104 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 11:45:34 ID:kEDzoS3h0
祖父は明治40年の生まれだが、小学校出て商家に丁稚奉公。
盆や年末の小僧さんの仕事に遠隔地のお得意さんの売掛金の回収がある。

田舎だから金を持っての峠越えには山賊が出ると言っていた。当時は姿形で商家の小僧さんだと一目で分かるしね。山賊から自分の身と売掛金を守る方法として、郵便局の局員さんと一緒に峠を越えると言っていた。

現金書留があるから郵便局員も山賊に襲わる可能性があるので郵便局員は特別に拳銃を携帯を許されていて、発砲訓練や護身訓練も受けていて 局員と一緒なら安全だったので、局員の移動時間を覚えておいて後ろをついて行ったそうだ。

局員さんの制服姿や拳銃が頼もしくて憧れだったそうで、よく楽しそうに峠越えの話をしてくれたなあ。

場所にもよるが、大正期一杯ぐらいまで山岳地では山賊出たみたいだよ。
「ああ野麦峠」にも中山七里の山賊の話が出ている。あれは明治末頃の話だな。





106 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 12:34:47 ID:vYklMFFc0
>>104
へ~
自分が無知なだけなんだけど、普通に勉強になったわ






108 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/30(木) 23:36:43 ID:r8BNEWE80
>>97 >>102
わかった なんとかかいてみる
初期設定  祖母の祖母の家は当時のプチ財閥(海運業) 当時10歳くらい

当時の多分寺子屋だと思う そこでは男も女同じ部屋で習うんだけど男女別に右側左側に分けられてて 真ん中にものさしみたいな物を縦に並べて座ってたみたい

で 授業中になったら 先生の目を盗んでよく男の子たちがその棒でつついてきたんだってもちろん騒いだら先生にぶん殴られるので くすくす笑いながらねそうゆうちょっかいをしてきて でも恥ずかしくて やめてとも言えなかったで「やだな。やだな。自分も近所の友達みたいに家で弟妹の世話したたいな。」て思いながら勉強してたみたい

(近所の子は経済的理由で弟妹の世話しながら働いていた)


とまこうゆう話 当時のいち風景 




110 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 06:44:25 ID:P39uPRxF0
>>108
やっぱり昔の先生はぶん殴るのか。
男と女で教室一緒なんだ。
あるていどの家の子でないとやっぱり子守や手伝いで来られないだろうなあ。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/31(金) 09:02:59 ID:q/4atm0K0
子供らしい可愛いイタズラじゃないか
子守りや手伝いで勉強する時間がなかったから
読み書きが出来ない人も多かったみたいだね
時代劇でも字が読めないからお坊さんに読んでもらってるシーンを何度か見た



112 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/01(土) 23:07:57 ID:IRYktRFz0
山賊の話はあちこちでよく目にするね。
県境は警察の目をかいくぐりやすいとか、そういう事情もあったのかね?
サンカの話もどっかで関わってきそう。

車のない時代だから、舗装もされてない。
人通りもなくしかも外灯もない真っ暗な山道だから、
いまとはまったく状況が違うんだろうけどね。


113 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/02(日) 18:38:38 ID:bFki7b+H0
山賊は、現在でもカツアゲやひったくりに形を変えて多発している。
ゴキブリと同じで、犯罪は環境が整えば多発するし、環境が消滅すれば犯罪もなくなる。
ちなみに戦前の日本の警察は全国組織で、都道府県警になったのは戦後の話だから県境は関係ない。

大正~昭和初頭にかけて、
1.第三次鉄道建設ラッシュで鉄道網が充実し、鉄道黄金時代を迎える
2.乗合い馬車の普及
3.関東大震災をきっかけにフォード製バスが全国に普及
という交通革命が全国規模で起きて、現金持って危険な峠越をしなくても
交通機関を利用すれば良くなったから、山賊という仕事が全く儲からなくなって
山賊は消えてしまったんだろ。郵便配達夫は昭和23年まで拳銃保有してたみたいだな。


かつては日本の郵便配達夫も拳銃を携帯していた。これは郵便制度発足当初、配達途上の現金を狙って
配達夫を襲う事件が発生したことから、1873年に欧州の制度にならってフランス製の回転式拳銃を購入し、
配達夫の護身用に用いていたものであり、「郵便物保護銃」と呼ばれていた。 これは警察官がサーベルを
持つようになる4年前の事であり、1948年まで用いられていた。




122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/08(土) 06:33:03 ID:N0ytiNNC0
ええと 祖母祖母の江戸時代の話書いた者だけどー
もいっこあったので投稿してみるね
ウチのじいちゃん(祖母の旦那)はいわゆる田舎の名家 豪農てとこ生まれ

今と違って新しいものとか 外国製のものとかそうそう手に入らないような時代だったらしいんだが
(大正~昭和のかなり初期) まあそうゆう時代
で そんな時ウチの誰かががラジオを買ったんだって。 
もちろんそんときの 村では初めて ラジオは当時の最先端なのでまわりも誰も持ってない。みたいな状況で・・

んで ウチがそれを知った当時の市長?町長?がウチに税金をとろうとしたんだって。


「あそこの家はラジオを持ってる。」  

みたいな感じで。

結局は払わなくて済んだみたいだが もう少しで「ラジオ所持税」みたいなものを払わせられかけた。
て言ってた。 じいちゃんが。





いまじゃ考えられないけどね。
でも 当時は本気だったからね。





124 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 18:23:40 ID:nnKO2JMy0
うちのばあさんは大正末期うまれ。

女学校時代は、陸上部で走り幅跳びの選手だった。
戯曲、小説などを濫読したり、
学芸会?では、肉弾三勇士に扮して、そのあまりに勇猛果敢な
演じ方で、ファンレターがきたとかこなかったとか・・・。

卒業後は、大学教授の家に行儀見習いにだされ、
後に祖父と結婚。

祖父は、甲種合格後ある歩兵連隊の旗護兵として出征
徐州会戦→昭和15年除隊→昭和17年応集→バリ→ビルマ→サイゴンにて
終戦。

極貧の出で、小学校時代は一日2食。昼は水を飲んでがまんした。
軍隊は、衣食住がそろっていて天国だと思ったそうだ。

ばあさんとは、当時教官を務めていた青年学校でしりあった。
ばあさんの親戚は猛反対したそうだが、料亭で婚礼をとりおこなった。

ビルマでは軍曹だったが、上官が戦死するので急遽大尉の階級章を
授けられて食料確保などにあたり、辻参謀が部隊に現れたとき、
重機関銃の弾が6発しかなかったのをみて驚いたそうだ。

マラリアにかかったとき、部下が英軍の食糧倉庫を襲撃してコンデンス
ミルクを奪い、それをもらって飲んだら回復した。

たいめん鉄道を汽車で移動中爆撃にあって列車が横転し、多数の仲間が
死傷した。自分も下敷きになり足を負傷したが、奇跡的に軽症だった。

部下が戦死した際、小指をきりとり ひもにとおして運び、焼いて骨として
空き缶にいれて日本まで持ち帰った。

サイゴンから日本へ帰国するとき、航空母艦が引き上げ船で、
仲間とキャッチボールなどしてすごした。

祖父の慰問袋を空けたら、除隊証明書、92式重機関銃の操典、
支那事変従軍徽章、しらみだらけの「軍帽につけるひさし」なんかが
はいっていた(ほかにもいろいろ入っていた)。









129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/19(水) 19:26:53 ID:ohdTN6uw0
爺さんが言うには真珠湾前の配属将校は予備役や退役軍人の爺さんで
大した事もなかったが、日米戦が始まると士官学校出のバリバリの現役将校が来て
中学校は陸軍の内務班さながらになって、ボコボコにされたと言ってた。

フランスに行った時に自動小銃持って白いピケ帽かぶって完全武装した
十数人の兵士達がパリの路線バスに乗り込んで来て、何があったのかビックリしたが、
現地の人は見慣れた光景なのか誰も気にしない。ただの移動だったらしい。




130 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 01:18:25 ID:CcNzlCyY0
ドイツじゃレオパルド戦車が一般道を走ってるよ。
時速60kmぐらいでスムースに走っていて、ベンツやVWと並走していても
違和感はない、日本でもクレーン車やフィニッシャーとか大型特殊車両が
一般道を走ってるだろ、あれと同じ感覚。
ちなみにレオパルド戦車はキャタピラが道を痛めないように、
一般道走行中はキャタピラーにゴムを装着しているらしい。

戦車が道を走れないのは世界で日本ぐらいじゃないかな。

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 01:58:36 ID:49SHDMCX0
S15に、銀座通りで戦車大行進だったかな?(うろ覚えですまん)
いまじゃあ、考えられんけどねw






133 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/29(土) 01:18:52 ID:DWAX1Vr80
最近、本で読んで面白かったのはS19頃の東京の銭湯事情。
煙突から煙が上がってるがどうかを毎日チェック。煙が出てれば、みんな銭湯に向かう。
裸で湯船の周りに何重にもひとが取り巻いて順番待ち。前のひとの頭をじっとみてる。
湯船に浸かっても、足だけで座る場所なし。
国家総動員法から五年。長い戦争にみんな疲れ切ってたって。













174 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 01:18:15.19 ID:hNKd2KB90
自分の曽曽祖父はわりと人に知られた社会活動家で、明治時代に
キリスト教の洗礼を受けたクリスチャンだったが、妻子に対する
DVは凄まじい(女の長い髪を引きずりまわして殴り、蹴った)ものが
あった、と曽祖母から聞いた。昔から外面の良い男はいたんだな。

177 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 15:32:58.47 ID:JR6+lDbV0
>>174
昔の男のDVって凄惨なものがあるよね




175 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/27(日) 09:58:13.42 ID:SlXbYbAB0
1944年の東南海地震の体験者から聞いた話だと
冬の寒い時期だったけど、ずっと縁側の窓を開けっ放しにしておいて
布団や毛布に包まって寒さに耐えながら、地震がきたらその都度すぐ外(庭)に飛び出して逃げたらしい
たぶん余震ってことなんだろうけど昭和初期の木造家屋なんて地震に弱いだろうしね



179 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 02:25:59.33 ID:2DLdse5j0
>>175
その話、面白いな。
どっかの国の地震対策は、一刻も早く、家から出ること。
かつての日本で、それと同じことをしてたってわけだ。

俺らが習ってきた、机の下に入るって、
学校みたいに、物が少ない場所ではあんまり意味ないんだよな。
机の下にもぐるって指導は、いつから、始まったんだろうな。






180 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/28(月) 16:27:57.51 ID:ODrOnidB0
横浜で戦前、子ども時代を過ごしたばあちゃんが教えてくれた。中国人をからかう歌。差別云々はさておき、そういう時代だったんだな、と。子どもたちもいじめようとか深く考えずに歌を覚えちゃってたらしい。

シ、シ、シナポイ
シナポイのチャラリコパイの
????? シナポイポイ

と歌ってくれた。

あと、ネズミを捕まえると交番でお駄賃もらえたので、山下公園付近の川で捕まえたネズミを尻尾つまんで溺死させて遊んだとか。

改めて書くと残酷だ…。


181 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 01:34:32.70 ID:61Nf0IDN0
>>180
シナポイでググったら、たった七件。
だけどこんなんでてきたぞ。
以下

845 :名無しさん@一本勝ち:2006/09/13(水) 10:33:17 ID:hpJEjsoV0
シ、シ、シナポイ、ナンチクリンノ、パラッパパイボ・・・

って知ってる?

以上
ちゃんとばあちゃんに聞いておくことを奨める。
都々逸も、差別の歌も、絶滅間近の日本の文化なんだよな。

182 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 01:37:39.40 ID:61Nf0IDN0
追加でもこれも。
>>180の空白埋めてるかな?


887 :名無しさん@一本勝ち:2008/05/03(土) 14:01:22 ID:0BRAExep0
シ、シ、シナポイ
ナンチクリンのパラッパパイポ
いまじゃニッシンパイポ
シーナ、ポイ、ポイ




183 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 10:31:01.21 ID:VF7oqgzq0
俺の婆ちゃん、今は福岡に住んでるんだけど元々は東京生まれ。
小学生の頃、毎朝靖国神社で掃除させられてた。

ある日いつものように掃除してると1人の軍人さんがやってきて、
「偉いね。感心感心」って頭をなでられたんだと。

その軍人さん、東条英機だったらしい。



185 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 18:08:42.15 ID:AVKZ49Kw0
>>183
東条英機とかすごいな
軍人って優しい人もいたんだな

186 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 18:40:15.55 ID:sXDgSLR10
東條英機は、民家のゴミ入れ(昔は各家の道に面した所に必ず設置してた)を
覗いて回っては、贅沢していないか等の民情視察をしてたという人だから、
良く言えば庶民的で腰の軽い人、悪く言えば秘密警察体質だったんだろうな。





184 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/29(火) 15:20:02.83 ID:t1LLwHyMO
愛知の尾張一宮は名古屋空襲の余波で一面更地になってたそうな
各地が在日外人に不法占拠されるって情報が流れてて
地元の腕っぷし強い人らがやらせるかってしかも皇家縁がある土地だから自警団みたいになってたって
行き過ぎて的屋だらけになったらしいがwお陰で在日外人は少ないなぁ日本人ヤクザは多いが
婆ちゃんが嫁入り挨拶来たとき曾祖父がチェーン片手にブイブイ言わせてて思わず一回逃げたとか言ってたw




187 :名無しさん@お腹いっぱい:2011/04/03(日) 01:21:41.00 ID:zQ4yWfY00
戦争中、じいさんは某半島にある軍事港に召集された。
そこで訓練を受けて東南アジアに出征する予定。
訓練中寝ずの番があり、ほとんどの兵隊はこっくりしてしまい上官に叱られた。
がじいさんはこっくりしてもタイミングよく上官が見回りにくる前に起きたので、
「お前はなかなかできる奴だな」と誉められて可愛がってもらったらしい。
いざ港に船がきた頃じいさんは病気になって家に帰らされた。
いわく「俺は要領がいいんだ」
じいさんが乗るはずだった船は出港してすぐに敵の攻撃を受けて沈没した。
こういう話を警察官だった娘婿に酒の席でよく話していた。
そういえば押入れに銃があったのだが、あれはどこへいったのだろう?



じいさんの弟は帝大生だったので、士官になってグアムに出征した。
現地の人にとてもよくしてあげたそうで、帰国時海に落としてしまった腕時計を
現地の人が一生懸命探して見つけてくれたそうだ。

昭和40年代、この大叔父の大学生だった長男が行方不明になった。
長男の下宿をじいさんが訪ねたら、身の回りの品も、貴重品(健康保険証や
通帳の類も)そのままで、住人は連絡が取れず行方も分からないまま。
当時北の国へ連れていかれることが多く、優秀な学生であった彼も
連れていかれたのだろうと語っていた。

ばあさんの体験談では、濃尾地震の折は出かけていて、ものすごい揺れがあって
自宅のほうを観たら土煙がもうもうとあがってなんだろうと思ったら、
自分の家の土塀が崩れていたんだと。
伊勢湾台風の時は、家がガタガタと揺れて皆で蔵に避難したが、ひいじいさんは
「誰かがおらんと家が壊れる」
と、1人で家に残ってたそうだ。
ひいじいさんがじいさんに買ってあげたグランドセイコーの腕時計は
自分が大事に持ってますが、いくらくらいの価値があるんだろう。


188 :名無しさん@お腹いっぱい:2011/04/03(日) 01:35:34.86 ID:zQ4yWfY00
「要領がいい」ってのは、こっくりしても叱られなかったことで、
病気になったことではないです。
この時の病気治療がもとで肝炎になったじいさんは、
肝炎が進行して肝細胞癌になった。

連投スマソ






189 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/18(月) 15:07:28.69 ID:Hhbi5ePS0
近所の99歳のおじいさんいわく
「大砲の弾も飛行機の爆弾も怖かったが、いやー地震のが怖いな、予想つかねえんだもん」
だそうだ(うちのあたりは震度6強)
元陸軍少佐で南方に行ってたらしいから、正直な感想なんだろう








192 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/19(火) 05:12:19.13 ID:KfFD4WC2O
今じゃ有り得ないが、村の寄り合いや飲み会でマジでうんこ投げたりして悪ふざけしてたって。
何かそういう事をしていい飲み会が年一回あったみたい。







194 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/24(日) 07:07:04.13 ID:NKqaROrm0
江戸や明治あたりまでの文学作品とか難しい口語体だし
人々が使ってる言葉も今と全然違う異空間、異次元なイメージで思ってたけど
安政2年生まれの犬養毅の昭和初期の録音インタビュー音声聴いても
意外なほど現代と変わらない言葉で話してて驚いた経験ある


195 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 00:21:31.04 ID:hU1VxEfsO
徳川よしのぶの肉声テープもあるらしい
誰か聞いたことありますか?

196 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 16:21:32.50 ID:AaayCLBuO
どこのスタジオでレコーディングしたんだ?

197 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/26(火) 16:52:28.61 ID:UX0zGiC80
>>196

実業家の渋沢栄一は一橋家当主時代に家臣である平岡円四郎の推挙によって登用した家臣で、明治維新後も親交があった。
渋沢は慶喜の晩年、慶喜の伝記の編纂を目指し、渋る慶喜を説得して直話を聞く「昔夢会」を開いた。これをまとめたのが『昔夢会筆記』である。
座談会形式で記録されている一部の章では、老齢の慶喜のいわば肉声に触れることができる。
「島津久光はあまり好きじゃなかった」「鍋島直正はずるい人だった」と本音を漏らすあたり、彼の性格と当時の心境が窺える。
慶喜の死後、こうした資料を基に『徳川慶喜公伝』が作られた。






200 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/08(日) 16:05:33.09 ID:MsCuoudT0
1901年生まれで93年に死去した祖父は現在の埼玉県和光市出身。
青年時に2人の歴史上の人物に遭遇し、うち1人には話し掛けられたと言う。

1人は東条英機。場所は現在の板橋区成増1丁目。時は不詳だが、
昭和初期にあった大きな公園に東条と大勢の部下が来ていた。
当時宮大工で仕事帰りに見かけたと言う。
話し声を聞こうと近くまで寄ると、東条は近所の子供たちの頭を撫でながら、
「大きくなったら立派な軍人になれよ。お国に尽くせよ。」と言っていた。
但し、この当時の東条の役職が首相であったかどうかまでは聞いていない。

2人目は昭和天皇。場所は皇居。正確な時は不詳だが恐らく戦争直前か戦時中。
徴兵として軍人ではなく、力仕事をさせられていた祖父は皇居に連れて行かれ、
土嚢を運ぶ作業に従事していた。そこに後ろから「大変ですな」と声を掛けられた。
「当たり前だろ」と思って振り向いたらそこに天皇が立ってにこにこ笑っていたと言う。
祖父をはじめ傍にいた他の人たちも全員その場で固まってしまったとの事。

この一件があって以来、祖父は戦後一貫して天皇家に敬意を払い、皇室一家の写真だけ
飾った部屋を設けたり、天皇誕生日や皇室に関係した休日などには必ず家の前に日章旗
を掲げた。天皇崩御の昭和64年1月7日には半旗を掲げたのを俺も覚えている。






201 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 11:08:22.27 ID:OkVcL4VC0
↑東条に遭遇は兎も角、昭和天皇に声をかけられ云々は作り話しにしても下劣過ぎる
のでは? そもそも人間宣言をされる前の陛下は一般人と口を利いたりモノを手渡し
するなんてことは絶対になかった(必ず、侍従とかの口や手を通した。また直接ご尊
顔を拝するなんてことは許されなかった。)はずだ。 カキコする人間の年齢が下が
ってくるとネタのレベルも下がってくるのは時代かなぁ。


264 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/21(木) 20:35:10.22 ID:HikfVfku0
>>200
昭和天皇の話は終戦の年ならありえる
当時、吹上御苑に防空壕を作っていたが、天皇がお忍びで視察して兵士に話しかけたことが、読売新聞の連載「昭和史の天皇」に出ていた
連載は本になって大きい図書館にあり、それを読んで知った




202 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:05:49.70 ID:f921u/5j0
母方の曾祖父は文久年間の生まれ。
母から聞いた話。
曾祖父の両親は甲州で結構大きな店舗を営む商人だった。
ある晩、夫婦(曾祖父の両親)が店を閉めて寝ようとしたら
いきなり戸を蹴破って、浪人数名が押し入ってきた。
浪人たちは全員、ぎらぎらする抜き身の刀を下げて寝室に入り
布団の上でがたがた震えている夫婦の目の前で無言のまま
行灯を横になぎはらった。
そして「佐幕運動の資金を徴発に来た、生命が惜しくばカネを出せ」
と言った。身一貫で叩きあげたがめつい夫(曾祖父の父)はとっさに
「嫌だ」 と言ったとたん、抜き身が光り、夫は刺殺された。
妊娠中だった妻(腹の中にいたのが曾祖父)は一も二もなく、用箪笥からあり合わせの
カネを全部差し出して、お帰りいただいたそうだ。
その時妻も刺殺されていたら、私はいなかった。
「本物の佐幕浪人ではなく、ただの強盗だろう、本物の武士かどうかも
怪しい。甲州街道を通って江戸からそんな連中が大挙して来ていた」
と曾祖父は生前語ったとか。
本物の浪人だったかもしれないが、「御武家様」に対する尊敬があった
時代の人ゆえ、まがりなりにも武士が強盗まがいのことをするとは
信じたくなかったのだろう。


203 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/10(火) 13:09:18.07 ID:f921u/5j0
>>202訂正 ×と曾祖父は生前語ったとか 
○と曾祖父の母は生前語っていたとか