206 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:31:12.07 ID:f921u/5j0
もうひとつ母から聞いた話。
母が少女時代、昭和天皇の皇女のひとりで今上天皇の姉にあたる人(どの人かは忘れた)は、母と同じくらいの年齢の少女だったが、「ものが言えない障害者だ」という噂が流れていたそうだ。当時は週刊誌なんかなかったのでもっぱら口コミ。母の周囲ではたいていの人がそう信じていたとか。

戦後、その皇女が話す肉声がラジオで流れて、なんだ、あれは嘘だったんだ」と母は思ったとか。
後で別の人に聞いたところ、戦前戦中は未成年の皇族の肉声を公共の電波に載せてはいけないという決まりがあったとか。
そのせいでそんな噂が流れたんだろうとのことだが、
それなら他の未成年皇族も全員そうなのに、なぜその人だけそんな噂に
なったのかはわからない。

207 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 01:44:47.98 ID:LIcTosUs0
いまやってる、連続テレビ小説、時代考証がすげーよ。
一軒まるまる、戦前の生活を細部に至るまで再現している。
見落としてるヤツは、見とくと吉。

>>206
戦前、皇族は庶民のアイドル的な存在だったとどっかできいたな。
三島由紀夫の「豊饒の海 1」でも、そんな様子が描かれてた。

>公共の電波に載せてはいけないという決まりがあったとか。

玉音放送がいかに衝撃的だったかってことだな。





208 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 12:39:29.04 ID:dbat0HIK0
>>207
>戦前、皇族は庶民のアイドル的な存在だったとどっかできいたな。

 そうだったらしい。昭和天皇とほぼ同年齢の祖母は高等女学校時代、
学校の寮のようなところにいたが、私物を入れる扉つき木製棚
(ロッカー)の中に、当時の皇太子(昭和天皇)の肖像写真を
貼っていたそうだ。同様のことをしている同級生が何人もいたとか。
大衆雑誌や女性雑誌に皇族や華族の肖像写真がよく載っていたので、
それらを切り抜いたのだろう。当時の昭和天皇はイケメンとの定評が
あったそうだ。
 昭和三年発行の『アサヒグラフ増刊 秩父宮殿下御慶事奉祝号』
ていう大判の古雑誌を持っているが、秩父宮と松平節子の婚約記念号で
写真がたくさん載っている。秩父宮はどの写真も華麗にポーズを決めて
いる。なにげないスナップ写真にもカメラを意識しているのがわかる。




209 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/11(水) 16:18:11.87 ID:4lAW8uQi0
もう亡くなって10年以上経つ爺さんから聞いた、
幼少時(戦前)自宅から出火し、兄弟10人中5人が焼死した。
当事爺さんの親父は、関西の某有名私大の学長選に出馬していた。
爺さんの親父は、対立候補側の仕業であると確信し、
警察に訴えたと言う。
だが、警察が対立候補に買収されており(あくまでも爺さんの主張)事件の
捜査も進まず、身の危険を感じた爺さんの親父は学長選を辞退したという。
戦後、放火犯とその依頼者が打ち合わせをしていたとの目撃証言が
新聞に載り、ようやく事実が日の目を見たという。
子供の頃、その墓参りに行ったが五児の悲劇を詠った俳句が彫られた
石碑が建てられていた。


210 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/14(土) 21:28:27.15 ID:aVgdoEtl0
東條英機の話題が出ているが、東京人でも理解出来たのか?
(岩手出身の首相で一番訛りが酷かった、本人も終生苦しんでいたそうだから)

211 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 13:26:21.32 ID:rFgsU1/a0
岩手出身は父親の東條英教
東條英機は東京出身で、甲高い明瞭な声。

212 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 18:42:10.93 ID:dxU4J2Sz0
うん、表向き(公式)は東京語を喋るよう努力していたそうだが、
プライベートでは酷いズーズー弁で、結婚当初は奥さんも苦労したそうだ。
(親戚の殆どがズーズー弁だからしかたがないが)

ちなみに斎藤實は国会答弁でも訛りを隠そうとはしなかった。
かつて江戸東京博物館に所信表明演説の録音が残っていたが(今は知らん)、
見事なズーズー弁だった。

213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/15(日) 22:23:41.52 ID:jpZeVHUTO
仕事で接した福島出身のじいさんが「ちんよう」って言ってるから意味が分からんかったけど、後で他の人に聞いたら「金曜」のことだった
あて「ちんこ」って言うから下ネタ好きなのかなって思ってたら他の人に聞いたら「金庫」のことだった

214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 10:07:09.52 ID:FqbRblFB0
>>212
>プライベートでは酷いズーズー弁で

東京生まれて東京で育っているのに、ありえない。
ソース出してくれないか。

斎藤実は海兵入学まで岩手。

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/16(月) 23:29:49.95 ID:XkSVLtKN0
>>214
戦中は軍神で、戦後になると切腹も出来ないってんで大バッシングだったから、
東条英機に関しては、いろんな噂があるんじゃないだろうか?

軍事スレ住民とか詳しそうだな。

216 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 01:33:42.65 ID:cQja0iBk0
>>215
東京生まれで東京育ちの東條英機が酷いズーズー弁なんてありえない。
妄想もいい加減にしろ、キモい。

217 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 06:40:03.25 ID:SP53rYU70
しかし、あの小沢一郎の訛り(そんなに酷くないけど)を聞いていると、
東條の噂もさもありなん。

田舎者にとっては方言も一種の礼節であるのだよ。
と、東北人の俺は弁護してみる。
(実際、東京弁喋る奴に田舎者は概して冷たい。地元だから良くわかる)

218 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/17(火) 10:04:30.96 ID:cQja0iBk0
意味不明。
小沢一郎は中二まで岩手だからナマリが残っていてもおかしくない。

東條英機がズーズー弁というのは、210の脳内妄想。

219 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/18(水) 10:27:36.63 ID:kUTNGoDw0
東條は訛りとは無縁だよ。カミソリと言われた程、頭脳明晰で評判だった
岩手は南部の殿様が身分が高かったんで訛りはマシだよ、むしろ福島がヒドい

220 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/20(金) 01:52:05.45 ID:pwwnNzy20
 子供の頃、庭で爺さんと歩いてたら、庭のバケツに雨水がたまっていた、
よく見ると水面に小さなボウフラがウネウネ動いていたんだが、それを見た爺さんが
バケツの側面をトントンと叩いた、そうするとボウフラは驚いて水中に隠れてしまった。
爺さんいわく「戦場ではこうやってボウフラが隠れてる間に水面の水を飲むんだ」
とか話してた、あと自転車にのって戦う部隊がいたなーとかも話してた。


221 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/21(土) 01:47:55.96 ID:ZBSlbdrc0
>>220
以前はそういった非常時の知恵を持つ老人が、身近にいたんだよな。
大火の経験者→震災経験者→戦争や空襲の経験者

これが65年途絶えて、この間の311。
それを経験した俺らは、いろいろ覚えておくと、
いつか役に立つ日が来るんじゃねぇかな…とか思ってる。



223 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/09(木) 18:03:24.23 ID:q9rtXazL0
聞いた話ではありませんが、このようなものが見つかりました
これは私の曽祖父が書いたもので(なので苗字を一時伏せさせて頂きました)親戚が大事に保管していたものです
この文章で始まり、其々婦人会や御家族の方々の写真が綴られていました
本当は縦書きだったのですか、綺麗に揃えられなかったので横書きのままですいません
昭和14年で2周年という事なので日中戦争ですかね?

     御挨拶
聖戰早クモニ周年ヲ迎ヘ此ノ間本村
出身ノ将兵諸君ニオカレテハ空ニ陸
ニ海ニ輝カシク叙勲ヲ樹テラレ吾ガ
郷土ノ武威ヲ發揮サレツヽアル事ハ
吾等村民ノ等シク感謝スル処デアリ
マス
銃後ノ村民ニオキマシテハ諸君後顧
ノ御心配ナキヤウ御家族ヘノ手傅慰
問其ノ他出来ル限リノ御世話ヲ致シ
ツヽアリマス   
硝煙弾雨ノ下アラユル困苦缺乏ニ耐
エ皇國ノ為ニ働イテヰラレル諸君ヲ
偲ビマス時何トカシテ御慰労申シ度
イト思ヒマスケレドモ届キ兼ネル事
ノミニテ相済マナイ次第デアリマス
ガ今回諸君ノ御家族其ノ他村ノ種々
相ヲ撮影シ諸君ニ御贈リスルコトニ
致シマシタ就キマシテハ少シデモ御
慰メノ役ヲ果スコトガ出来マスレバ
此ノ上モナイ幸ト存ジマス
最後ニ諸君ノ武運長久ト層一層ノ御
奮闘ヲ御祈リ致シマス

昭和十四年九月十三日 福田村銃後奉公會長
     上益城郡 福田村長 ●田 茂

福田村出身将兵殿


写真は、笑顔だったり、真面目そうだったり色んな表情をしていましたが
悲しそうな顔をしている方はほとんどいらっしゃいませんでした
出来れば写真もあげたかったのですが、スキャナーが無いもので

私の祖父も軍人として戦争へ行き多くの友人を亡くしたと言っていました
晩年は痴呆もあり、亡くなった友人の名前を叫んだりしていたものです
戦争当時の話はあまり聞けませんでしたが、しかし
その少ない機会の中で、楽しそうに悲しそうに誇らしそうに語る祖父の顔を今でも覚えております

このような古いだけの文言ですが、皆様の当時の事を考える上での一助となれば幸いでございます






226 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/17(金) 18:24:48.39 ID:dkKlJcbg0
もうすぐ90になる婆さんの母親がお歯黒をしていたらしい。
塗り直しているのを覗き込もうとしたら、子どもは見たらいかんと追い払われたとか。


228 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 18:34:17.72 ID:iVonjK4NO
お歯黒は禁止令が出たが、ひっそりとお歯黒をしていた人も居たと聞く
貴重だ



227 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/20(月) 13:03:31.09 ID:v6HBPJD00
とっくに死んでいるけど明治37年生まれの祖母は、明治になっても
ちょんまげを結っていた老人を目撃している。






230 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/25(土) 20:21:37.54 ID:SZcAl5W/0
3年前に亡くなった祖母は大正3年生まれ。
神田の生まれで~小町と呼ばれるほどの美人だったが
子宝に恵まれず結婚後は苦労したらしい。

関東大震災~東京大空襲を経験しているが、
よほどつらい経験だったようで、あまり話してくれなかった。
小学校の時の社会の時間に祖父母を呼んで、歴史の語り部を
してもらう授業があって、散々お願いしたが首を縦には
振ってくれなかったことがあった。



232 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/27(月) 20:22:16.46 ID:yUAcw3Yf0
俺のじいさんは、太平洋戦争に行かず、さらに戦死した兄の嫁を寝取るというとんでもないやつだった
戦争が無かったら生まれてなかったと思うと複雑だな




234 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 00:12:00.88 ID:xa2THGNgO
3年前に亡くなった大正生まれの祖母は19歳の時に許婚が登山の事故で亡くなったらしい
もしその許婚の人が亡くなっていなければ俺は生まれてこなかったということなのかな…


235 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 08:20:24.11 ID:t9jC3acc0
兄が戦死して弟が兄嫁をめとり家を守るなんて事は
親族の打診あるなし抜きに当時のデフォだよ


236 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/28(火) 12:44:42.13 ID:MjnwQWkc0
戦死してなくても子供が中々出来なかったら義父や義兄弟が・・・っていう話も大婆様からよく聞いたよ



238 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 05:30:20.10 ID:Xc4b5Vf/O
石打火打とかって祭があって、
村で広場に集まって、焚火をして料理を作って、皆で酒やら飯やらを飲み食いしながら、一家の次男以下が本家に戻って来ないように、
軽く血が出る程度に石で殴ったり、焚火の炭を押し付けたりしてたんだって。

もちろん今はそんな事できないし、無かった事になってる。
おばあちゃんが言ってた。
それが異常ではなく、普通に行われてたって。
信じられねぇ~。


239 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 12:09:56.55 ID:8dIwMwmlO
うちの田舎は岩国市で
広島に原爆が落ちた時
祖母は茸雲を見たらしい

家が農家だったので
戦争も末期になる頃には
着物などを抱えた人が
芋と交換して欲しいと
訪ねて来ることも
あったそうだ。


276 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/12(金) 11:52:45.99 ID:Lrn9NXLz0
>>239
上海から長崎の閃光が見えたそうだ



240 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 12:21:50.14 ID:ypDALT8BO
私の祖父では無く、年上の知り合いの祖父の話なんだが・・・。
その人は子供の頃、上野の外れに住んでいたそうで、ある日、「急いで逃げるんだよ」と母親に急かされながら家から逃げ出した。
雨上がりの蒸し暑い中を、「今日は何でアブの羽音が五月蝿いんだろう?」と母親に手を引かれながら思ったそうです。
大人になって、その日は上野戦争が有った日で、アブの羽音だと思っていたのは小銃弾の飛翔音だったと判ってぞっとしたと同時に、流れ弾の中をずっと手を引いていてくれた母親に感謝したそうです。




242 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/29(水) 20:45:16.50 ID:z+pGlf160
爺さんは奈良に住んでて、奈良には一発の爆弾も落ちてこなかったそうだが、
大阪大空襲の時は生駒山の向こうが真夜中だというのに真っ赤に光ってて夕焼けみたい
だったとか語ってたな。
あと日の丸弁当は見るのも嫌とか言ってた。




244 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 11:38:24.75 ID:Fq4MLUFTO
うちのばあちゃん明治38年生まれ
和裁の腕を買われて大正~昭和初期くらいまでは男爵とか伯爵?の家に住み込みで仕えていたらしい。今で言う口コミみたいな感じで貴族に仕えてああいう人達はとても紳士的で庶民には味わえない場所に連れて行ってくれたりしたらしい。
大正浪漫を体験してて羨ましい
戦後は伯爵家とか無くなり貴族は苦労したみたい

その後、地元の醤油店に嫁入り(許嫁)爺さんは同級生でチャラ男で若い頃騎兵隊。理由は「やっべー騎兵隊マジかっこいい」
戦地から「遊ぶ金無くなったから送ってね☆」とマイペース
典型的なボンボン。愛人は何人もいたらしい。
爺さんの母は女ながらに醤油店を大きくして地元の雇用や教育に貢献したらしい。発想と感性が豊かで俺の母親が子供の頃、今で言うアロマオイルを使って夏とかはミントの飲み物を作ってくれたとか。
醤油店は身内のゴタゴタで廃業。
俺の母親も母親で洋裁で作った服がファッションショーに出たりしてたらしい
昭和四十年代



245 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 11:54:28.03 ID:Fq4MLUFTO
続き
家は当時のままで今も実家の人は住んでるけど寅吉じいさんと言う人がどっかから家を持って来て組み立てたらしいが、元は賭場だったようで普通の家とは造りが違うみたい。確かに言われると賭場に適した造りに思える
震災で流石に少し傾いたが、まだ住んでるし次に地震来たら崩れるねと笑い話にしてる



248 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/09(土) 21:52:24.16 ID:k0XEXZ000
うちの爺さんは勤労動員で飛行場整備の勤労動員の最中にグラマンに襲われて機銃掃射された。
空襲警報も何もなしで突然だってさ。遮蔽物なんて何も無い飛行場の真ん中だから「伏せ!」の命令で
ひたすら伏せてたって。超低空飛行だから、敵機のパイロットの顔がよく見えたってさ。
執拗に何往復も機銃掃射するので、最後は首をぐるりと廻して敵機を眺めている奴もいれば、
ビビリながらひたすら地面にへばりついている奴もいて、同級生を観察するのが楽しかったって。
格納庫に2機入っていた日本の飛行機は、あっという間に格納庫ごと破壊されたけど、
地面に伏せている生徒達は全員無事で「弾って意外に当たらないモノだなあ」と思ったってさ。

戦争が終わって、予科練から友人が帰って来て、機銃掃射された話をしたら
「飛行機は立体物を撃ちぬくのは簡単だが、超低空で地面の目標に当てるのはとても難しい。
みんな伏せていたから無事だったんだよ」と教えてもらったってさ。



251 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 02:28:20.06 ID:JIKnotcYO
昭和30年代に既に70代だった曾祖父。
60歳前後が平均寿命だった時代、うちの小さな街では長老だったそうな。

いつも縁側に腕組みをして座り、悪さする奴がいたら下駄でシバキ回していたそうな。
そんな悪ガキには曾祖母が飴を渡し、我が家はカミナリ親父と優しい婆さんの構図が出来上がってたみたい。
孫のおもちゃにと自転車を買ったら当時は珍しく、町内のみんなが借りに来たとか。


252 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 02:44:05.51 ID:8cSsWwdj0
昭和のいい頃(たぶん金融恐慌から大恐慌の頃だとおもう)になると統制令だとか出て
近所の同業者が5つくらいあつまって同業組合みたいなの作ったってじいちゃん言ってたな。
ちょうど1900年生まれ。いま生きてたら111歳。写真も残ってるけど、あの頃って写真を
撮るのも記念行事だったみたいで仲の良かった弟と大正ファッションでめかした肖像写真が
残ってる。戦場に行かなきゃならない、とか、空襲で家財やら家族やらを失う、なんて悲惨さえ
なきゃ、あの時代っていまより幸福だったんじゃないのかな。


253 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/12(火) 02:55:09.63 ID:8cSsWwdj0
そのじいちゃんは農業高校に行ったんだけど、ものすごいエリートだったらしい。
戦争の話しは、商売をやっていた関係で持ってた家の蔵に焼夷弾が落ちて財産が
ぜんぶ燃えたとか、被っていた頭巾に焼夷弾の油がかかってボーボー燃えてるのを
娘(おれの叔母)が見つけて消したけどやけどの痕が死ぬまでのこってたとか、
そういう感じの話しだなあ。じいちゃんの年齢的に、ちょうどというか具合よくというか
徴兵のギリのギリんところで免れた感じだったから兵隊に行ったとか徴兵検査とか
そういう話とは無縁だったよ(´Д`) こういうじいちゃんもいるってことで・・





256 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 12:59:04.70 ID:ppPxcMs+0
うちの曾祖父は日露戦争に出征して第二軍として遼陽や奉天で戦っている。
あの世代は「俺達が体を張って日本を世界の一等国にしたんだ」という意識が強くて
第二次大戦中も「東條は国賊だ」と人前で平気で言い放ったり、
自由主義者や無政府主義者を家に匿ったりしてたから、警察署に呼び出されたが
「友人を家に泊めて何が悪い」と逆に署長に食って掛かったりしてたから
家の周囲には特高がいつもウロついていた。在郷軍人会長じゃなかったら逮捕されていた。
終戦後は、戦中に在郷軍人会長してたのでパージにあって、雨後のタケノコみたいに現れた
アカに集中攻撃を浴びて「せっかく戦争が終わったのに、特高の嫌がらせより
アカの嫌がらせの方が悪質だ」と嘆いていたそうです。
朝鮮戦争が始まると、今度はアカの連中がパージ食らって、曾爺さん達が復活して、
昭和30年頃まで町中が落ち着かなかったらしい。


257 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/13(水) 13:18:52.19 ID:7ujIHbzqO

祖母の話。
遠くの空が急に明るくなり、それはそれはキレイだったらしい。「花火みたい」と近所の人達みなで見学。
何かが分からず、近所の退役軍人のおじさんに聞いても「分からない…」とのこと。
だんだんその花火が近づいてきて…

三重県津市が初めて空襲された日の思い出話。





259 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 10:44:53.01 ID:Md6KIQF1O
知人のばあちゃんの父が、当時結構えらい軍人さんだったらしく松代に大本営移す計画のときもその関係で何年か松代に行っていたらしい。
まだ小さかったばあちゃんも満州に住んでいた時期があったとか。
そのばあちゃんの話を聞くと、
戦争のときに食べ物に困ったことなんかなかった、逆に戦争が終わってからの方が父も職を失って大変だったと言ってた当時にしては稀なパターンの人


260 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/17(日) 23:34:00.24 ID:1aRxi6oMO
俺の曾じいちゃんのそのまたオトッツァンは奇兵隊(到人隊)の兵士で戊辰戦争経験者(卒だけど)。五稜郭まで転戦した後上京して御親兵の下士官になった。
でもどういう経緯かいつの間にか熊本鎮台に移って台湾出兵を経験。日清戦争で戦死。農民が兵士になるというのは士族には我慢ならなかったらしく随分ボコッたらしい。(言い伝え)
これが陰湿な陸軍の営内イジメのはじまり


261 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 02:28:35.55 ID:9LogM5AP0
88になる祖母が若い頃、神戸港でピストル拾ったとか話してたな
届けた先の警察に運び屋と疑われてエラい目にあったとか…祖父(旦那)が小さな荷役会社を経営していて、当時(50年くらい前)の神戸市民は日本一羽振りがよかった。


262 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/20(水) 05:34:31.14 ID:zCGjKpefO
うちの爺さんは戦争中、中国方面へ行ってたらしく、現地の料理を楽しんでたみたいだ。
特に鶏の唐揚げ?みたいなのが美味かったらしく、
ケンタッキーで、店員さんに、
「何でアメリカが元祖面してんだ!!」
って食ってかかってた。
んで食い終わると、骨で雑炊作れだの何だのと言い出すから恥ずかしくてよく放置して先に帰ってたなぁ。


263 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 13:56:40.44 ID:4PgH092b0
戦争末期にパタパタと工場が疎開して来たから、幹線道路をトラックが通れる2車線に
大拡張しなければならなくなって、勤労動員でさんざん働かされた話はよく聞いた。
今でもその道路を通ると当時の記憶が戻るらしく
「ここに墓があったから移転した。墓を掘り起こす時は怖かった」
「昼になったが配属将校がいなかったので、勝手に作業中断してこの丘で皆で
弁当食べてたら、配属将校が戻って来て、”誰が中断しろと言った”とブン殴られた」
「(たぶん強制労働と思われる)朝鮮人も来ていた。友人が何気なくアリランを歌ったら
”朝鮮人、バカにするな”とキレられて驚いた。中学生にバカにされたと思ったんだろう」
「せっかく作っても完成した頃には燃料不足でトラックが走れなくて、牛車で運搬してた。
牛車で運ぶならあんな立派な道を作らなくても良かったのに、と恨めしかった。
ただ道路の拡張工事をした事は、戦後になって地域に大きく貢献した。
でも戦時中の軍事物資輸送道路工事という事もあって、実際にそれを無償で作った中学生の
貢献は全く記録が無くて悲しい。戦後に舗装道路化した時の県知事の立派な石碑は
あるのに、どうして汗水たらして工事した我々の貢献を残した記録さえないのか」



265 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/23(土) 22:22:42.59 ID:5SEGRWJ+0
直接表題とは関係ないけど、先日実家へ帰ったとき先祖史料の一斉捜索をしたら
明治時代の軍人(陸軍将校)だったご先祖さんが叙勲の際に貰った賞状が出てきた。
明治18年当時の勲五等と明治28年当時の勲四等瑞宝章を授与されたときの物で
大きさはA2版位はあるんではないかな。結構な大きさにもびっくり。
勲章は以前から所在が判明していたんだけれど、当時の賞状の発見に改めて
驚嘆しました。




266 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/29(金) 02:45:27.45 ID:o7DKBZrgO
B29に突撃して果てた。
もちろん自己責任。
被災家屋には賠償責任あり。


267 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/01(月) 14:10:02.35 ID:pNmk61qs0
戦後にGHQの憲兵が5人ほど家に来てピストル類は無いかと聞いていったという話し。
大きなクロンボがいて怖かったらしい。


268 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 18:53:45.11 ID:xWu1N5nT0
戦前の警官は怖かったは戦後作られたイメージということ
戦前の警官で一般人に「おい、こら」などという奴は皆無で「もしもし、そこの背広の人」
女に対してなら「もしもし、そこのご婦人」だったとか
今なら軽犯罪や迷惑防止条例で捕まるようなこともその場や交番で軽く注意で放してくれたとか
ただ、共産主義者に対しては今の警察より厳しく取り締まったので戦後共産主義者が流したデマだと聞いた


269 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 09:28:00.19 ID:CpHq4bmz0
私服警官の陰湿なイジメはよく聞いた。
爺さん野球の選手だったからバットとグローブかついで歩いてたら
「オイコラ」と呼び止められて「この非常時に、敵国の運動やるとは」と罵倒されたとか、
仲間と肩組んで放歌しながら歩いていたらすぐに私服が飛んで来て
「キサマらと同じ年頃の若者が戦場で戦っているのにお前らはなんだ」と怒鳴られたとか。
「私服が飛んで来る」と言う表現をよくしてた。相当うざい存在だったらしい。

共産主義に関しては新刊本は売ってなかったが、古本屋に行けば普通に売っていたし
インテリの家なら共産主義関係の本なんていくらでもあったし、戦前の学生なら小林多喜二や
徳永直ぐらい読んでいて当たり前で、活動家はともかく、一般学生が共産主義の本を読む事の
規制は事実上なかったと言ってた。
それと、当時は共産主義者より無政府主義者の方が危険視されていた、と言ってた。


270 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 12:01:38.82 ID:qy1Q+hv90
戦前と戦中の違いじゃないか。
>>268は戦前 >>269は戦中の話だろう。
戦前なら俺も戦後言われているイメージより良かったと何度も聞かされた。
GHQ占領下より昭和初期の方がよほど言論・思想が自由だったとか。


271 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/05(金) 13:41:07.83 ID:CpHq4bmz0
>>270
>GHQ占領下より昭和初期の方がよほど言論・思想が自由だったとか。

うちの爺さんは、戦争中よりGHQ占領下の方が検閲や情報統制がキツかったと言ってた。
戦争中は「共産主義は危険思想だ」と言いながら、古本屋に行けば共産主義の本が売ってるように
抜け道があったが、占領下ではガチガチの統制が行われていて、GHQへの批判や
軍国主義の正当化は絶対に許されなかった、と言ってた。



273 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/10(水) 13:42:38.18 ID:v/gXAZ5/0
うちの親戚にも、奥さんが2人目生んで産後の肥立ちが悪く亡くなって、
奥さんの妹が後添いになった家がある。戦中戦後の混乱期にはよくある話だったって。

後添いになった妹は娘を1人生んだけど、その娘がものすごい秀才で京大出て大学教授になった。
うちの親戚でそんなインテリは他にいないから不思議がられている。

戦後教育を受けた娘としては、姉婿の後添いになった母親が不憫で、母親を少しでも喜ばせようと
いつも猛勉強して、勉強は常に学年一番だったらしい。


274 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 04:24:41.93 ID:8trZUcy90
なんか、どっかの本で読んだことのあるような話しをさもありで書いてるやついるな。むりやり
あるような話し書かなくていいよ。共産主義がどうとか、どっかの本で読んだ話し書かなくていいよ。
つまんないことでもいいから、ほんとに爺さんばあさん、ひー爺ちゃん等々から聞いた
素朴で個別の話しで頼むよ。

275 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/11(木) 04:30:47.67 ID:8trZUcy90
つって、今の20代のやつなら、じいちゃんばあちゃんでも大正・昭和生まれの世代だから
紹介しようがないのかねえ



277 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/14(日) 15:51:40.33 ID:HVyLWqI+O
俺の爺さんも警官だった
大正…近所に住んでた無名時代の金語楼と仲良しだった
昭和…226の時に警視庁にいて死を覚悟した
空襲でやはり死にかけた

戦後…長崎の原爆調査団に加わり愕然とする
定年前に退職し田舎で死ぬまで細々と暮らす

おわり




279 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/18(木) 18:28:31.01 ID:LD/RJzEw0
お袋
杉並だから、当時は郊外だったが、226の日、雪だるまを作っていて、警官に、家で遊べと言われたそうな



281 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 00:11:52.76 ID:LkY3RWSJ0
>>279
昨年死んだ俺の父親(大正14年生まれ)は二二六当時満州に居た。
母親(俺の祖母)はクーデターおを起こした青年将校に肩入れしていたが
父親(俺の祖父)に窘められていたとのこと。

満州での暮らしはなかなかモダンで快適、他民族とも上手く行ってて、
「満州の権益を守って大人しくしてればよかったのに・・」とよく残念がっていたね。
ちなみに敗戦後シベリアに送られ、凍傷になって1年半くらいで帰ってこれたのは
ある意味幸運。


280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/19(金) 09:07:35.07 ID:qvw99j3I0
伯母の話だが大阪の郊外でトンボ釣りながら「またも負けたか八連隊~♪」とか歌って遊んでたらしい。
昭和10年代の話のはずなのに、ずいぶんピリピリしていないというか、子供にはおおらかなところがあったのか。




282 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 03:29:24.16 ID:RT28aCyC0
ほんと。満州と朝鮮で満足してればいまは全然違ったのにね。
アメリカのメディアも議会も満州・朝鮮でとどまってるぶんには相当好意的だったのに。


283 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/23(火) 17:21:23.00 ID:yc2WGowT0
しかし、満州とったあたりで制御不能になってしまったからな。

284 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/25(木) 15:26:56.52 ID:qut4Px000
じいちゃんは足が悪くて、軍隊に入れなかったそうな。
友人はみんな徴兵されていくなか、自分は見送り。
悔しい気持ちに追い討ちをかけるように、周りからは非国民扱い。
死にたい気持ちを抑えながら懸命に生きた。

今でも、戦争に参加できなかった事を後悔しながらも、今俺が生まれてきたことを心から喜んでくれている。

葛藤と戦いながら生きてきた87年。
ひ孫が9月に生まれるので、少しでも心の安らぎに繋がればと思います。




287 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 02:37:52.39 ID:LfcHXVvv0
>>284
そう考えてくれる孫に恵まれただけで爺さんは幸せだろうよ。
あんたは爺さんが必死で生きてきた証だ。


288 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/27(土) 13:43:31.08 ID:iT/5vktw0
>>286
そんなに褒めちゃいやん。






292 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/28(日) 20:50:34.56 ID:e7Oqtl3c0
去年亡くなった森繁久彌の父親は安政生まれだったけど
今の時代に親が江戸時代生まれって凄いよな…










300 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/04(日) 15:29:48.71 ID:UBreTisBO
昭和天皇と同じ年に生まれた爺さんは
薩摩士族の出だったけど上京して警官になり
最初の仕事が徳川邸の門番(警備)だったそうな


301 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/05(月) 10:32:54.58 ID:3sgD26BG0
へー大正昭和期でも徳川さまは徳川さまだったんやね。
貴族には官の守衛が付いてたりしたんだろうか。




305 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/28(水) 00:03:43.51 ID:4Y1fB+MI0
もう20年近く前に亡くなってしまった祖父が、私の母にだけ話してくれた話。
祖父は長崎に住んでいた。既に結婚していて妻も子供も居たけれど、みんな原爆
で家も無くなり家族も死んでしまったそうだ。この辺はうろ覚えなんだけど、祖父は
奇跡的に原爆投下時に、頑丈な建物の中にいたのか、無事だった。三菱の関連施設
だったかな?
家族が心配になり、自宅のあった場所へ急いで向かったが、家は跡形もなく
妻がいつも見につけていたロザリオだけが見つかったって。

その数年後に私の祖母(現在94歳)と再婚した。