい。
流れをたどって行くと
米国の爆撃機が墜落していたらしい。
一人は座席で死亡
あとの二人は後日、里に野菜を盗みに来たところを捕縛されたらしい。







493 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/22(木) 17:12:46.44 ID:T0VGMY9X0
介護職を目指している者なんだが先日施設に行った際に戦後の引き揚げで日本へ戻るために
満州から逃げて鴨緑江を1人で渡ったっていう婆さん(94歳になる)に話を伺ったのだけど
満州人は親切だったと話していたがロシア人は怖かったとか話してたよ。




495 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/03(火) 17:29:01.22 ID:uktJLg5e0
婆ちゃんの実家は山沿いの薬局やってたから
年に2回サンカの人が来て霊芝や熊の肝とか漢方薬の原料と
コメや豆等と交換して行ったと言ってた。
昭和19年を最後に来なくなった。
風の噂で、国の方針で定住させられたらしい。
熊の肝はいい値段で売れたそうだ

496 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/06(金) 02:05:19.83 ID:aYky4a3ZO
うちの爺さんは、中国方面に出征していたらしいが、大して戦闘もなく、適当に訓練して、飯作って食って寝ての毎日だったらしい。
地元民とも仲良くやってたんだってさ。
それが南方に転戦してからは毎日が地獄で、
ご飯こぼしたらしい。
居残りで牛乳なんて当たり前だったみたいだ。
今なら有り得ない措置だったそうな。




499 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 06:12:28.52 ID:DKtKKmnD0
良スレだな。

もういないけど、祖父が1910年前後くらいの生まれ。
昔はよく狐火(墓場が近いなど証言的にリンだと思われる)を見たといい、
時には狐火に追い掛け回されたともいっていた。
ムジナもよくいたようようだが、これは祖父の話ではなく同年代のほかの話と
混ざって覚えてしまっているかも。

戦争では、日中戦争初期に満州かどこか大陸で歩哨かなにをやって戦場に立ち、
嫌いな上官に「カモシカの足のご馳走です」っていって、誰ともわからない
人間の死体の足を焼いたのを食わせたなんて冗談交じりにいってた。
今思うととんでもないが、話きいた子供のときはひでーいたずらwって楽しんで聞いてた。
戦地では砲弾の破片が肉に食い込み、それがずっと体に残ってたみたいで、
よく「このコブはなあ」みたいな感じで戦争の話がはじまった。

懲役の期間を満了して一度日本に帰還するも、戦争の激化が予想された
太平洋戦争の前後くらいにもう一度召集を受けた。
今の日本か、あるいは遠くても台湾の範囲くらいの南の離島に守備としておかれ
そのまま特に問題も起きずに再び帰ってこれたそうな。

一度目は戦闘こそあったものの、在任期間のほとんどは面白い旅行のような
ものだったと聞かされている。
さすがに三度目はなかったが、こうやって比較的初期に懲役に参加したことで
後の玉砕当然の戦場に立つことがなかったのは幸いだというし、
だからこそ気軽に語れていたのだと思う。

関係ないが、友人宅の床の間に飾ってあった写真が出兵して亡くなった人だというのを聞いて
戦争の話がでても直接戦死した親族がいないというのは幸運なのだろうと思う。


今もある祖父の代の自宅は戦前くらいに建てられ、上棟の際か親族の出兵の際か
わからないけれど、その時に撮られた写真が我が家にある最古の写真。
大工の手も借りたとは思うが、親族による建築が主らしく、柱や梁などは太いけれど
曲がった木材などが使われている。釘はほとんど使ってなく、よくも丁寧にくみ上げたものだと
今見ても感心するばかり。木材が噛み合う部分の計算がほんとにすごい。

500 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 06:20:14.45 ID:DKtKKmnD0
ついでに現役である、友人の親父(70前後くらい)の子供の頃の話。

よく寺や墓場で遊んでいたそうだが、基本的に墓場に土葬という習慣のために
時々埋葬された棺桶(いわゆるヒツギではなく、桶のほう、ツボ型)の上部が
腐って落とし穴状態になっており、知らずに上に乗っかった時に勢いで落ちることがあったという。
そんな時は「○○のばあさんにひっぱられた!」と騒いだものらしい。
みんなやんちゃだったのか、墓石をベースに見立てて墓場全体で野球などやっていたそうなw


このスレ的には全然新しい時代の話だけれど、今はもう確実に存在しない光景だと思う。
土葬の話を聞くと福沢諭吉の死蝋の話を思い出す。

501 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/27(金) 07:47:00.35 ID:DKtKKmnD0
思い出したことがあったので連投失礼。

祖父は食料が万全とはいえなかった戦地ではヘビやカエルを食べたという。
ヘビはしらないが、カエルは実際に食用の大蛙をさばくのを見た。
何十年ぶりだろうに、いい手際で、普通に鳥をさばくみたいな感じだった。

あと、年末年始には地元で宝船というのうを作って、それを代表して東京の市場に
売りにいったそうな。今で言えば数十万から百万しないくらいで売れたんだとな。
(1個でなのか複数でなのかは不明)
そんで売り上げから自分の取り分を使って、東京見物を兼ねて一晩過ごしてから帰ってきたという。
これは戦後しばらくまで続いていたらしい。戦中はさすがに無いと思う。