306 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/04(火) 18:46:54.49 ID:kcPnNPWc0
私の母は、戦時中女学校に通っていました。
駅前で、たまに米軍戦闘機の機銃掃射に会ったそうです。
機銃掃射はまっすぐにしか来ないので、横によけると逃げる事ができる
といっていました。
また、米軍が日本軍のレーダかく乱のために大量に投下したアルミニウム
帯を拾いにいったそうです。アルマイトの弁当箱も供出したが、集められた
金属類は、予科練の校庭に山積みに放置されていたそうです。



308 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/05(水) 14:56:09.18 ID:cVrCeDXb0
機銃をよける話について昨日の日経の私の履歴書にも似たような話が載っていた。
その方は、敵機が来たらいきなり逃げると撃たれるので、まず身を伏せ、反転攻撃
してきたところをすれ違う方向に走って逃げるみたいなことが書いてあった。

309 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/07(金) 21:20:25.87 ID:sTgvJ8ew0
>>308
母によると戦闘機の進行方向に逃げたら絶対だめだそうです。友人がそれで
犠牲になったとか。飛行士の顔までわかった、という近接攻撃だったらしいです。
バケツリレーの訓練(焼夷弾には無意味)、竹槍訓練(米兵の銃器には無意味)
が始まったころ、「日本の敗戦」を覚悟したそうです。


310 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/09(日) 21:57:01.50 ID:Jk/HkCS50
私の母方の系統の親戚は、大洲藩の武士でした。殿様が江戸に参勤交代でいく
時に、江戸に引っ越して大洲にはかえってこなかったとのこと。今でも、
東京に遠縁の親戚がいます。

311 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 15:46:57.58 ID:gu0J7CFa0
自分の言葉で戦争体験を語れるのは10歳前後だろうから、1935年内外以降に
うまれた子供だとあいまいか、後から大人に聞かされた体験くらいしか語れないだろう。
親に聞かされた話をあたかも自分の体験談のように語るというのはフォークロアに
ありがち。

312 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/19(水) 15:54:20.11 ID:gu0J7CFa0
聞いたというとちょっと違う話しになるんだけれども、きっかけがあって過去の戸籍をずっとたどった
ことがあったんだけれども、田舎の姻戚関係というのは今でかんがえると、びっくりするほど「ご近所さん」
同士で結婚したり、養子に出したりもらったりしてたんで驚いたことがある。百姓だと土地が本籍だから
男子がいないと養子をもらったり、逆に養子に出すなんてことがけっこうあったようで、また嫁さがしも
今なら車で10分も走れば届くような範囲からみな貰ったり嫁がせたりしていた。昔の世間は狭いんだなと
痛感しました。


313 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/20(木) 20:26:54.53 ID:2L99lypzO
俺の母親も家の二階から飛んでる飛行機を零戦と勘違いして手を振ったら狙い撃ちされたと言ってたな
その家もそれからすぐ後の八王子空襲で焼かれたが


314 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/21(金) 02:17:22.41 ID:AgrWwWBnO
戦時中、母の長兄(個人)が、大阪の都島工業高校(当時は中学かな)で級長をしていて、大阪に空襲があると、
その後、死体を集め、荼毘にふす手伝いをしていたそうです。
かなりの死体がいつもあり、火をつけると、叔父はリンだろうと言ってましたが、
人魂のような火がたくさん空に向かい飛んだそうです
まだ、十代の頃と思うと驚きます。







317 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 00:56:09.06 ID:GNsvvzLF0
江戸時代もうちらの祖父祖母世代にとっては繋がりのある時代だったんだな、と思うと不思議な感じだ。

318 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 01:56:52.64 ID:j1cGGLoaO
本物かどうかはわからんが、実家には大阪の陣でやぶれた武将を匿った際に貰った礼状というのがあるが、達筆すぎてはっきり読めない

319 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 12:37:45.46 ID:IYBqeJIr0
俺らの親の世代は、新撰組関係者に直接、当時の様子とか訊けたんだよな。

で、俺らは、二次大戦、戦後復興の話なんかがまだ訊けるんだけど、
べらべらしゃべってくれるのは、思想的に偏った、戦争大嫌いな人たちの声ばかり
その人や話自体に罪はないけど、はっきり言って食傷気味。

320 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 13:43:33.41 ID:FuUnkq2y0
そういう人たちの声が大きいのは、それほど戦時中が多くの人にとって悲惨きわまりないものだったという何よりの証左じゃないの。




323 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:16:49.82 ID:xnjwKZzA0
幕末頃世界がどう動いていたかを本で読んで、
その字面に惑わされずに自分で事実を考えると、
欧米がアジアの中でも日本を重視し、悲惨な植民地化もせず
スマートに近代化を手伝い、育ててくれた事が解る。
だからこそ、その分日本は中韓北朝鮮や、
欧米で自らの地位を保ちたい人達に半ば人質のようにされて
巣食われたりミスリードされたりして
歴史的にずっと狙われ続けているのかとも少し思った。
あと、爺様の日記を読んだりすると当時の
一般人の感覚や考え方が何となくわかってそれも面白かった。


329 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 22:42:37.49 ID:xnjwKZzA0
>>323
自レスだが、説明不足だった。
×;欧米で自らの地位を保ちたい人達
○;欧米で相手にされていなくて、強引に自らの地位を保ちたい人達
  (多分油田矢人とかが有名か?)




324 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:41:46.99 ID:yjbksTXTO
おまいらの家にある最古の写真っていつの写真よ?
うちはすでに昭和だわ…


325 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:57:01.36 ID:d879vRw/O
うちも昭和一桁かな
大正生まれの祖母の記念写真

326 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 21:58:18.97 ID:KycNQLq50
>>324
核家族世代だからやはり昭和だが、親父が腹巻に作業ズボンに下駄、グラサンかけて車の横に立ってるセピア色の写真が最古だわw


327 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 22:28:08.57 ID:JdWyDQGC0
1900年生まれのじいちゃんの成人前の写真だから大正1ケタかな?

328 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/23(日) 22:37:30.51 ID:H6iggKe80
他にあるかも知れんが、俺の父親(大正14年生まれ)が生まれる前の写真がある。
大正中期か下手すると明治かも。父方のお爺さんが旧満州に渡って、満州か
あるいはロシア国境部かで軍服を着た白系ロシア人の連中と写った写真。
一人だけ着物w 






331 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 01:03:33.48 ID:2k6zZkU3O
昔、じい様の弟が、軍曹かなんかで写真係だったんだ
満州事変のころに戦死して、靖国にも祭られてる。
当時の写真には、戦闘の様子や行軍風景、町並みや現地の人、土塁での様子や塹壕とかいろいろあったんだか、
叔父が、売ってしまったからない
かなり高値だったらしい
ただ、死体とかなかったし、現地の人と仲良い写真や買物風景とかマニア向けの砲台とかあったな
今あれば、ウプるんだが




334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 03:05:30.66 ID:XDIGkANH0
うちのじいちゃんは戦争に積極的に加担してたな。だから戦時国債を
大量に買ってたし、田舎に残してた田んぼを戦後全部農地解放で奪われた。
貧乏人には同情するが、農地解放で得た土地を70年代に高値でうちの
おやじに買い戻させて、そのあとの80年代バブル期にまたぞろ買い戻した
貧乏人の小作のセガレどもにはいい目をみたよな!とおもってるw


335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 03:17:07.30 ID:ndpcW4no0
>>334
じいちゃんも、小作人たちもしぶとくて、いいなw


336 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/24(月) 14:42:56.73 ID:CdFviPum0
私は52歳、親父は82歳、その父方の祖父の話です。
私の祖父は、日本連合艦隊の旗艦三笠の砲兵をしていました。
祖父の遺品で勲章や、ものすごく長い計算尺が残っています。弾道計算の
ために使ったのだとか。日本海海戦は、北上してくるバルチック艦隊と
すれ違いで撃ち合うのではなく、敵前回頭をして、敵艦艇と併走して
弾を撃ち尽くして殲滅するという先方だったそうです。(書物にも書いてあります
が)。進んでくる敵艦隊の前に自分たちの艦艇が180度方向転換せねば
ならず、そのときは大砲を撃てないので、敵からの砲撃を一斉にくらった
そうです。どんどん命中して、艦内は大変だったそうです。敵の砲弾
が命中すると、船の鋼鉄がはじけ飛び、それが水兵たちの体を引き裂く
のだそうです。私は別に反戦論者ではないですが、その当時の戦闘は
そういったものだったということで。砲兵でよかった。二百三高地に
徴兵されていたらだめだったろう、とじいさんはいっておりました。





340 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:18:50.28 ID:0imXKmiD0
爺さんはスマトラ島に行ってコックさんやってたって。
卵だけはたくさんあるからいつも茶碗蒸しばかりで兵隊さんうんざりしてたとか
ウミガメを敵兵の上陸だと勘違いして大騒ぎしたとか。


341 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:20:58.99 ID:0imXKmiD0
あと、召集された時の筆記試験でわざと白紙回答にしたとか。
へたにいい成績だと前線で指揮するはめになりそうだとのことで。


342 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 01:48:01.98 ID:rh4qhCf90
徴集兵が陸軍と海軍にどう振り分けられてたのかご存知のかたいらっしゃったら
教えてたもんせ。あと陸軍・海軍ともに航空隊に振り分けられるのも、「目がいいのを
選抜」みたいな感じだったんでしょうか。



344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 08:40:31.64 ID:2iujwisKO
徴兵は確か陸軍が全て行ってたはず。
希望くらいは聞いてたと思うけど。
体格が良い奴は陸軍が独占してそれ以外は海軍にみたいな感じだったはず。


345 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 13:11:29.50 ID:oiDjolNW0
世評では、陸軍寄りか海軍の方がマシ、ともなってたな。
制服のかっこよさに関係してるのかもな。


346 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 14:50:12.00 ID:rh4qhCf90
歳費でいえばどっこいどっこいでも、兵員数でいえば海軍ってものすごく小さかったんですよね。
徴集は戸籍地の師団所属になる、とかいうのは聞いたことあるのですが、海軍の徴集兵はどう
やってあつめたのだろう。砲術とか航海とか大半は技官でもあるから、徴集兵をすぐ配属させる
なんてことはなかったのだろうけれども、特攻隊に学徒動員兵がまわされたなんて話しもある
くらいだから、一般徴集兵もそうとう高度な任務につかせていたのかしらん。

いまの自衛官だと視力と学力に明確な違いがあって、たしか航空は視力が1.2、海上は0.8、
陸上は0.2の裸眼視力がないとダメとか。


347 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/26(水) 18:15:10.45 ID:2iujwisKO
去年の年末に亡くなった高校時代の担任は震洋特攻の生き残りだった。
今の熊本高校から九大法学部の時にGackt出陣。
戦後はGHQの通訳から高校の英語教師へ。
授業はよく脱線して海軍時代の話を聞かされた。
ナムナム

348 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 02:25:49.79 ID:HNiBsITFO
親戚のオッサンは南京にいたらしいが、当時は、皇族が、こられるといって、部屋の掃除ばかりさせられたそうだ
銃声はあまりなく、殺人なんかみたことないそうだ
後、南下し、ビルマあたりで終戦
当時の傷が生々しかった。

349 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 03:46:33.64 ID:dzNCWGu20
南京事件でおこなわれた可能性のある屠殺は、あったとしても敗残兵と便衣兵の
投降者の「処置」の部類で、国際法上合法だろうが不法だろうが、部隊内で処理
してたらしいんで、その規模がどの程度か、あったかなかったかはわからんが
基本的に南京城の外だったみたいよ。


350 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/27(木) 05:51:26.75 ID:ttJ37kR6O
本当かどうか分からないけど、憲兵の文句はよく聞いた。
憲兵に見付からないように、家庭のお菓子や乾物は隠してたと祖母からよく聞かされた。
自分が思うに、おそらく憲兵ではなく、在郷軍人会やらではないかと思うが、
窮屈な時代だったと。
もちろん隠れては美味いもん食ったりしてたとさww





353 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/01(火) 23:32:30.47 ID:LJzN7R6Y0
戦争が終わった夜とか、次の日はどんな気持ちだったのかね??




355 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 11:14:55.33 ID:1nn4rlaZ0
>>353
その質問もしてみたことがあります。祖母にも母にも。
「ああ、これで灯火管制などの制約もなくなって安心して生活できる」
という気持ちだったようです。すでに敗戦を覚悟していたらしいですから。
うちは田舎だったので、その後の食糧難ではたいしたダメージを受けません
でした。戦争中はすっごく威張っていた軍人たちが、しょぼんとしてしまった
のが印象に残っていると母は言っていました。



365 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 16:40:38.90 ID:Fy25sqY70
>>355
夜灯りを点けれる喜び、灯りが灯っている事に戦争が終わった事を強く感じた。
という人は多いみたいですね。


366 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/14(月) 23:24:16.56 ID:KfuJc8uC0
灯火管制解除と、終戦から一週間後の天気予報復活はよく言われるね。



357 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/04(金) 19:22:03.04 ID:ysMExa6DO
前の方で色々言われてるが、
右翼思想とか左翼思想とか関係なく戦争で嬉しかった人はいないんじゃないかな。
娯楽や食べ物も制限されて、自分も身内もいつ死ぬかわからない恐怖に晒されるのだから決していいものではないだろう。
そんな中戦時中の楽しかった体験や辛い体験といった昔の話を聞かせてくれる高齢者は有り難い。



363 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/12(土) 18:10:05.95 ID:UBl7hfPh0
>>357
自由経済から統制経済になって、軍事関連の企業以外の金持ちが損をしてるのみて、喜ぶ人や、
大企業の人間や高学歴者を戦場で部下にして、そういう人に威張る軍人はいたみたいだが。








367 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/15(火) 07:56:17.40 ID:a0Uc+sc8O
戦時中立命館の学生だった爺ちゃん
石原莞治の国防論の授業は笑い声が絶えない楽しい時間と言っていた。


368 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/17(木) 01:31:00.28 ID:0cKb072VO
戦後、うちのじいさんの姉が、闇市で、当時、大阪天六のやくざのマサ親分のめかけと親友でひともうけしたらしい
しかし、親分は朝鮮の方に暗殺され、所場をなくし、それまでだったそうな


369 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 11:40:07.20 ID:EPUH9o780
天神橋筋はいまでこそ日本一長いアーケードとかで有名だけど、もともと扇町公園が
江戸時代の処刑場で、明治に大阪監獄になったという場末だったから、だいたい所得の
ひくい、ガラのわるい、大正期からは朝鮮人なんかも定住するような場所だった。
暴力団事務所が多いのもそのせいね。




371 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 19:39:59.12 ID:+gk4bqtMO
これもその大おじさんから聞いたんだが
戦前は男手が足りなかったから朝鮮人を農作業なんかで
かなり酷使していたのは確かだと言ってた。

しかし、だからといって戦後の朝鮮進駐軍みたいな行為は許されるものではないけどな。




373 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/18(金) 20:19:38.12 ID:EPUH9o780
朝鮮人の小作労働は場所によってはあったろうね。基本的に朝鮮人は
都市周辺部に集住して単純労働に従事する傾向だったから、地方・山間部じゃ
あまり供給はなかったろうけど西日本じゃ比較的そういうのもあったかもしれんね。
パラオとかに集団移住した朝鮮人は2000人くらいいたらしい。また例のごとく
じぶんらで来たくせに強制連行されたとかほざいているけど。





377 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/20(日) 11:01:17.08 ID:VT8bTutT0
うちの爺様(90)奉天で武装解除そして3日間の待機を命じられ真面目に待機していたらそのまま抑留生活に突入 爺「あんとき逃げてれば・・・早く日本に帰れたかもな」 どうにか3年後に帰国。

379 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/21(月) 23:06:28.70 ID:Owp1QGg2O
戦後早々、隣りのオッサンと軍刀でやり合ったおじいちゃん。
相手が先に切ってきたらしく、怯まず右肩から左胸に切りつけたおじいちゃん。
その事件があってその場所で住みずらくなり、大阪城東区辺りの100坪の家を引き払って、住吉の文化住宅みたいな所に引っ越したと情けなそうに生前おばあちゃんが話してくれた。
その横でおじいちゃんが日本酒を飲みながら「へへっ」というのが口癖だった。

右頬の刀傷、格好良かったなぁ




382 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/23(水) 01:50:43.83 ID:5+vBW0D9O
前にNHKのプロジェクトXでやってたんだけど、戦後の南極探検隊に寄付金を募ったところ
子供達がたくさん寄附をしたらしい
戦後日本への未来を、夢を見るために、食べたいものも食べないで、寄附した子供かたくさんいたそうだ
今の日本は、頼りなくなったと思った


383 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/23(水) 11:08:35.99 ID:7O8Pg+GpO
そうでもないよ
震災の時に「これからどうしたらいいんだ…」と言った爺さんに男の子が「大丈夫。俺達が復興させる」と言ってた
涙出たわ


384 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/23(水) 16:27:50.81 ID:ckY52GaCO
婆ちゃんの戦後の話
北陸の糞田舎金沢に進駐軍の白人がやって来た。
ある日キャンプを覗いて見ると白人が質素な物を食っていたので、ひい婆ちゃんに報告。
するとひい婆ちゃんが「可哀相だから、これを持って行きなさい。」と言って鍋一杯の治部煮を渡して持って行った。
味見をした白人からは感謝され、大量のコーンビーフやココアなどをお返しにもらって帰宅した。
肝心の白人が食っていた質素な物はフライドポテトでした。


385 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/06(火) 16:37:14.40 ID:VlCSkrEP0
うちの祖母は明治31年生まれだったが
父親が大工の棟梁で「大工の娘に学問なんかいらねえ!」って言われて
高等小学校に行って途中で辞めさせられたて奉公に出されたのか
行かないで奉公に出されたのか定かではないが
死ぬまで「もっと勉強したかった」と言ってたのを覚えてる
そして俺の曾祖父母の中には慶応生まれもいた
父方の高祖父は天保生まれだったようだ





387 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 04:02:08.34 ID:LK3+Lj+/0
うちの婆さんも父親から「女に教育はいらねえ」と殴られながら
死ぬ気で説得して、師範学校へ行って教師になった。
当時、女が高等教育受けても、教師しか職業がなかったと言ってた。
でも現実は厳しくて、あこがれの教師になっても当時の教師は恐ろしく薄給で、
赴任先の下宿代が給料と同額で、下宿に給料袋ごと渡すしかなく、手元に1円も残らず、
親の言うことを聞いて、親元から郵便局にでも勤めた方が良かったと言ってた。


388 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 04:31:50.80 ID:aHNorQyl0
教員の給与は明治初年は他の職業にくらべてかなり厚遇だったけど、インフレの進行で明治20年ころから
待遇が他の職業よりもわるくなり、どんどん離職者が出たということらしい。職業婦人というのがひろまったのは
大正期からで、それ以前は家業的な職業でもなければ女子が外に働きに出るというのは(野麦峠のような)
工場手作業員でもなければほとんど無かったんでしょうね。女子どころか男子でさえ過半が第一次産業に
従事していたわけで、旧武家の子女で高等教育をうけて、事務職などに就労するなどという方途そのものが
すくなかった。大正期までは「サラリーマン」というのは帝大卒のエリートがそう呼ばれるような高給職の
代名詞であり、いまでいうエリートビジネスマンの響きがあった。


389 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 14:57:36.30 ID:dya5c5O80
385、386ですが
明治の頃の女性は10代で結婚して家庭に入るのが普通だったみたいですね
祖母は顔を合わせると「奉公に出されて勉強できなかった」「ちゃんと勉強するんだよ」と言っていた
余程悔しかったんだろう思うが
でも奉公先の辛い話などは全くしなかったですね
祖母と大相撲中継を見ていたら昔の相撲の話をしだして
明治の人気横綱だった梅ヶ谷がどこかで火事が起きた時にその場に居合わせて
消火活動を手伝ったんだけど物凄い腕力だったとか
奉公先で毎朝暗いうちから起きて仕事をしてたんだけど箒星を見るのを楽しみにしてたとか
その箒星というのが1910年のハレー彗星大接近の事だったようだ
これはずっと後の昭和初期の話だがツェッペリン伯号を見た話もしてくれたな
他にも数えきれないくらい色々な話をしてくれたんだが断片的にしか思い出せない
その頃は思いつかなかったが話を聞いた時に少しは録音でもメモでもしておけばよかったと思ってる


411 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/05(木) 21:11:21.77 ID:3C09sImg0
>>389

>>その箒星というのが1910年のハレー彗星大接近の事だったようだ

その1910年のハレー彗星は地球にぶつかると予想されていたらしく
もう亡くなった尋常小学生だった祖母は全校生徒が集められた校庭で
校長先生より明日は地球がなくなっているかもしれないと言われたそうだよ
この時代の一大事件だったんだな
まあ、明治・大正・昭和は日本にとって進歩と近代化が滅茶苦茶に急激だった
時代で現在のような進歩が止まった時代とは違い相当刺激的でエキサイティング
な時代だったみたいだよ
幕末の黒船ショックとちょんまげ時代から30年でバルチック艦隊の日本海海戦
それから30年で格兵器と広島・長崎さらに30年でアポロ有人月着陸
そして30年後の今は中国の超巨大化
しかしここ40年は進歩が止まったみたいだ
今の製品で過去にないものは携帯電話スマホとPCインターネットくらいだ
それ以外は車もTVもエアコンもウォークマンもすべて普及していた
この40年の日本は刺激的進歩が止まったね


414 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/06(金) 21:08:04.75 ID:CXnFbUZN0
>>411
私の祖母(今年82歳の母の母親です)が生前言っていたことには、ハレー彗星
はものすごく大きく、天空に広がって見えたそうです。当時の田舎ですから、
邪魔な人口光はなかったので。別に、地球が滅ぶという話はなかったようでした。

415 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/07(土) 10:15:50.35 ID:Q49MAhz70
ハレー彗星は父方の祖母と母方の祖父が見た話を聞いたが
地球にぶつかるという話は知らなかったようなので
学校ではそう教えていたのかも知れませんね
二人とも1986年のハレー彗星の時も存命だったので
二度ハレー彗星の接近を経験した事になる


390 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/07(水) 22:41:39.09 ID:DxRqQ6bd0
女学校を出て、陸軍省で働いていた祖母は、あの東京裁判の舞台となった市谷記念館で
東條の演説を決まった時に聞いていたらしい(毎週、職員が集められる)。


3月10日の空襲で、てっきり陸軍省などが真っ先に攻撃されると思ったら
戦後、そこで裁判が開かれたもんだから、「アメリカは占領のことも考えていたのか」
って思ったらしい。

ウェップ裁判長が座るところで丁度演説していたから、「東條さんはまさか、
自分達職員を並ばせた位置で裁判を受けるとは思って居なかったんじゃないか」
とか言ってたな。

391 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/08(木) 20:26:55.85 ID:ApfsAjA4O
うちの爺さんは昭和20年代後半から、同僚に金玉が臭いと言われて銭湯に毎日通うようになったらしい。
それまでは毎日風呂につかる習慣はなかったんだと。
数日おきに風呂入るぐらいの感覚だったんだって。
その指摘以来、毎日風呂に通うようになり、仕事中は金玉はロッカーに預けてたらしい。
器用な爺さんだ。


392 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/09(金) 02:54:31.35 ID:/vWKKFaE0
ロッカーで思い出したが、むかしの銭湯は石鹸キープみたいな不思議な習慣があったな。
あれ何の意味があったんだろう。てぬぐい一本で風呂に行くみたいなひとが多かったのかね。


393 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 01:02:50.30 ID:DwMkhv4cO
うちのばあちゃんは終戦の年に教員になったんだけど
卒業前に先生から来年広島に高等師範ができるからそっちに行ってみないか?と言われ
父親に相談したところ
とりあえず今は止めておけ、戦争が終わった後で機会があればまた勉強したらいいと言われて取り止めた
行ってたらと思うと…
ばあちゃんは終戦後結婚して教員やりながら通信の大学を卒業した



終戦後もしばらくは教員やめて別の仕事に就く人もいたってさ
それとは別に戦時中の臨時教員(女学校出て資格とった人)みたいな人たちも復員してきた人が来たらみんなクビになったみたいね


394 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 01:42:08.95 ID:Z5ZiK2+F0
大叔母が代用教員だったなあ。

395 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/10(土) 20:41:15.28 ID:2q728W890
大叔母(祖母の叔母)が女医さんだった。曽祖父に、祖母(三人姉妹の末っ子)を
養女にして、ゆくゆくは女医にして跡を継がせたいと頼んできたが、断ったそうだ。
その後、夫婦養子(男は医師)をとったが、関東大震災で一家全滅、祖母が養女に
いっていたら、自分は生まれることはなかった。


396 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/21(水) 22:38:24.77 ID:/kk/tquq0
このスレ読んで思ったけど、いわゆる「戦前」と「戦中」は区別されて考えるべきだな
配属将校や憲兵、警官の話を聞いてもそう思う


397 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 14:45:34.50 ID:xZeBiKMH0
曾祖母が会津の人だったんだが
1888年の大噴火で小磐梯が吹っ飛ぶ前の磐梯山を知ってると言ってたな


398 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/22(木) 17:41:50.04 ID:XYooCZA5O
敗戦後の満州は怖かったとのこと。
祖父、祖母が満州で中国人と共に働いて信頼関係が出来ていたので、
そんな混乱のなか無事に日本に帰ってこれたという祖母の話を母から聞いたことがある。
祖父が大戦中、仕事の仲間だった中国人を庇ったことがあったことで、
信頼関係が出来ていたらしい


399 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/24(土) 10:34:24.68 ID:nzqF9eK60
人には優しくしておくもんだな。
体罰ばかりの上官は前線で味方から狙われたり、負傷しても治療は後回し、
敗戦後は引き上げ船でリンチ。






402 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/27(火) 06:26:51.79 ID:BEMoNl/k0
軍隊ったって、アカの他人ばかりだからね。どこの誰とも知らないやつに
いきなり殴られたら、ふつうは憎悪するわな。


403 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/31(土) 11:38:44.16 ID:1bUUpOBc0
明治生まれの祖父母が子供の頃には
狐憑きや狐に化かされた人が
普通に身の回りに沢山いたらしい
祖父も奉公を始めた頃に川岸で列を作って横切る狐火を
毎朝見ていたそうだ
勿論それが何だったのかは不明だ